「わたしをここへ遣わしたのは、神です」11/22 隅野瞳牧師

  11月22説教 ・降誕前第5主日礼拝・収穫感謝合同礼拝
「わたしをここへ遣わしたのは、神です」
隅野瞳牧師
聖書:創世記45:1~15

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 本日の箇所では、神の救いの大きなご計画の中で、私たちは使命を与えられていることが記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。

1.悔い改めは、神と出会う場所である。(44:33~34)

2.神の恵みのご支配を知った者は、和解に導かれる。(15節)

3.私が今の私であるのは、救いの恵みが周りの人や未来に伝えられるためである。(7節)

  ヨセフは12人兄弟の下から二番目で、父ヤコブが年をとってから生まれたので、他の兄弟たちよりもひいきされていました。ヨセフは父母や兄たちが自分を拝むようになるという夢を見たと語ったので、兄たちはヨセフをますます憎むようになります。兄たちは父から離れたところでついにヨセフを穴につき落とし、ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまいました。その後ヨセフは無実の罪で牢に入れられてしまいますが、神はヨセフと共におられました。エジプトのファラオの夢を解いたことで、ヨセフはなんとエジプトの総理大臣にまで抜擢され、食糧貯蔵のための監督をすることになりました。

 ヨセフが解き明かしたファラオの夢は、七年の大豊作の後七年の飢饉が始まって、穀物がまったくとれなくなるというものでした。飢饉はエジプトだけではなく周囲の広い地域、ヨセフの家族が住んでいるカナンの地にまで及びました。ヨセフによって穀物が貯蔵されていたエジプトの国は余力がありました。ヤコブはエジプトに穀物があると知り、食糧を買うために十人の息子をエジプトに行かせることにしました。しかし

 ヤコブはヨセフと母が同じである末っ子ベニヤミンを大変かわいがっていましたから、ヨセフのようにベニヤミンに不幸が訪れてはならないと、エジプトには行かせませんでした。

1.悔い改めは、神と出会う場所である。(44:33~34)
 さてエジプトに来た兄たちは、大臣であるヨセフの前に出てひれ伏し、穀物を売ってくださいと願います。四十歳となり、ファラオに次ぐ権力をもつ者としての衣装を着て、エジプトの言葉で語るヨセフ。兄たちは目の前のエジプトの総理大臣が弟ヨセフだとは全く気づきません。しかしヨセフの方はすぐにそれが兄たちであると分かりました。忘れようとしていた恐ろしい過去がよみがえり、ヨセフは兄たちを「お前たちはこの国の弱点を探りに来たスパイだろう」と厳しく問いただしました。兄たちは必死にそれを否定し、自分たちはカナン地方に住む12人兄弟で、国に年老いた父と末の弟がいて、あと一人の兄弟はいなくなりましたと説明しました。ヨセフは兄弟のうち一人を人質として監禁する、末の弟を連れて来れば人質を釈放すると命じました。

 兄弟たちは、「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。」(42:21)と悔いました。兄たちはエジプトの総理大臣が、自分たちの言葉を理解できるとは思いもしませんでした。ヨセフはいたたまれなくなって席をはずして泣きました。彼らに対する恨みの思いが少しやわらいだヨセフは、食糧の代金をそっとそれぞれの兄弟の袋に返しました。そしてシメオンが人質として残ることになりました。

 飢饉はなお続き、持ち帰った穀物も食べ尽くされてしまいました。もう一度、ベニヤミンを連れてエジプトに行かなければなりません。ヨセフを失ってから、ヤコブにとってベニヤミンが最愛の息子でしたから、ヤコブは彼をエジプトに連れて行くことに反対します。その時兄弟の一人であるユダは父を説得しました。

「もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。(43:9)ヤコブはこの言葉に押し出されて神にすべてをゆだねる決心をし、ベニヤミンを兄たちとともに送り出しました。

 さて兄弟たちがヨセフの前に進み出ると、ヨセフは彼らを屋敷に招き、特に同じ母から生まれた弟であるベニヤミンを歓迎します。彼らが食料を携えて国に帰ろうとする時、ヨセフは執事に命じて、ベニヤミンの袋に自分の銀の杯をこっそり入れさせました。そして彼らがまだ遠くへ行かないうちに追っ手を差し向け、お前たちの中に私の杯を盗んだ者がいる、と一人ずつ袋を調べ始めます。10人の袋には何もなかったので、兄たちがほっとしたのもつかの間、よりによってベニヤミンの袋から銀の杯が見つかります。彼らは絶望の内にヨセフのもとに引き返しました。銀の杯が見つかったベニヤミンだけ有罪として連れていき、後の者は食糧をもって帰ってよいとヨセフは言いました。

