「静かにささやく声が聞こえた」7/30 隅野瞳牧師

  7月30日 聖霊降臨節第10主日礼拝
「静かにささやく声が聞こえた

隅野瞳牧師
聖書:列王記上19:1~12


 本日は、弱っている者を主がどのように取り扱い、再び遣わしてくださるのかについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.主は力を失った者を休ませ、糧をお与えになる。(7節)

2.主は静かな御声によって御自身を示される。(12節)

3.神の働きを受け継ぐ者、信仰を同じくする者は備えられている。(15~18節)

 列王記はソロモン王の死後、北イスラエルと南ユダに分裂したイスラエルの王の列伝です。今日の箇所では、北王国イスラエルでアハブ王の時代(BC864頃)に用いられた預言者エリヤ(「主こそ神」の意)について記されています。アハブ王は北イスラエル王国の中でも最悪な王とされ、外国から迎えた妻イゼベルとともにバアルとアシェラという偶像を持ち込み、バアル礼拝が公然と行われるようになりました。民はバアルから雨や豊作がもたらされると考えて真の神から離れたのです。王妃イゼベルは主なる神に仕える預言者たちを迫害し、その多くを殺害しました。

エリヤは「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と宣言し、エリヤが告げるまで数年間干ばつが続くと預言しました。エリヤは一人でバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人とカルメル山で対決しました。双方がそれぞれの神に祈りましたが、あふれるほど水を注がれた祭壇に火をもってお答えになったのは主なる神のみでした。主こそが真の神であることが示され、イスラエルの民はバアルの預言者たちを捕らえて滅ぼしました。そして神はこの地に雨をもたらしてくださったのです。

1.主は力を失った者を休ませ、糧をお与えになる。(7節)

「イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。『わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。』それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。」(2~3節)

しかしアハブもイゼベルも悔い改めることなく、かえってイゼベルは、自分の神々にかけてエリヤを殺すと宣言したのです。彼女の言葉を聞いたエリヤは、直ちに逃げました。エリヤは自分をお用い下さる主なる神を信じ、祈りつつ主のご用をさせていただいたに過ぎません。おそらく彼はカルメル山での対決と雨乞いの祈りに、すべてを注ぎ尽くしてしまったのです。エリヤはガリラヤの西にあるカルメル山から、なんとユダの南部ベエル・シェバまで逃げました(地図⑤)。火をもってお答えになった主にひれ伏し、熱狂的に「主こそ神です」と歓呼した民もまた、イゼベルの処刑命令が出ると沈黙してしまいました。

「自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』」(3~4節) 

イゼベルの手の届かないところまで逃げたものの、エリヤの恐れは消えることがなく、うつ状態に陥りました。心身の限界でした。そして3節の「エリヤは恐れ、直ちに逃げた」はもともとの言葉では「彼は起きて彼の命のために走った」となります。彼は自分の命を守ろうとして逃げました。自分の心身をいたわることは必要ですが、彼はそこで神から目を離し、恐れに支配されてしまったのでしょう。彼は従っていた従者を残し、一人荒れ野に入って一日の道のりを歩き続けました。

彼は自らの弱さをそのまま主にぶつけます。あれほどの出来事があったのに、世の中は何も変わっていない。主なる神はなぜバアルの保護者であるアハブとイゼベルに、国を支配する権限を与え続けられるのか、自分のしたことは無意味だったのかと。多くの主の預言者が殺され、民も主の契約を捨てる生き方にもどってしまった現実を見て、彼は燃え尽きてしまったのだと考えられます。エリヤの信仰は揺らいでいました。私たちも、平和が実現しますように、教会に導かれ救われる人が起こされるように、あの方が立ち直ることができるようにと祈って主のご用に仕えても、そうでない現実を見ると、祈っても変わらないではないかと、祈りが失われてしまうことがあります。

主よ、私よりも才能においても、力においても、優れた預言者はたくさんいたはずです。それなのになぜ、預言者の中で最も弱く力のないこの私がただ一人残ったのですか。…エリヤは先祖のすばらしい信仰の歩みを思いながら、自分はそんな歩みはできなかったという思いにとらわれ、えにしだの木の下で横になって眠ってしまいました。

