1月31日説教 ・降誕節第7主日礼拝
「神の言葉は決して滅びない」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書21:20~33
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続けて読んでいますルカによる福音書ですが、21章の後半まできました。今日の聖書箇所は先週の続きの箇所です。今週の箇所も、先週瞳牧師が語ったと同じような「大切なメッセージ」が読み取れます。そのメッセージとは「永遠に変わらないものに目を留めること」です。それに加えて「絶対でないものを手放す勇気」の大切さや「常識や固定観念にとらわれずに変化していくことの大切さ」が教えられる箇所でもあります。
先程司式者に今日の聖書箇所を朗読してもらいましたが、正直「ギョッとすることが書いてある」と感じた方もおられると思います。しかし、色々なことが「安泰ではない、ずっと存続しない」ことに気づかされることが多い、今日を生きる私達に対し、大切な教えを与えてくれる聖書箇所だと痛感します。「永遠に変わらないものに目を留め、変えるべきところは恐れずに変えること」の大切さを共に味わいましょう。
まず先週の箇所からの5節以下の流れをおさらいします。 話の舞台はエルサレム神殿です。
エルサレム神殿の豪華さに感心している人々に対して、イエスは「この神殿は一つの石も崩されずに残ることのないように徹底的に破壊される日が来る」と予告なさったのです。ユダヤ人たちにとってエルサレム神殿は、信仰の拠り所、民族の存在のシンボルでした。それが崩壊することは、当時のユダヤ人とってはまるで「全ての終わり、世界の終わり」のような衝撃があったのです。
このことをきっかけにして、イエスは7節から19節にかけて「この世界全体の終わりや終末についてのこと」そして「その前兆」や、「どのような思いでそれに備えるべきか」ということを教えられるのです。本日の20節以下もその続きです。
それでは20節から読んでまいりましょう。ご覧ください。
「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、滅亡が近づいたことを悟りなさい」とあります。このことは紀元70年に実際に起こります。ローマ帝国の軍勢に攻められたエルサレムは籠城戦の末に陥落し、徹底的に破壊されたのです。イエスがエルサレム陥落を見事予告したということよりも大切なことが次の21節です。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」ということです。
この当時の都の多くは全て城壁を巡らしてあり、敵の襲来から守られた地域が都市だったのです。ですので、普段城壁の外で畑を耕したりして働き、暮らしている人々も、いざ戦争になると城壁の中へと避難するのが「常識」でした。
それに加えて、エルサレムには特殊な事情もありました。それが、神殿の存在です。イスラエルの民を選んでご自分の民となさったお方を礼拝する場である「神殿」がエルサレムにはあるのです。
つまりエルサレム神殿が陥落し滅びるようなことがあるはずはない、という思いが人々の中にあったのです。だからエルサレムの市内にいれば安心だ、と多くの人は思っていました。
エルサレムの都と神殿は当時の人々にとって絶対的な拠り所だったのです。しかし、紀元70年にエルサレムが陥落するその時、多くの人々が神殿に逃げ込み、命を落としたということが歴史家によって伝えられています。
そのような「不滅神話」のようなものが支配する空気の中でイエスは21節の言葉を言われたのです。
ここでイエスが教えられていることは「戦争のときには山に逃げなさい」ということに中心があるのではありません。大切なことは、「困難な時、それでもエルサレムの都や神殿にしがみつくことの間違い」と「エルサレムが滅亡し神殿が破壊されても、それで全てがおしまいになって世の終わりが来るのではない。」ということです。
22節から24節にありますが、神は旧約時代から一貫して「安易な選民思想に溺れるイスラエル人に対して、神が怒っておられる。悔い改めなければ都に審判が下される」ことを伝えてこられました。イエスの頃のイスラエル人は「エルサレムが崩壊することは絶対にありえない」ことのように思っていましたが、実際はそうではありませんでした。
突然起こったことではなく、神が前もって教え、警告なさっていたことがその通りになったということです。33節に「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」というこの言葉を今一度心に刻みましょう。
創世記から始まり黙示録に至る聖書66巻の言葉は真実な言葉です。この世には「常識」や「絶対的に信じられていること」などがありますが、本当に変わらずにあるのは聖書の言葉だけです。
エルサレムの都や神殿など「目に見えるもの」は、苦しい時の救いの拠り所にはならない。だからそこから逃げよ!とイエスはお語りになります。
