9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝
「御言葉に生かされて」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書4:43~54
最下段からPDF参照、印刷出来ます
本日は、主の御言葉によって私たちはまことに生きることについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。
1.しるし信仰から、神御自身を求める信仰に進む。(44,48節)
2.御言葉を信じたら、一歩を踏み出す。(50節)
3.私たちはもっと信じる者にされ、救いが広がっていく。(53節)
1.しるし信仰から、神御自身を求める信仰に進む。(44,48節)
前回はサマリアの女性の証しを聞いたシカルの町の人々が主イエスのところにやって来て、自分たちの町にとどまるように頼み、主イエスはその願いに答えて滞在されたことを聞きました。多くのサマリア人たちが、主イエスを世の救い主であると信じました。これは主イエスにとって、またサマリアの人たちにとっても、本当に幸いな出来事でした。そして主イエスは以前水をぶどう酒に変えられた、ガリラヤのカナへと向かわれました。
「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と、主イエスはかつて話しておられました。これは当時のことわざで、神の言葉を伝える預言者であっても、故郷の人たちは「あれは誰々の息子ではないか」と、神に遣わされた方として見ることが出来ないということです。主はご自分を預言者に重ねておられます。人としての主イエスの故郷はガリラヤ地方のナザレです。他の三つの福音書には、故郷ナザレの人々が主イエスにつまずいたことが語られています。彼らは、自分たちの間で育ち、幼い頃から知っているイエスだからこそ、逆に救い主と信じることができませんでした。ヤコブの手紙を書いたヤコブは主の家族、兄弟ですが、彼が主イエスを救い主として信じたのは、主の復活と昇天、聖霊を受けてからのことでした。しかし主イエスはご自分が敬われないことをご存じで、あえて故郷に行かれました。
ヨハネ1:10~11には、神によって愛し造られた私たちが、主イエスを受け入れなかったとあります。そこには私たち一人一人も含まれています。主イエスのこのお言葉には、罪の中に滅びようとする私たちを救うために、御子が故郷である天から降って私たちのもとに来て、十字架の道を歩んでくださったことも含まれているのではないでしょうか。
ガリラヤの人々は、主イエスを歓迎しました。過越祭の時にエルサレムで主イエスがなさった奇跡を、すべて見ていた人々がいて、噂を広めたのでしょう(ヨハネ2:23)。今で言うならば、地元出身のオリンピックのメダリストや芸能人を歓迎するようなものです。以前水をぶどう酒に変えたように、エルサレムで奇跡を行ったように、何か自分たちの間でも行ってほしいという期待があったのです。
彼らの信仰が奇跡を見て信じるという表面的なものであることを主イエスは知っておられました。主イエスのなさる奇跡が「しるし」と呼ばれているのは、それが指し示しているものがあるからです。主イエスは神から遣わされた御子、救い主であり、十字架と復活を通して神との交わり、永遠の命をお与えになる。そのような神の救いを指し示す「しるし」だったのです。しるしは信仰の入り口であって、そこから本物の信仰へと進んで行かなければなりません。主イエスが私たちの罪のために十字架で死んでくださった救い主であると信じて、新しく生まれ変わる経験が必要なのです。ヨハネは、そのことを示すために、次に王の役人の息子の話を取り上げています。
ガリラヤのカファルナウムという町に、王の役人がいました。カファルナウムは国境近くにあり、ローマ軍が駐留していました。王とは、当時ガリラヤ地方の領主であったヘロデ・アンティパスのことです。王の役人は今で言うと、政府の高官のことです。ある時彼の息子が病気になり、重篤な状態になりました。彼は主イエスのもとを訪ね、カファルナウムまで下って来て息子を癒してくださるようにと願いました。この役人も、主イエスが行われた多くのしるしのうわさを聞いたのでしょう。カファルナウムとカナの間は約30km、標高差は600mほどあり、一日がかりで行く距離です。朝早く彼は出発してカナに行き、主イエス一行を探し求めて午後一時頃にお会いすることができました。そしてカファルナウムまで来て欲しいという大変なご足労を、初対面のイエス様に求めました。息子を愛する切実な思いをもった親だからこそ出来ることです。
王の役人ですから、それなりに権威のある人です。さまざまな治療法を試み、手を尽くしたはずです。しかし現実の前で彼は無力でした。そこに主イエスの奇跡の噂を聞き、この方にお願いするしかないと思いつめて役人は来たのです。
さてこの役人の願いを聞いた主イエスは、彼だけでなくガリラヤの人々に向けても言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」それは彼らの信仰が、自分が期待する通りの不思議な業を主イエスがしてくれれば信じるし、求めているものが与えられないなら失望して去っていくというものだったからです。そのような信仰はやがて、「十字架につけよ」と叫び出す道に進みます。