「御使いが彼に触れて言った。『起きて食べよ。』見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶(かめ)があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。」(5~6節) えにしだの木は荒野では、強い日差しを避けることのできる数少ない木でありましたが、弱ったエリヤがここで眠ってしまうならば命の危険がありました。主は御使いによってエリヤを守らせます。「起きて食べよ」。エリヤが最後の場所と選んだところに主の御使いが現れ、パンと水を与えて彼を支えたのです。神は傷ついたエリヤに、まずはただパンと水を届け続けられました。エリヤはパン菓子を一かけら口に運び、水を飲み、また横になりました。

最後の晩餐で弟子たちに向かって、主イエスは語られました。「取りなさい。これはわたしの体である…これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ14:22,24)聖書において食事とは、単に生きるために栄養をとることではなく、命である神との交わりを表します。主イエスは御自身が命のパンであり、御自身を信じる者は、その十字架と復活によって罪の赦しを与えられ、永遠の命に生きると示されました。神と共に生きる命、その恵みに私たちは聖餐によってあずかります。弟子たちに差し出された主の御体と血、それは罪や弱さの中で主の前から逃げ去ってしまうあなたがたが、どうしても食べなければならない命である。わたしの命を食べて生きよ、と主イエスは言われるのです。主は私たちにも「生きなさい」と御声をかけ、具体的な必要を満たし、御自身の命をもって養ってくださいます。

「主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、『起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ』と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」(7~8節) エリヤは食べて眠りますが、起きると再びパンと水が用意されていました。主の御使いはエリヤに、あなたの旅はまだ終わっていない、あなたには使命が、やるべきことがあるのだと語りかけます。十分な睡眠と食事をとったエリヤは力づけられ、40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに到着しました。ベエル・シェバからシナイ半島の先端にある神の山ホレブ(シナイ山)までは、300kmほどの長い旅です。(地図②)主がかつて燃える柴の中でモーセに御自身を顕し召命を与えられた場所、エジプトを脱出した民が十戒を与えられ神と契約を結んだ山です。民族の出発点、信仰の原点である山に彼は導かれたのです。

 「エリヤはそこにあった洞穴(ほらあな)に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」(9節) エリヤは弁明します。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」(10節) もはや主を信じて生きているのは自分ひとり、命をつけねらわれている状態で、このわたしに何ができるといわれるのですか…?今、エリヤの考えは自分中心に回っていました。アハブ王の側近であるオバデヤが、主の預言者100人をほら穴に隠して養っていたことをエリヤは知っていたはずですが(18:4)、彼は否定的なことしか見えなくなっていました。

「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。」(11節)苦しみや悩みの中に置かれた時、私たちは外に目を向けることが出来ず、自分の暗闇から抜け出せない時があります。けれども状況がよくなり問題が解決すれば前に歩み出せるのではなく、まずこの無力な自分のままで神の御前に出るよう主は招かれます。その時に、主が押し出してくださるのです。

2.主は静かな御声によって御自身を示される。(12節)

「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。」(11~12節) 

主は彼の前を通り過ぎました。激しい風、地震、火は、神の臨在のしるしとされていたのです。モーセが十戒をいただいた時にもそうでした(出19:18)。しかし今、主はこのような現象の中でエリヤに御自身を顕されませんでした。私たちは神が私たちと共におられることを、成功や癒しなど特別な体験の中に求めたくなるものです。エリヤもバアルの預言者との対決の時には天から主の火が降り、自分の戦いが実を結ぶという達成感や喜びがあったでしょう。しかしそれは彼の信仰を、継続的に生かすことにはならなかったのです。

「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」(12~13節) 激しい風、地震、そして火の後、静かにささやく声が聞こえてきました。エリヤは外套で顔を覆い、洞窟を出ました。その声に聖なる神の臨在を知って畏れたからです(出エジプト記3:6)。

真の神は何かわからない力によってではなく、「静かにささやく声」として私たちに出会ってくださいます。その御声を聞くために私たちは聖霊の助けを願って聖書を読みましょう。

祈りは願い事を一方的に言うものではなく、神の御声を聞くことから始まります。一人ひとりがこの御声を聞くならば、今この時に自分は何をするように呼ばれているか、神が示してくださるでしょう。そして今私たちに「静かにささやく声」として語られる神の言葉、それはイエス・キリストです。キリストは御自身を、奇跡を起こして信じさせることはなさいません。信仰が本当に起こるのは、外面の奇跡的な出来事を通してではなく、神の言葉に真実に聞き入り、それに従い喜んで神のみ心を行なおうとする人間の、心と人格においてです。人となり十字架につきよみがえられた主イエスに聞き、私たちが造り変えられていく時に、神の力と真の恵みが表されるのです。

