「最後の最後まで」3/21隅野徹牧師

  3月21日説教 ・受難節第5主日礼拝
「最後の最後まで」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書23:26~43

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今、教会の暦でいう「受難節」を過ごしております。1年の暦の中でも、とくに「イエス・キリストのご受難」を覚えて過ごす期間に入りました。今朝も、続けて読んでいますルカによる福音書の続きの箇所から、御言葉に聴いてまいりたいと思います。 

 先程司式者に朗読いただいた今回の聖書箇所は、新共同訳の小見出しの通り、「イエス・キリストが十字架につけられる」場面です。このうち32節から43節は、有名な「十字架上でイエスが罪人の救いを宣言なさる箇所」です。ここは大変深い箇所で、特別な時に時間をかけ、ゆっくりと掘り下げたいと考えました。ですので7月の「創立130周年記念礼拝」で語らせていただきます。

 今朝は前半の26~31節に絞り、題につけたように「最後の最後まで、人々を救いに招かれるイエスの愛」を味わいたいと願います。

 26節から31節のあらすじを簡単にお話しします。

前回の箇所で、イエスに死刑判決がなされました。死刑判決がなされた者は「十字架刑に処せられるため」、自分で十字架を担いで、エルサレム郊外の処刑場である「ゴルゴダの丘」まで歩かねばならなかったのです。まるで「見世物」のようです。

 神の子イエス・キリストもこのことを「させられた」のです。しかし鞭打ちなどによって体力を消耗し切ったイエスには、もう十字架を担う力が残っていません。そんな時兵士たちは「キレネ人シモン」を捕まえ、無理やり引っ張り出して「十字架を担げ!」と命令したのです。

シモンは「なぜ自分がこんなことをしなければならないのか」と思ったでしょう。彼はいやいやながら、主イエスの十字架を担いで、主イエスの後ろを歩いていったと予想されます。このシモンについては後程深く掘り下げます。

 続いて27節です。この場面に他の人々が登場してきます。27節のそれが「民衆と嘆き悲しむ婦人たち」です。

民衆とは、言葉通り「一般の民衆」であり、いわゆる「野次馬」です。はっきりと素性の分からない民衆とともに「十字架を背負ったイエスについてきた人々」として記されているのが「嘆き悲しむ婦人たち」なのです。

この婦人たちがどのような人々だったのか、断定はできませんが、いわゆる「泣き屋」なのです。

(※数年前、近隣国の独裁者が死亡したとき、泣き屋が町の至る所にいたことを覚えておられるでしょうか)

「泣き屋」は、人の死の場面において派手に泣いてみせることによって「嘆きを表す」そんな務めをします。

十字架の死刑が行われる時に、誰もその囚人のために嘆いてやらないのはかわいそうなので、「泣き女」たちがその引かれていく沿道で嘆いてあげていたと考えられています。ですので、彼女たちは心から泣いているのではないということになります。

イエスを神の子と信じる「信仰のゆえに」その苦しみと死を嘆き悲しんでいた女性たちは実際にいました。しかし来週の箇所である49節で、その婦人たちは「遠くに立っていた」と記されています。イエスが十字架を背負って処刑場に引かれていく場面において、言葉を交わせるほど近くにいるというのは不自然だと言えます。

しかもこの49節には「ガリラヤの婦人たち」とあるのに対し、28節でイエスは「エルサレムの娘たち」と呼びかけられています。これらのことから、今回の箇所にでる「嘆き悲しむ婦人たち」と「イエスの苦しみと死を嘆き悲しんでいた婦人たち」とは別の人たちだということが分かります。

さて、泣く演技だけをする「泣き屋」の婦人たちに対して神の子であり救い主であるイエス・キリストはどのように接されたのでしょうか。それが28節から31節です。 ここを読んでみます。

既に十字架を背負う力のなくなっていたイエスが、力を振り絞って語られますが、その相手が「ただ泣く演技をしつつ、本心では大して悲しんでもいない婦人たち」なのです。

語られた主な内容は28節の括弧の中にあります。「わたしのために泣くのではなく、むしろ、自分と自分の子供たちのために泣きなさい」とイエスは語っておられるのです。

29節以下にはその理由が語られます。なぜ自分と子孫たちのために嘆き悲しみ、泣くべきなのかというと、それは人々が「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るからです。

これは、21章23節に語られていたのと同じことです。少し振り返ってみましょう。152頁をお開き下さい。 20節から24節のところで「エルサレムの滅亡」が語られています。

その「エルサレムの滅亡」は、民たちの罪や高慢のために起こるということをイエスは語られます。とくに「エルサレム神殿は不滅だ」とか「イスラエル民族は神の選民だから、何をしても滅びることは絶対にない」といった凝り固まった考え方が悲惨な結果を産むということを予め警告されます。それで21節に「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都にいる人々はそこから立ち退きなさい」と教えられているのです。

イエスの警告のとおり、エルサレムは紀元70年に、ローマ軍によって滅ぼされるのです。 

再び今日の聖書箇所に戻ります。158頁をお開き下さい。

30節と31節の厳しい言葉にも少し着目しましょう。 これは旧約聖書の預言書の言葉の引用です。

罪に対する裁きが下る時…それは山や丘が自分の上に崩れてきて生き埋めにされてしまう方がまだましだと思うような苦しみだということなのです。31節は罪を悔い改めないイスラエル・エルサレムの民を「枯れた木」に譬えられた上で、「生えた木ですら大変な目に遭うのだとしたら、枯れた木は一体どうなってしまうのか、ということを語られているのでしょう。

