12月13日説教 ・降誕前第2主日礼拝
「飼い葉おけのキリスト」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書2:1~7
フィリピの信徒への手紙2:6~11
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先々週から「主を待ち望む期間であるアドベント」に入り、今日はアドベント第三礼拝です。今年は、クリスマスまでの4回の礼拝を、初めての方に「クリスマスとは何を祝う日なのか」「クリスマスにご生誕を祝うイエス・キリストとは一体どんなかたなのか」が分かるような、「クリスマス物語の代表」という感じの聖書箇所からメッセージを語ることにしています。
今回は、イエス・キリストが家畜小屋・馬小屋でお生まれになる場面です。話のあらすじは先ほどの「こどもメッセージ」でお話しした通りです。
この主日礼拝では、「神の御子、イエス・キリストが家畜小屋で生まれられた意味」を深めます。ともに御言葉を味わいましょう。
まず味わうのは、2か所目の聖書箇所、フィリピの信徒への手紙の2章のうち6~8節です。 この6,7,8節はイエス・キリストの人としての生涯を一言で表したものです
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このフィリピ2:6~8、暗唱はできなくても「この言葉が、フィリピ2章6節以下にある」ということは覚え続けていただきたい、そう思うほど大切な言葉です。
天におられる栄光の神の御子、そのお方は「ずっとその栄光の姿を保っていたい」と思われたのではありません。
私たち人間は、過去の栄光にずっと固執したり、すがり続けようとするものです。しかし、神の御子キリストは違ったのです。「神でありながら、その身分に執着されず、かえってご自分の神としての栄光を無にされた!」そのように聖書は語るのです。
神が人間の姿となってこの世に来られたということ、それはとてつもなく大変なことなのです。天におられ、栄光に輝いておられた神の御子が「神としての在り方を捨てて」人間となられた…それがクリスマスの出来事なのです。
私たちは「神が人 となられて、この世に来られた」という事実を 軽く受け流すことがなく、深く心に刻みましょう。8節にあるように「謙って、従順のかぎりをつくされた」そのキリストの生涯をこのクリスマスに改めて感謝したいものです。
イエス・キリストはこの世に誕生されるときから「謙って、従順のかぎりをつくされた」ことが、クリスマス物語には表されています。もちろんこのときは弱い赤ちゃんですから、しゃべったり、行動することはお出来になりません。しかし、今回の一つ目の箇所が教える「誕生のしかた」には、謙りと従順が表れているのです。
それでは一つ目の箇所を深めてまいりましょう。(新P102をお開けください)
今朝は「人として誕生されたキリストの謙り、従順」に注目して、このルカ2:1~7を掘り下げます。
まずは「為政者に対し の従順、謙り」が見て取れます。これは1~3節です。
キリストは神の御子でありながら、その当時世界を支配していたローマ皇帝のアウグストゥスの命令に従われた、そのことをこの箇所は表しているのです。
アウグストゥスの出した「住民登録」ですが、これは税金を確実に徴収する目的で行われたと言われています。全知全能の神であるお方が、ローマ帝国の税金集めに対し「ある意味で協力された」のには違和感を覚える方もあると思います。
私は、その理由は大きく2つあると思っています。
一つは、権威を振りかざすなどして、世の為政者たちをなぎ倒すようなお方としてこの世に来られたのではないことを示すためだと考えます。福音書の先の場面では、多くの人がイエス・キリストに対し「ローマ帝国を倒してくれる強いリーダー」としての期待をかけたことが記されています。しかし、イエスご自身は、ご自分はそういう者ではないことを重ねて教えられます。
絶大な力を誇ったローマ帝国を倒すためにこの世に来られたのではなく、その時代にあって「普通の人間として」多くの民とともに歩まれた、それが神の子キリストなのです。
そしてもう一つの理由、それは「時の為政者の政策によって振り回される、多くの民衆の苦しみを味わわれるため」だと考えます。
先程のこどもメッセージで語ったように、自分の生活地を一旦離れて、家系図に記された本籍地に「わざわざ戻らねばならない」それは大変に大きな負担でした。この苦しみをイエス・キリストは味わわれたのです。