この試練から救ってください、そう私たちは願います。大切な方のために祈ります。しかしそこで神が願い通りに解決をしてくださって終わってしまう信仰ではないでしょうか。その時は感謝して信仰を持っても、次の試練の時に解決されなかったら、信仰から離れます。しかし神が願っておられるのは、神が神ご自身のやり方で業をなさると私たちが知ることです。
役人の息子には癒しが必要でした。しかし同時に、役人に救いが必要でした。彼に本当に必要なのは、目の前の個々の問題の解決ではなくて、神御自身でした。主イエスの一見冷たそうに見える言葉の中身は、彼に悔い改めとご自身を信じる信仰を求めるものだったのです。
私たちもまたガリラヤの人々のように、主イエスを歓迎しているように見えて、実は自分の願いを第一とし、教会なのに主イエスが本当には礼拝されていないということもありうるのです。そのような時に主は、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とお言葉をかけられるのです。
2.御言葉を信じたら、一歩を踏み出す。(50節)
さて、そのように言われながらも役人は、主イエスに必死の思いで頼み続けました。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」何とかして息子を助けたいと願うこの父親の思いは真実であり、真剣です。主イエスは彼の信仰の弱さを知っておられましたが、彼に憐みを示し、その思いに応えて言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」役人が求めていたことは、イエス様がカファルナウムまで「来て」、手を置いたりして「いやして」下さることです。けれども主は特別なことをいっさいなさらずただ一言、言われました。
ここで「生きる」と言う言葉は、ただ体が生きている状態ということではなく、神によって与えられる命に生きることを示します。現在形ですから、「今生きている」ということです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」(ヨハネ11:25)復活し今も生きておられるの主イエスを信じその命が注がれる時、私たちは今この瞬間から死をも越えて永遠の命を生きる者に変えられます。神との愛の交わりの中を生きる者とされる、それが本当に「生きる」ということです。
私たちには出口の見えないトンネルを手探りで進むような、絶望的な状況が立ちふさがることもあります。けれども死に勝利しよみがえられた主が私たちとともにおられるなら、私たちに絶望はありません。主イエスが「あなたは生きる」と宣言してくださっています。それは「あなたが永遠に生きるために、私が死ぬのだ」という主よりのメッセージ、福音なのです。
主イエスは、「光あれ」と命じられることによって光を存在させる権威をもつ神の子、神の言である方です。だから主が「生きる」と言えば私たちは生きます。永遠の命に生きる道は見えるしるしではなく、主の御言葉を信じる信仰によって与えられるのです。肉体的には、癒された息子も父である王の役人もやがて終わりを迎えます。しかし彼らは主イエスの言葉によって生きる、「今も生きている」のです。それは単に心に平安が与えられたということではありません。自分たちがまことに死を越える命に生かされているということを知ったのです。
主の御言葉を受けた役人はどうしたでしょうか。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」。不思議です。あれほど切羽詰まってやって来た人が、「息子は生きる」との御言葉を聞いただけで信じたのですから。彼はまさに御言葉によって信じさせていただき、自分中心の信仰から、神のなさることをそのままに受け入れ、神の栄光が現わされることを待ち望む信仰へと変えていただいたのです。家までの長い道を、疑いや不安と戦いつつ、彼は帰って行きました。息子が死なないうちにと言いすがっていた49節とイエスの言葉を信じた50節にはおおきな信仰の飛躍があります。
そうは言っても王の役人は、不安や信じきれない思いを抱えながら帰って行ったと思います。私たちの信仰生活は、この帰る道を歩いていく、役人のようなものです。この世にある限り、私たちの信仰は「信じます。信仰のない私をお助けください」というものです。信じきれない心を持っていることを自覚しつつも、なお私をこれまで導いてくださった主を信じていく。すると主の栄光を見る時がくるのです。「私は100パーセント神様を信じられていないし御言葉も理解できないから、洗礼を受けられない」「証なんてできない」というのではなく、先の見えない中を迷いつつ、それでも主と共に進むことを選んでいただきたいのです。まったく疑いや恐れのない信仰を持っているという方がいるなら、それはカルト宗教的です。恐れや信仰のなさを正直に主に祈り、他の方にも私のために祈っていただきましょう。