 父ヤコブは今、ベニヤミンを兄弟の中でえこひいきしていますから、ベニヤミンも兄たちの妬みを受けて当然なのです。兄たちはヨセフの時のように、ベニヤミンを見捨てることもできました。けれども兄弟たちは今重荷を共に背負い、運命を分かち合おうとしたのです。

 二十数年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのはユダでした。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」(37:26~27)兄弟を奴隷として売って銀を得る。ある意味殺すよりも闇が深い罪です。兄たちはヨセフが売られていった後、ヨセフが着ていた晴れ着に雄山羊の血をつけて、獣にかみ殺されたであろう証拠品として父ヤコブに見せました。その証拠品と彼らの言葉によって、ヤコブがどれほどの悲嘆に暮れたか。それ以来、ヨセフと同じ母をもつベニヤミンを父がどれほど愛しているかを、ユダは語ります。彼は今、ベニヤミンを連れて帰れなければ生涯罪を負うと約束して来たのだから、彼の代わりに自分を奴隷として残してほしいと嘆願しているのです。

 このユダに、そして兄たちに起った変化は何でしょうか。それは「悔い改め」です。兄たちはかつて自分たちが犯した罪と向き合い、そのことを心から後悔し、悔い改めています。それは、彼らが今起っていることを、二十数年前の自分たちの罪と関連づけて受け止めていることから分かります。「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」(44:16)。ヨセフの杯を盗んだ罪が暴かれたこと以上に、自分たちがヨセフに対して犯した罪を神が暴き、裁いておられるのだ、ということです。

 兄たちの変化は、状況の変化によって自然に起ったことではありません。人間の本質はそんなに簡単に変わるものではないのです。私たち罪ある人間が、それまでとは違う言葉を語り、それまでとは違う人間関係を築いていくことができるのは、罪を悔い改め神の命に生かされることによってなのです。悔い改めのみが、私たちが新しく生き始めることができるただ一つの道です。兄たちがヨセフを奴隷に売った苦しみをも神はよい方向へと導かれ、かえって家族全員が飢饉から救われることになりました。しかし最も大切な神のお導きの目的は、兄たちの悔い改めだったのです。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。…そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間はだれはばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。」(森有正「土の器に」より) 悔い改める心の奥底で、神は私たちに出会ってくださいます。

2.神の恵みのご支配を知った者は、和解に導かれる。(15節)
 ヨセフはユダの言葉を聞いてついに自らを制することができなくなり、側近のエジプト人を去らせて声をあげて泣き、「わたしはヨセフです」と明かしました。穴に投げ込まれてから涙を隠して生きてきたヨセフは、人払いをしても壁を越えて遠くまで聞こえるような大声で泣きながら、「どうか、もっと近寄ってください。」と兄たちを招きました。驚き恐れる兄たちに、悔やんだり責め合ったりする必要はありません、自分がエジプトに来たのは皆の命を救うために神がなされたことですとヨセフは語りました。

 ファラオの夢を解き、囚人からエジプトの総理大臣にまで引き上げられた時。兄たちがエジプトにやってきて食糧を売ってくださいとひれ伏し、かつての夢が実現した時。それらは誰もがわかる神の祝福といえるでしょう。しかしヨセフが神の支配と導きを感じ取ったのは、兄弟たちが自分たちの犯した罪を思い出して悔い、兄弟の一人ユダが弟の身代わりになって自分がエジプトに残るから、ベニヤミンを父親のところに返してくださいと必死に懇願している姿を見た時なのです。かつては自分を妬み憎しみ、自分を殺そうとした兄弟たちをここまで悔い改めに導いたのは、人間の業ではない。この背後に神の支配があったのだとヨセフは悟りました。そしてヨセフは「神がこの兄弟たちとその一族を救うために、神が自分をこの兄弟たちより先にここに遣わしてくださったのだ」という信仰を得、気がつけば兄弟たちを心から赦していました。

 20年間を台無しにされて自分の不幸を呪い兄弟たちのせいにすることは、簡単なことでした。しかしヨセフはここで、兄たちと共に神の恵みにあずかる者として、御前に立っています。自分が受けてきた言い尽くせない苦しみ悲しみの全てを、ヨセフは神のご支配として受け止めて告白します。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(5節)「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(8節)自分の人生の主語は自分でも兄でもなく、限りない愛によって支配されている「神」であることを、ヨセフはあらためて知ったのです。

 兄弟たちは首を抱いて泣きました。彼らの心に満ちていたものは、讃美と感謝だったと思います。彼らは自分たちが神の圧倒的なご計画の中に生かされていることを知り、くず折れるようにして互いに抱き合って泣いたのです。「兄弟たちはヨセフと語り合った。」(15節)これは二十年ぶりの積もる話をしたということだけではありません。ヨセフ物語の最初の部分、「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(37:4)と対応しています。妬み、憎しみのために、兄たちはヨセフと語り合うことができなくなり、そこからあの恐ろしい罪が引き起こされました。しかし兄たちと自分との間に起った出来事が、神の救いの御業だったのだとヨセフに示されたことにより、彼らの間に主の平和が回復したのです。