28節から31節までの一連の箇所でイエスが「泣き屋」の婦人たちにお伝えになっていることとは… 「あなたがたが本当になすべきことは、私の苦しみと死に同情して涙を流すことではなくて、あなたがた自身の罪と、それに対する神の怒り、裁きにこそ恐れおののき、その罪を悔い改めることだ」ということです。要するにイエスへの同情の涙ではなく、悔い改めの涙を流せ!ということです。

十字架で死なれる直前、体力の限界にあってなお「人々を悔い改めに導こうとされる」のです!

しかも相手は、本心を偽って「泣きの演技」をしながらついて来る人達です。普通なら鬱陶しくてしょうがない、「本気で悲しんでもいないのだから、後について来るな!」と怒鳴りたくなるような、そんな人たちに対しても、悔い改めに招かれているのが神の子イエスです。

彼女たちは、罪がもたらす悲惨な結果が分かっていなかったことでしょう。しかし、神の子イエス・キリストはその結果を誰よりご存知であり、罪の悔い改めがなければ救われないことを何よりご存知です。だから力を振り絞るようにして「伝えられる」のです。

今日の説教題につけたとおり「最後の最後まで」罪深い私達一人ひとりを「罪から救い出そうと、招いてくださる」それが愛の主イエス・キリストです。ここでの語りかけを私達も深く受け止めましょう。

最後に、後回しにした「キレネ人シモン」についてお話しし、メッセージをとじます。

27節を見ると、イエスがもう十字架を背負う力がない、と兵士たちが判断したその時に、たまたま近くにいた「キレネ人シモン」を無理やりに捕まえて、イエスの後ろから十字架を担がせたことが分かります。

「田舎から出てきた」という言葉ですが、これは遠いところから「都もうでに来た」というようなニュアンスの言葉のようです。田舎から、エルサレム巡礼にきた。噂にきいていたエルサレム神殿を観光して楽しもう!多分「キレネ人シモン」はそう思っていただろうと言われます。

 しかし!とんだとばっちりを受けるのです。兵士たちはたまたま目に入ったシモンを引っ張り出したのでしょう。はっきり言えば誰でもよかったのですが、ローマ兵には誰も逆らうことができません。「キレネ人シモン」は負いたくもない十字架を無理矢理背負わされ「なぜ自分がこんなことをしなければならないのか」と思ったに違いありません。        

しかし!たまたま居合わせただけの彼の名前や出身地が、なぜか聖書にしっかり記されているのです。それはなぜかというと、「キレネ人シモン」が初代教会を支える大切な一員となったからなのです。 3

今日の箇所の並行記事であるマルコによる福音書15章21節は、彼のことを「アクレサンドロとルフォスとの父シモン」と記しています。これは「教会では誰もが知っているあのアレクサンドロとルフォスの父親が、実はイエスの十字架を負ったのだ」という書き方が敢えてなされているのです。

 シモン自身の名前も使徒言行録の13章1節で出てくるのです。お家に帰られてじっくりと読んでいただければと思いますが、パウロとバルナバが、アンティオキア教会の祈りに支えられて第一次宣教旅行に出発する場面でその名は出てくるのです。

 異邦人伝道の拠点となったアンティオキア教会のメンバー数人が紹介されている中の「ニゲルと呼ばれるシメオン」。それが十字架を無理やりに担がされたキレネ人シモンのことだと言われています。パウロは他の聖書箇所からシモンとその妻を心底慕っていることが見て取れるのです。

このように、キレネ人シモンはただ観光をしにエルサレムに来たのに、イエス・キリストとの出会いを通して全く違う生き方に変えられたのです。まさに「最後の最後で」イエス・キリストはキレネ人シモンを新しい生き方に招き入れられたのです。

シモンはイエスの十字架を無理矢理背負わされ、イエスを後ろから見つめながらゴルゴタまで歩きました。イエスが処刑の場まで引かれていくそのお姿を後ろから見つめながら、彼は、「イエスが自分の罪を担って下さっている」ということを感じるようになっていったのではないでしょうか。そして、その漠然とした感覚は、主イエスの復活を経て、主イエスの十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命の約束を信じる確固たる信仰へと実を結んでいったのです。

本当に嘆き悲しみ涙すべきことは、この人が十字架につけられて殺されることでも、自分がその十字架を背負わされたことでもなくて、自分自身の罪の深さなのだ、そのことを彼は漠然と感じ取ったのではないでしょうか。

泣き屋の女性たちに対しイエスが言われた「自分の罪をこそ嘆き悲しむように」と言われた、その大切な教えを「キレネ人シモン」はまさに受け入れた。そして本当の幸いを得たのです。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰る神の子イエス・キリスト。私達も主イエスの十字架を心の目でしっかりと見つめましょう。それが「悲惨な結果をもたらす自分の罪を嘆き、悔い改める」ことに繋がると信じます。キレネ人シモンのように新たに生きてまいりましょう。  (祈り・黙想)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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