私たちはどうでしょうか?当時の人々にとっての「エルサレムの都や神殿に当るもの」が心にはないでしょうか? 私にも結構あります。特に「教会とはこういう場所だ。牧師とはこういう働きをする者であるべきだ、などという常識や固定観念に縛られている」私の頑なさが、今回この聖書箇所を通して示されました。
コロナ禍の今、皆が苦しい中を歩み「何かにしがみつこうとしている」と感じます。情報だったり、シチュエーションだったり…。しかし!苦しさの中で「本当はしがみつくべきでないもの」にしがみついているなら、肝心な時に逃げ出すことができなくなる!という教訓をこの箇所は教えていると思います。これまでしがみついてきた「本当はしがみつくべきでないもの」に気づかされたなら、捨てること、変化することができるよう神に祈りましょう。
さて、ここでイエスが教えておられる大切なことがもう一つありました。それが「エルサレムが滅亡し神殿が破壊されても、それで全てがおしまいになって世の終わりが来るのではない。」ということです。
先週の説教で見た直前の9節、イエスは「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」と言っておられましたが、今回の箇所でも、同じことを重ねて教えられるのです。
では世の終わりについての「イエスが教え」が記された25節以下を見てまいりましょう。
まず25~26節をそれぞれで読んでみてください。
地上だけでなく天体に異変が起こると教えられます。これが具体的にどんなものかは私達の想像を超えることですし、聖書全体も詳細を教えていません。聖書が大切なこととして教えているのは「世の終わりにこんなことが起きる」ということよりも、25節後半と26節の内容です。
イエスは、「世の多くの人は、その時なすべきことが分からないので、恐れや不安に襲われる。しかし、神の約束を知っているあなたたちはそうではない」と教えられるのです。
そして27節、28節に「クリスチャンたちが終わりの時に取るべき態度」と「終わりの時のクリスチャンたちの希望」が教えられます。 この2節をそれぞれでお読みください。
世の終わりは、イエス・キリストが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる時なのだということが教えられます。これはヨハネの黙示録など、聖書のいくつもの箇所ではっきりと教えられていることです。戦争や疫病、自然災害、この世は苦しみに溢れていますが、その苦しみ、悲しみを神がぬぐいとってくださる日が、いつかやってきる。終わりの時が来ても、「それが神にあって新しい時が始まる時だと知っている者は幸いなのだ」ということがはっきりと示されます。だから恐怖におびえて、しゃがみ込むのではなく「身を起こして、頭を上げ、本当の救いをもたらす神の子を見上げていなさい」と教えられます。
これは、世の終わりだけでなく、私達個々人が、「天へ旅立つ時」にもつながる教えです。天へ旅立つその時、私たちは恐れや不安で満たされるのではなく、むしろ天を見上げて、「新しく与えられる命」、「痛みも苦しみもない神と共にある新しい世界」に希望を抱いて旅立てたなら幸いです。
最後に29節から33節を簡単に見て、メッセージを閉じます。
この箇所のうち32節までを皆さん目で追って見て下さい。
いちじくの葉が出始めたら夏が近いことを悟るように、クリスチャンたちは「キリストが再び来られて世の終わりが来ること、そして救いが完成すること」を悟らなければならないということです。
この部分のキーワードは「近づいている」です。
この聖書の場面から約2千年が経過していることで、終末、再臨は起こるはずのないことのように理解する人もいます。しかし、ここでイエスが言われている「近づいている」とは、物理的な時間の長さではなく、「確実さ」や「現実性」を表していると言われています。
この世に終わりがあること、そしてすべてが更新された「神とともにある新しい世界で、新しい命に生かされる」ことは間違いない現実であり、確実なこととして私達に迫っているのです。そのことを悟って生きていくことを、この困難な時代、本当に多くの人に知っていただきたいです。
伝道の困難な状況にはありますが、なんとか教会全体で伝えていきたい!そのことを切に祈っています。
最後の33節は今日の説教題につけた言葉が出る大切な聖句です。
この世で目に見えているものは無くなります。どれも絶対ではないし、永久に不滅ではありません。しかし、神の言葉、キリストの言葉は不滅なのです。必ず実現するのです。
この暗い時代にあって私達が「本当にしがみつくべきもの」は神の御言葉であり、その言葉が指し示す「天の国の希望」なのです。私たちは本気でそれにつながろうとしているか、もう一度顧みましょう。
顧みた上で変わることが示されたなら、恐れずに神と共に変わり、日々新たに歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)
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