「神の愛によってすべてが始まる」5/2隅野徹牧師

  5月2日説教 ・復活節第5主日礼拝・聖餐式
「神の愛によってすべてが始まる」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:1~5

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 先週の礼拝で、長い間続けて読んでいた「ルカによる福音書」を学び終わりました。今週からは、ヨハネによる福音書を主日礼拝で続けて読むことにいたします。

新約聖書には四つの福音書があり、ヨハネは他の三つの福音書とはかなり違ったものになっています。マタイ、マルコ、ルカの三つは、主イエス・キリストのご生涯を、大きく見ればほぼ同じ流れで語っていますし、共通する記事も多くあります。そのためにこの三つを「共観福音書」と言います。しかし、ヨハネによる福音書は内容も「マタイ・マルコ・ルカ」と大きく異なっていて、「共観とは違うという意味」で「第四福音書」と呼ばれたりします。

ヨハネによる福音書では、「他の三つの福音書には語られていない話」も沢山出て来ます。終わりの方の20章31節に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とありますが、まさにその目的のためにヨハネによる福音書は書かれたのです。

この先、私達もこの書を読むことによって「イエスが神の子救い主である」と信じて、「その信仰によって命を受ける」いうことを改めて明確にできればと思います。ゆっくりではありますが、じっくりと読み進めてまいりましょう。

さて今朝は、ヨハネ福音書の「冒頭のところ」を読むのですが、最初からこの福音書の独特さが表れています。四つの福音書それぞれの最初のところを比べてみると、そこにそれぞれの特徴が現れていて面白いです。

マタイは、アブラハムからイエス・キリストに至る「長々とした系図」が記された後、「ヨセフの側からのクリスマス物語」が語られて始まります。マルコは「神の子イエス・キリストが福音を伝えられた、その初め」のことから始まっています。ルカは、挨拶があった後、マリアの側からのクリスマス物語を描いて始まっています。

それに対してヨハネ福音書は、「初めに言があった」という「謎めいた言葉」から始まっているのです。他の三つの福音書が、イエス・キリストのご生涯を物語っているのに対して、ヨハネ福音書は、その生涯の深い意味や、そこに隠された神のみ心を「初めに言があった」という文言で証ししているのです。

今朝はここを含む1章の1節から4節の一つ目の文までに絞ります。

短い箇所ですが、言葉一つ一つを深く味わってまいりたいと願います。

ではまず1節2節です。

初めにあった言は、神と共にあり、それ自身が神であった、ということが教えられるのです。

神と共にあり、それ自身もまた神である「ことば」、それは「神の独り子であるイエス・キリスト」のことなのです。 

なぜイエス・キリストのことが「言」と言われているのか、それは後程にお話ししますが、まず確認したいのは、ヨハネ福音書が、神の子であるイエスが、「全てのものの初めに、父である神と共におられた」と語って始まっていることです。

続く2節でもう一度、「この言は、初めに神と共にあった」と繰り返されています。

繰り返して、念を押すように大切に語られていること、それが「イエス・キリストご自身が神であり、神と共に、最初からおられるのだ」ということなのです。

このことが語られた上で、3節の大切な教えが語られるのです。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。父なる神と共におられた独り子主イエス、「言」であるその方によって、この世の全てのものは「創造された」ということが語られるのです。   

「言」であるイエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたと聖書は教えます。イエス・キリストは神によって造られた被造物ではなくて、むしろ創造主です。まことの神として初めから父と共におられるのです。

万物が「言」であるイエス・キリストによって成った、というこの福音書の教えは、イエス・キリストがまことの神であられることを示しているだけに止まらず、「神がこの世界と私たち人間をどのような心によって造って下さったのか」を示しています。

聖書のはじめの創成期1章の天地創造の場面。神は語り掛けるように言葉を発して、この世界を創造されたと教えます。無言のまま、意思もないままに造られたのではありません。そして一つ一つのものを生み出されたあとは「極めてよかった」とその心からの思いを表して下さったのです。

つまり、神は私たちに語りかけ、私たちとの交わりを持とうとして「世界と私たちを創造して下さった」のです。無意味に造られたのではないし、この世界と私たちを心から愛して下さっているということです。この世界と私たち一人ひとりは、まさに「神の愛によって形づくられている」のです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」という3節はそのことを語っているのです。