「ここで 何をしているのか。」神は私たちに問われます。エリヤがバアルの預言者たちと対峙した時、それは主のため、また愛する民のためだったはずです。しかし自分の命のために生きるようになったとたん、彼は弱くなりました。あなたの原点はどこか。どこに向かおうとしているのか。すべてご存じでありながら神は私たちに問いかけられます。それは私たちが自分を見つめ、神に向きなおり、その命によって再び立ち上がるためなのです。神が私に語りかけてくださる。その言葉において孤独な者、絶望する者は神と出会うのです。

3.神の働きを受け継ぐ者、信仰を同じくする者は備えられている。(15~18節)

主はエリヤに新しい使命を与えられます。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」(15~16節)。 エリヤが望んでいた神の声。それは、苦しみ叫ぶ自らの声に同意してくれる神の言葉でした。「これまでよく働いて来た。もう十分だ。」神がそのように語りかけてくれることをエリヤは望みました。しかしそれは神の声ではなく、エリヤの内なる声に過ぎないのです。神はご自身の一本線を変えることは決してありませんが、それは誰よりも私たちを愛し、すべてをご存じのうえでなされることです。だからこそ、一寸先も見えず絶えず揺れ動く私たちは心強いのです。救いもそのためのご奉仕も、私たちが力を尽くして保たねばならないのではなく、永遠に変わることのない主の真実と憐みによるのです。

主は彼に新しい使命を与えられます。それはダマスコの荒野へ帰り、主が選ばれた者たちを任職することでした。これを通して主はエリヤに同労者がいることを教えて、励ましてくださいました。アラムの国にはハザエルという王を、北王国にはエフーという王を、そしてエリヤの後継者にはエリシャを。この三人がエリヤによって始められた働きを完成させ、アハブ王とイゼベル、またバアルの預言者を滅ぼすと示されました。神の選びの民はエリヤの信仰の熱情の力で保たれるのでなく、神ご自身の熱情と支える力で保たれるのです。

私たちは一人で主の務めを担うのではなく、やり残した使命は次の人が継承していきます。「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた」(使徒13:36)思うように事が運ばない時には、救いの御業を始めて私をお選びになったのは主ですから、自分が委ねられている場で忠実に仕えて、あとは主が満たしてくださると信じて次の人にお任せすることも大切です。特に預言者の後継者として仕えていたエリシャに対して、エリヤは悩みや弱さを含めての祈りを、神にささげられた者の生きざまを示すために、生きる必要がありました。私たちは次に続く人たちに、罪赦されて主と共に生きるってこんなにすばらしいことなんだと、自らの破れも含めて見ていただくために、生かされています。私の存在が次に続く人の励ましとなり、道しるべとなるなら、どんなに幸いでしょう。

そしてエリヤに慰めの言葉が与えられます。「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(18節) 七千は、完全を表す七と多数を表す数字千から構成される象徴的な数でしょう。あなたは一人ではない、今あなたには見えないかもしれないが、あなたと共に働く者、同じ信仰を持つ者がいる。多くの戦いがなおあるが、神は必ず御自身の民を残しておられるという約束です。

真の信仰者はいつの時代も少数者です。しかし主はアブラハムの時から小さき者たち、その1人をもって救いの御業を成されました。今、主を信じて新しい命に生きている人がいます。酷暑の中、さまざまな困難の中でも主を礼拝するために、ここに来ておられる方々がいます。ご自宅や職場で、心を合わせて御言葉に聴く友がいます。なんと感謝すべきことでしょうか。エリヤは「自分だけが」という孤独と絶望の中にいましたが、多くの同労者や兄弟姉妹たちに囲まれていることを知り、立ち上がることができました。神はいつの時代もご自身のしもべを用意しておられます。御言葉によって冷静にされて、主の事実をしっかり見てまいりましょう(ヘブライ11:1)。私は一人だと思うととたんに苦しくなりますが、誰かが一緒にいてくれる、声をかけてもらう、祈ってもらえると全然違います。それが互いに愛し合う教会です。声をかけあっていきましょう。私たちは小さくても、変えられた一人ひとりが教会から主によって遣わされ、地の塩としてそれぞれの場に主の愛を運ぶ時に、必ず何かが変わると信じます。祈りましょう。