9月12説教 ・聖霊降臨節第17主日礼拝
「霊と真理をもって礼拝する」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書4:10~26
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山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいますが、先週から有名な「サマリアの女」のお話しの箇所を読んでいます。3回に分けて読むうちの2回目です。今回の箇所は「神の御子イエス・キリスト」の、「傷つき、心を閉ざしている人をなんとか救いに導きたい」という愛と情熱が溢れんばかりに表れている箇所です。
皆さんはどのようにして「イエス・キリスト」と出会われたでしょうか?傷ついている時にキリストがそっと近づき、心を開いていたという方も多いのではないでしょうか?小さな頃から教会にいくなどして「なんとなく洗礼を受けた」という方でも、その後傷つくような出来事に遭遇し、心を閉ざしていたとき、「キリストがそっと心の中に入って下さり、心の扉を再び開いてくださった…」そのような経験がおありなのではないでしょうか?
今朝はぜひ「サマリアの女」の気持ちになって、イエス・キリストの愛の言葉・救いの言葉を味わっていただければと思います。そしてもう一つ。今この世には「傷つき、不満を抱え、心を閉ざしている人」がたくさんいます。そういう方々が一人でも多く「イエス・キリストの愛に触れることができるように」願いながら聞いていただくと幸いです。
まず、先週の箇所である1節から9節を簡単に振り返ります。
先週の主題は「弱い者となって、私達に近づいて下さる、イエス・キリスト」を感じていただくことでした。
当時のユダヤの人たちは、民族的対立のため、ガリラヤに行く際にはサマリアを通りませんでしたが、イエスは敢えて、サマリアを通られたのです。そしてサマリアのどこに行かれたのかというと…それはシカルという町にある「ヤコブの井戸」という場所でした。
長距離を歩いて移動されたイエスは「疲れ切っておられて」その井戸に座り込まれ、そして喉の渇きを覚えられたのです。そこへ「あるサマリア人の女」が水を汲みに来ました。この女は人目を避けるため、できるだけ人と会わないようにするために「重たい水がめをもち1KMの道を暑いお昼時に」水を汲みに行ったのでした。
多くの人からうわさ話をされ、人間不信になり人目を避けているこの女性、しかしこの人に対し、喉が渇き、疲労されていたイエスが「水を飲ませてください」と頼まれたのです。「低くて弱い、求める者」になって、「相手を上に置いて」イエスはお願いをされた。そのようにして、「人間不信に陥っていたこの女」との対話を始められるのです。
聖書には書いてありませんが9節と10節の間で「実際に水を飲まれた」と考えられています。喉の渇きをいやし、一服いれたところで、次の話が始まります。それでは今回の箇所である「10節から26節」を味わってまいりましょう。
まず10節11節です。
「イエスが答えられた」となっていますがむしろ、ここではイエスの方から話を始められ、それに対し女が11節で答えたと理解しましょう。
10節のイエスの言葉は、「あなたは私を誰だか分かっていない。もし分かったら、あなたから生きた水を私に求め、そして私は生きた水をあなたに与えることができるだろう」この語り掛けに対し、女はつっけんどんな答えを返します。それが11節です。
「先生、あなたは今私から水を飲ませてもらいましたよね。それなのにあなたは私に水を与えることができるとおっしゃる。第一、あなたは水を汲むものももっていませんよね。まさかあなたは、父祖ヤコブのようにここに井戸を掘って、私達に水を与えるおつもりではないですよね?あなたは一体何者ですか?」そのような馬鹿にした返答だったのです。
それでもイエスは重ねて「熱心に!」女に語られます。それが13節14節です。
この2節で書かれていることは、真実で、福音の根幹ともいえる事柄です。今日は一言だけにしますが、イエスが私たちに与える「目に見えない、霊的な飲み物」は、私達の心の中で泉のように働きます。そして私たちは霊的につまり心の面では「永遠に渇くことがなくなる」のであります。
しかし、女はこのことを深く悟ろうとするのではなく、馬鹿にしたように「そんな便利な水があるなら今すぐ下さいよ!」という感じの返事をします。
このように、女は心を開いて対話はしましたが、目の前にいる方が誰なのか真剣に知ろうとしないばかりか、イエスを馬鹿にしたような態度をとってしまったのです。
でも…彼女を悪くは言えないと思うのです。冒頭で、今朝は「サマリアの女の気持ちになってこの箇所を味わおう」とお話ししました。皆様はいかがでしょうか?