現在の私たちの世の中も、「為政者のわがままによって振り回されている大切な命が世界中にあふれています。
(※外国の具体例)
日本でもコロナ禍の中、行政はよく頑張っておられますが、それでも不安定な雇用政策によって苦しむ人は溢れています。
でも!これら苦しむ方々に「神の子キリストは共にいて下さり」そして「その苦しみを共に担ってくださる」のです。私たちはその希望を伝え続けましょう。
続いて神のご計画に対して従順であられる「イエス・キリスト」が見てとれます。
これが分かる4~6節を読みます。
マリアとヨセフは、生活の拠点である「ナザレ」で出産したかったことでしょう。旅先で出産するということがどれだけ大変でリスクが高いか、皆さんも容易にお分かりのことでしょう。
ではなぜナザレから100㎞も離れたベツレヘムで「イエスを出産」することになったのかというと、一つには先ほどの「ローマ皇帝の絶対的命令があったから」ですが、その背後には「神のご計画、とくに旧約聖書の預言の成就」ということがあるのです。
ヨセフは、ダビデ王の血を引く者でありましたので、ダビデの出身地であるベツレヘムに行って住民登録をする必要がありました。その旅の最中にイエス・キリストはお生まれになります。このことで「救い主はダビデの子孫として生まれる」そして「ベツレヘムで生まれる」という旧約聖書の預言がその通りになったのです。
繰り返しになりますが、イエス・キリストは全知全能のお方です。ダビデの血を引く者ではない、他の血筋の子として生まれることはできたでしょう。そして、わざわざ旅先で「宿屋を探さねばならない、ベツレヘム」以外でお生まれになることだってできたと思うのです。 しかし、キリストは天地創造のときから続く「神の救いのご計画」に忠実に従われたのです。
突然「私は救い主だ!」と公言して、現れたのではなく、旧約聖書で「その誕生の仕方が多く預言されている者」として、つまり「約束された救い主であるという確かなしるし」をもってお生まれになった…そのことを覚えていましょう。
最後に「人々に対して従順であるキリスト」を見て、メッセージを閉じます。これは7節に表れています。
イエス・キリストはベツレヘムの家畜小屋で誕生されました。不衛生な家畜小屋で生まれることを希望する人など、世界中どこにもいないことでしょう。
そういう意味で、キリストは「人間としては最もみすぼらしい者として誕生された」ことを家畜小屋は象徴しているのです。
しかし…今日皆さんに特に注目していただきたいのは「場所のこと」だけでなく「神の御子を追いやった人間の傲慢さ、自己中心」についてです。
7節の最後の言葉「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった…」これは、単に人口調査で帰省する人がたくさんいて宿屋の空室がなかった、ということ以上のことを示しているとされます。
身重の人に部屋を提供する優しい人は誰かいなかったのか!と、腹立たしくなりますが…これは自己中心で人に譲ることをしない、自己を犠牲にして隣人を愛すことができない、まさに「心の狭い私の姿!」が示されているのだと感じます。本当に罪深い者です。
しかし、そんな私たち人間に対しても「怒りを表される」のではなく「罪から救い出すために」じっと謙っておられる姿を、家畜小屋の主に見ることができるのです。
ご自身の方が創造主であるのに、被造物である人間がその方を受け入れることをせず、遠ざけています。それでも謙り、神の救いのご計画に忠実であられる。それは私たちを愛しておられるからに他なりません。
私たちは今日、救い主イエス・キリストの誕生の場面に表れた「謙遜・従順」を詳しく見ました。「この世を楽しむため」に人間になられたのではありません。私たちを罪から救うために、すべてを捨てて、すべてを受け入れて下さったのです。
最後に、2つ目の聖書箇所の「残りの節」を朗読してメッセージを閉じます。新約聖書363頁、フィリピの信徒への手紙2章9~11節です。 ゆっくりとお読みします。
人々をなんとしても罪から救い出したい…その愛のゆえに栄光を捨てて、謙られ、従順であったお方、この方が私たちの「まことの救い主」なのです。この方に感謝し、クリスマスの今、褒め称えてまいりましょう。 (祈り・黙祷)
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