この世のものは全て神の愛によって造られている。神の愛を受けて存在していないものは何一つない!それをヨハネ福音書は冒頭で私達に語りかけるのです。

そして「言」という文言に表された、「神の、直接の語りかけ」「神の愛」が、見える形で私達の人間に現れて下さったのが「イエス・キリスト」なのです。神の言つまり「神の本質である愛、私達への語りかけ」が、「神の独り子が、肉体をまとってこの世に来られる」ということを通して実現した。だからこそ「イエス・キリスト」が「言」と表されているのです。

しかしながら、日本語で、イエス・キリストを「言」という訳語で表すのには大変な苦労があったようです。

ヨハネによる福音書1章1節は、初めて日本語に訳された聖書の一節だそうです。イギリス人宣教師が漁師さんたちから日本語を学んで一所懸命訳し「はじめにかしこきものござる」と訳しました。今では「言」と訳されている「ロゴス」というギリシャ語、それをどう訳すか大変に苦労したと言われています。

でも、私はこの「かしこきもの」という訳は、とっても素晴らしいと感じています。なぜなら、このロゴスは単なる「ことば」、つまり「人間が発する言葉」ではないからです。先ほどお話しした通り、「神であり」「神と共にいらっしゃるお方」を指しているからです。

「言」とは、私たち人間が語る不確かな、また不誠実なことの多い言葉ではありません。神の言であり、神の愛にみちた私たちに対する語りかけなのです。つまり!「言」を、「ただのワードではなく」、一人のかしこきもの、畏れるべきお方として捉えているということです。

さらに、「はじめに」とは、単に時間的な「最初」を指すだけでなく「根源」という意味でもありましょう。この世界の、そして私たちの人生の「根源」には、神の愛による語りかけがあるのだ!と聖書は宣言しているのです。とこの福音書は宣言しているのです。

このことを通して、「イエス・キリストこそが、私たちの人生を根底において支えている存在なのだ」ということを示そうとしているのです。

この世界と私たちの根源であり、私たちを生かす存在である。このことをさらに深く教えているのが4節の一つ目の言葉です。今朝のメッセージは最後に「ここを掘り下げて」終わりたいと思います。

「言の内に命があった」

この世界と私たちを創造した「言」は、私たちに命を与え、生き生きと生かすのだ!ということが短いこの文にはっきりと表されています。

イエス・キリストの一つ一つの業は、「生きていて、その通りに実現」します。そして私達一人ひとりは「キリストご自身によって命をいただいて」います。このように「キリストご自身は生きている、命の根源である言」なのですが、それとともに忘れてはならないのが、キリストは業を行わるとき「言葉・語りかけ」によってなされていることです。

 たとえば、癒しの業を成される時は無言ではなく「よくなれ」とか「起き上がりなさい」などの言をもって業をなさいます。他にも、ガリラヤ湖の上で嵐に遭われたときも「静まれ!」と言を発せられました。悪魔を退ける時も「サタンよ、退け!」と明確な意思を示す言葉によって業をなされています。

このように見ていくと、キリストご自身が言葉であること。その言葉が生きていて、私達に命を与えるものであることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

そしてイエス・キリストによる一つ一つの御言葉、言い換えればそれは「聖書の言葉」と言えますが、これらが私達を生かし、命を与えるものでることを今日、再確認していただいたら幸いです。  

私達の日常使っている言葉とは異なり、「神の言」は命を宿します。人を救い、生かすのです。

皆さんは、神による愛の言葉によって慰められ、励まされたという経験はないでしょうか?言葉に導かれ、支えられ、励まされ、慰められる… とくに私は先週水曜日に96歳で天へ旅立たれた國重雍子さんから、そのことを改めて教わった気がします。

私がこの山口信愛教会の牧師に着任した4年前から、仁保病院へ國重雍子さんを定期的に訪ねさせてさせていただきましたが、訪問時、祈りを合わせた後には、必ず大きな声で「アーメン」と唱えて下さいました。讃美歌も歌詞を覚えてくださっていて、一緒に賛美ができました。「神様、イエス様は私と共にいてくださる」という希望が、苦しい中でも雍子さんを支えていたことをはっきりと見て取りました。

國重雍子姉妹の口から出る神にあっての「言葉」一つひとつが、生きていることを感じることができ、私も大変励まされました。

神・キリストの与えられる言には、愛が込められています。私たちを生かす命が宿っています。

私達も今一度、神の言の大切さ、そして力強さを再確認しましょう。そして「私達の人生の初めに、つまり根源に」神の言葉があることを感じながら、日々を歩んでまいりましょう。(祈り・黙想)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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