 兄弟たちは食糧を携えて家路につきました。けれども彼らは食糧以上のもの…ヨセフが生きていたこと、そして神の赦しの恵みという福音を携えて家に帰ります。ヨセフが生きていたと知った父ヤコブは本当に驚いて、ヨセフに会うため、そして飢饉の間生き延びるためにエジプトへの移住を決心します。

 神の和解の恵みは、私たちのためにも与えられています。主が私たちを悔い改めと和解へ導き、愛するという一歩を踏み出せるように、祈っていきましょう。 

3.私が今の私であるのは、救いの恵みが周りの人や未来に伝えられるためである。(7節)
「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

 聖書には預言者や伝道者など、神に遣わされて働く人が多く出てきます。最も神からの派遣を意識しておられたのは主イエスです。主イエスはすべての者を罪から救うためにこの世に神から遣わされ、十字架にかかり、よみがえり、救いのみ業をなしとげて天に上げられました。そして主イエスによって救われた私たちもまた、神によって遣わされるのです。

 神に遣わされるとは、「『ここで働きなさい』と神が連れていってくださる場所で、神がまかせてくださった仕事をする」ということです。どこが私の遣わされる所だと思いますか。それは皆さんの家族や学校、大人の人であれば仕事場など、今生活している場所です。あなたのすぐ隣に、神の愛を求めている人がいます。そこであなたらしく神の愛を伝えることは、あなたにしかできません。一回のすごいお話ではなくて、普段の生活の中で神を信じて生きるあなたの姿に接するほうが、あなたの隣にいる人の心を真実に動かすのです。神は使命を果たすために必要な力やものをすべて備えてくださっています。私たちの病や困難を通しても、神は力強く愛を注がれます。「そういえば〇〇さん、どうしてるかな。」誰かのことが心にひっかかったら、神がその人のもとにあなたを遣わそうとしておられると知ってください。

 いつもやっていること、いつも行く場所であっても、主から派遣されているんだということを思い出してみましょう。いやいやだったり、何も考えずにやるのか、主から遣わされた者として感謝をもって御心を果たしていこうとするかで、大きな違いが出てきます。私たちは、何でこんなに問題があるところにいなければならないのかと思う時があります。しかしうまくいっていないところに神の愛が溢れてほしいからこそ、神は私たちを派遣されたのです。そこで神の恵みを多くの人が分かち合い、癒しや救いの恵みにあずかるならば、神がどれほど喜んでくださるでしょう。礼拝で神から力をいただき、身近な人に神の愛を示すために私に何ができるかを、主におたずねしてまいりましょう。

 神の光で生きる目的を捉えると、自分の命が目先のことだけに留まらず、長い歴史の中に位置づけられるようになります。ヨセフが牢から救い出されエジプトを治める者とされたのは、ただ自分一人が幸福になるためではなく、エジプト人や周囲の国々、そして神の民イスラエルの救いのためでした。私たちもまた世界中のすべての人のための希望であり、その祝福の源となる神の収穫です。私たちの子供や孫、私たちに連なるたくさんの人たちが神に出会うために、今私たちは先に神の救いを受けているのです。

 今日は神がお与えくださった収穫とすべての恵みに感謝する礼拝をおささげしました。ここに集められたものは、これから料理されてたくさんの笑顔を作り、いただく私たちに元気を与えてくれることでしょう。たくさん与えられたものは分かち合うためのものです。私たちもまた誰かのために整えられて、用いられていきます。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(Ⅰコリント3:6) 野菜や果物、私たちに命を与えて成長させ、すべての出来事を導いて救いを実現してくださるのは神です。おゆだねし、用いていただきましょう。

 来週からアドベント、キリストが救いのために人となってお生まれくださった恵みに感謝し、再びおいでになる時を待ち望む期間です。ヨセフの兄ユダの子孫にダビデ、そしてイエス・キリストがお生まれになります(マタイ1:3)。それは罪ある人間を通して神の救いのご計画が進められたこと、罪なき御子が罪人と共に生き、救うために、その歴史のただ中にお生まれになったことを示します。

 自分の罪が全て主イエスの十字架によって赦されていることを知る時に、私たちは悔い改めることができます。そして父なる神が主イエスを復活させ死に勝利されたことを知る時に、私たちの苦しみや悲しみもまた、神の救いのご計画の中で用いて下さると信じることができるのです。私たちの現実のただ中で、主なる神の恵みのご支配を信仰によって見出すことができますように。

 

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