イエス・キリストが最初にあなたに対して「私が救い主だ。私はあなたの心の中に永遠の命に至る水を与えることができる」とお語りになったとき、あなたはどのような反応をしたか、思い出してみてください。
私も最初は、このサマリアの女のように「冷たい態度」だったように思います。皆が同じだと思うのです。
しかし!イエス・キリストは私たちがどんな態度でいようとも、熱く私たちの心に語り掛け、そして「永遠の命へ」と導こうとして下さる。だからこそ、今の私たちがあることを覚えましょう。このイエスの語り掛けを体験をする人がさらに増やされるように祈りましょう。
さて二度にわたる「女の冷たい反応」を受けたイエスが、それでも彼女を救うために何をされたのか、それが15節~18節です。一言で言うなら、女の心の中の「一番触れられたくないところ」に入って行かれたのです。
※ここで注意したいことがあります。伝統的にサマリアの女が「性的にふしだらだった」とか「性的な罪を犯してきた」と解釈されることが多いですが、それは聖書には出てこないことです。最近の主流の解釈の仕方は「この女性を当時の結婚制度のもとで苦しんだ人」として捉えます。
女性の人権が軽んじられていたこの頃、結婚した女性は男性の些細な不満で簡単に縁を切られました。例えば、夫の側が「料理が上手くない」と主張すれば、それだけで離婚が成り立っていたそうです。またルカ20章などに出るとおり「後継ぎを残すために、やもめが夫の兄弟と結婚させられる」ことが実際にありました。サマリアの女が「男をとっかえひっかえしていた」と勝手なレッテルを貼るのではなくむしろ、彼女は辛い生活の連続だったこと、しかしそこにイエスが愛をもって触れて下さったことに目を向けるべきではないでしょうか?
女は重い水を汲んで帰り世話をしなきゃいけない人がいる…それは18節のイエスの言葉からもわかります。それが誰なのかは読み取れません。しかし、サマリアの女は人目を避けて生きなければならなかった、「心が傷ついていた」ことだけははっきりと分かります。
世の中にはDVに苦しんだりして、離婚して生きねばならない方がたくさんいらっしゃいます。そういう方々はコロナ禍で非常に増えているといわれます。私たちは苦しみにある方々の事情を勝手に詮索するのは止めましょう。むしろ祈りましょう。今回の箇所から分かるように、「そういう方々の苦しみを知っていて下さるお方がある」その希望が届くようにと…。
「わたしの気持ちなんて誰も分かってくれやしない。そして神様は私を救ってくれやしない…」きっと苦しさから、また絶望から神を礼拝することを放棄してきたであろうこの女ですが、その思いをすべてご存じのお方に出会ったことで神を畏れ敬う気持ちが湧いてきたのでしょう。
19節、20節をご覧ください。女はイエスのことを「神の遣わした預言者だ」と理解した上で「神に礼拝をささげるにはどうしたらよいか」と尋ねたのです。
中心的に尋ねたのが「礼拝はどこでささげればよいか」ということでした。
サマリア人はユダヤ人と対立することで「礼拝の仕方そのもの」が分からなくなっていました。22節でイエスが言われている通り、ユダヤ人は律法に則り神殿で礼拝をささげていました。しかし、サマリア人はゲリジム山に別の神殿を建てて、旧約聖書も独自の解釈をして礼拝を守っていたのです。
サマリアの女は「あなたによって私は神の前に出て礼拝をささげたい気持ちが起こってきた。でも礼拝の場所について、ささげものの仕方についてサマリア人とユダヤ人で教えていることが違う…。」そう思って純粋にイエスに質問したのです。
しかし、イエスの返答は彼女の思いを遥かに超えたものでした。その答えが記された21節~24節を読んで説教を閉じます。
ここでイエスが告げられた中心的なこととは「特別な場所や、ささげものに捕らわれない礼拝、地上のすべての民族がそれぞれにささげられる新しい礼拝の時代が今ここに来ている」ということでした。その新しい礼拝は「霊と真理をもってささげる礼拝だ」と教えられます。
「霊と真理をもってささげる礼拝」とは何かというと、キリストを信じることによって与えられる「聖霊」によって新しくされた命と、誠心誠意をもって神の前に出る礼拝です。
サマリアの女は、今まさにこの「新しい礼拝」に招かれたのです。21節で「婦人よ、私を信じなさい」とイエスは言われます。「あなたは傷ついてきた。生きる意欲を無くしてきた。でも今神のみ前に出ようとしている。これから新しい命が始まるのだ。神の御子であり、永遠の命を与えることができるこの私を通して、誠心誠意、天の父の前に礼拝をささげよう。そのことを天の父なる神は心から待っておられるのだ」
彼女が、新しくされてどのように変わったかは来週詳しく見ます。今日は、苦しみの中にあった一人の女性が、イエスの愛と熱意により、神との関係を回復し、礼拝に招かれたところまでを見ました。
私たちの人生の歩みにも様々な苦しみ・悲しみがあります。自分の気持ちを到底理解してもらえないと思う思いから、人目を避けることもあります。それでも、救い主イエス・キリストは心の中に語り掛けてくださいます。その愛を改めて深く感じましょう。(黙祷・沈黙)
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