役人が家に向かう途中で自分の僕たちが迎えに来て、その子が生きていると伝えました。息子の癒された時間を尋ねると、彼らは「きのうの午後一時に熱が下がりました」と答えました。それはまさに、主イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃったその時でした。彼は、主イエスを信じることがどれほど確かなことであるかを知らされ、神の御前にある畏れを感じたことでしょう。このことを通して、彼も彼の家の者たちもみな主イエスを信じました。
この癒しのみ業は、「しるしや不思議な業を見たら信じる」というのとは全く違います。彼はしるしや不思議な業を見て信じたのではなく、ただ主イエスのお言葉を信じてそれに従いました。元気になった息子の姿は肉眼では見えていませんでしたが、その癒しを信じる心が与えられました。その結果彼は、主イエスによる息子の癒し、救いを体験することができました。御言葉を信じるということは、主イエス御自身を信じることでもあります。主イエスを父なる神から遣わされた方として信じ、先の見えない現実について神とその御言葉に全幅の信頼を置くことです。「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
この役人は、イエスが言われた言葉を信じて、その通りに実行しました。私たちも信じたら、祈りうずくまっているところから立ち上がり、「帰りなさい」と言われる主を信じて一歩を踏み出しましょう。
3.私たちはもっと信じる者にされ、救いが広がっていく。(53節)
彼の息子の病気が癒されたことは、彼にとって大きな祝福でした。しかし御言葉に従った彼が受けた恵みは、はるかに大きなものでした。彼は主イエスが誰であるかを知り、家族全員が救いに導かれたのです。彼は、家に帰って妻や子供たちに、自分がイエスから聞いたことをすべて話したでしょう。そして、家の者全員が主イエスを信じました。主イエスのみ言葉を信じて従う信仰に生きる者となる時に、私たちの救いの恵みは家族や身近な人に及びます。主は「あなたの息子は生きる」と言われましたが、今や、家族すべてが「生きる」ものとなりました。
しかし彼は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」はずなのに、主の癒しの宣言と息子が癒された時刻が同じであったと知って、「彼もその家族もこぞって信じた」とあるのです。不思議な表現ですが、これは主イエスが言われたことを信じた結果、本当にそのようになったことを知って改めて信じた。御言葉が真実であり、この方が救い主であることを体験として信じたということです。
サマリアで女性の話を聞いて主に導かれた町の人々はこのように言いました。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4:42)町の人々ははじめ、女性の言葉によって主イエスを信じました。しかし直接主に出会ってその御言葉を聞き、本当に救い主を信じる者とされたのです。これもまた、しるしから御言葉を信じる信仰へということです。
信仰において大切なことは、御言葉を体験するということです。いくら御言葉を知っていても、それが頭だけであるとしたら、いざという時に右往左往し、信仰につまずいてしまいます。しかし、みことばを体験した人は少しのことでは動かされません。たとえ揺らいだとしても、また御言葉によって立ち上がります。あらゆる具体的な問題について御言葉に聴き、従い、神が真実な方であることを味わいましょう。
役人は主イエスとのやり取りを家族に話したことでしょう。家の人々は実際に主イエスに会うことはありませんでしたが、主人が持ち帰った主の御言葉によって信じることができました。私たちも毎週主の御言葉を、おみやげとして持ち帰ることができます。私たちの信仰の成長や、身近な人への伝道の力を与えてくださるのは、いつも神の御言葉です。ですから、御言葉を少しずつ、日々の生活の中で読む習慣をつけましょう。人の心は移ろいやすいですから、洗礼式だけで何十年にも及ぶ信仰生活を支えていくことは出来ません。何かあった時に、初めの御言葉に立ち帰る。重要な局面では必ず御言葉を求めて、信仰のくさびを打つ。神の言葉によってその歩みを支えられてまいりましょう。
主イエスが役人の息子を癒してくださった、それは大きな恵みです。しかし教会が教会であるための土台はむしろ、「たとえそうでなくても」の信仰です(参考:ダニエル3:17~18)。私の願った通りになってもならなくても、神が最善をなさるという信仰は変わらないという、生きた神との関係です。私にはまったくわからないけれども、神が大きなご計画の中で、私のことを考えていてくださる。世界全体、いや、永遠の視点から、神は必ず最善をなしてくださる。私たちは、そのことを信じて歩いて行くのです。
人生の嵐の中で、御言葉を開くことすらできない時もあります。疑い惑い、なんとか一日を生き延びている。しかし気がつくと、こんな自分を通して教会や祈りに導かれ、主イエスを信じる人たちが起こされている。そして私は、なぜかわからないけれども神を信じている。これこそが、一番の奇蹟です。主の言葉を信じ踏み出していくあなたを通して、大切な方々が皆救いにあずかることを信じます。
≪説教をPDFで参照、印刷できます≫