「聖書に親しむ幸い」10/17 隅野徹牧師

  10月17日 聖霊降臨節第22主日礼拝・信徒伝道週間礼拝
「聖書に親しむ幸い」

隅野徹牧師
聖書:使徒言行録17:10~15


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 日本基督教団では、今日からの1週間を「信徒伝道週間」と定めています。その暦にちなんで、今年はじめての試みになりますが、「イエス・キリストから託された大切な使命である伝道」にクローズアップした礼拝を持たせていただきます。伝道は「牧師がするものだ」と思っていた…という方もあるかもしれません。しかし「信徒も伝道していただく」ことがなければ教会は立ち行かなくなるものです。

最近伝道において、「重要なのは口コミや人と人とのつながりだ」ということが改めて言われています。それはコロナ禍で牧師が直接接することのできる人間関係が限られてきたことも関係しているのだと思います。ある人に対し「直接会うことのできる人」が「自分らしく」聖書が示す神の愛を語る方が、牧師が語るよりも伝わりやすい場合が多いと思います。

今日私は皆さんに対し「最低何人の人に神様のことを伝えていきましょう」とか「チラシを何枚配りましょう」とかお話ししません。今回私が示されたのは、皆さん信徒が伝道するために大切なのは、題につけたように「まず聖書に親しんでいただくことだ」ということだからです。与えられた聖書箇所から「聖書に親しむ幸い」を感じていただき、そのことからはじまっていく「伝道ということ」を皆さんと考えて行けたらと願います。

まず今回の聖書の舞台を確認しましょう。聖書の一番後ろにある地図の8「パウロの宣教旅行2,3」を開けて下さい。 左上の方(ギリシャ北部)にべレアという街を見つけられたでしょうか?使徒パウロは、テサロニケという大きな町で伝道をしたあと隣町のべレアで伝道したことがこの地図から分かります。

今日の説教題にある「聖書に親しむ」ですが、これは「聖書本文」だけのことではありません。聖書の巻末にはこのような地図があったり、新共同訳には「聖書そのものの解説」や「用語解説」もあります。ここは大変興味深いことが書かれています。ぜひ本文と併せて親しんで読んでみてください。

用語解説のほうで一つ、今日の箇所の理解のために参考になるところがありますので一緒に見ましょう。用語解説のP22に「会堂」という言葉が出ます。ここを読みましょう。

今日の箇所で、使徒パウロたちが「キリストの福音を宣べ伝えているその場所」として登場するのが「会堂」です。これは、私達が今集っている「キリスト教会」とは違う、「ユダヤ教の礼拝の場」なのです。ユダヤ教では、イエス・キリストを神の子救い主としては認めません。

ですので、ここに集っている人々は「旧約聖書は読むけれども、イエス・キリストを知らないか、もしくは救い主として受け入れていない人たち」なのです。その人たちが、あることをきっかけにして「イエス・キリストを救い主として受け入れる。そしてギリシャ人にも救いが広がる」ということが語られるのが今日の箇所です。それでは今のことを頭に入れつつ、今日の箇所を読んでまいりましょう。

まず10節です。

直前の1~9節に書かれていますがテサロニケのユダヤ人たちはキリストを救い主だと証しするパウロたちを迫害します。そこでテサロニケのクリスチャンたちはパウロとシラスを夜のうちに密かに町から脱出させ、ベレアの町へと送り出しました。ベレアは主要な街道から南に約70キロ離れた山の裾野に位置する町です。身を隠すにはちょうどよい逃れの町であったのかもしれません。

さて、ベレアの町に辿り着いたパウロとシラスがまずしたことは何だったでしょうか?10節によると「ユダヤ人の会堂に行く」ということをしたことが分かります。つい先ほど、ユダヤ人たちに迫害されたのに、パウロとシラスは自分の身の安全を優先するよりも、町に入るやいなやユダヤ教の会堂を探し出し、そこに入って行っていったのです。この時点で多くのユダヤ人たちが「キリストを救い主として認めていない」そんな中にあって、「ユダヤ人たちに聖書が教える本当の救いの業、ご計画を何とか伝えたい」という熱意がどれほど大きいかを思います。

10節では彼らが会堂で具体的に何を教えたのか…それが詳しく描かれませんが、多分直前の3節の「テサロニケの会堂」でしたのと同じ内容だったと考えられます。つまり「十字架にかけられたあのイエスが、旧約聖書にも証言され約束されてきた救い主なのだ」という内容です。これを伝えたがために、迫害され、逃げ出さなければならないにも関わらず、それでもパウロは御言葉を宣べ伝えることをやめないのです。その心の中がどんな風だったのか、ぜひ思いめぐらしてみましょう。そして私たちも、自分の心の中にどんな風な思いでいるのか…顧みてまいりましょう。

続いて11節12節です。ここが今回の箇所の中心箇所です。

パウロは、ユダヤ人の会堂に入って語ったことでしょう。語った内容は詳しく記されてはいませんが、直前の3節にある「テサロニケの教会で語ったと同様のこと」を力強く証ししたのでしょう。

その内容とは「旧約聖書には、神が送られる救い主がかならず苦しみを受け、死者の中から復活すると証言している」というもので間違いないと思います。その言葉を、ベレアのユダヤ人たちはしっかりときいた上で、「神がそのように語っているかどうか、毎日、旧約聖書を調べていた」というのです。

毎日というのは「何日も連続して」という意味です。そのように集中して聖書を読んで、神が自分たちに、何を語りかけているかを真剣に聞こうとしたのです。その結果として、パウロがいっていることが真実だと頭と心と両方で信じることができたのです。そして多くの人が信じます。12節にあるように、ユダヤ人だけでなく「ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」ことが分かります。彼らの「聖書に親しむ姿勢」が善い実をもたらしたのです。

しかし、この後彼らと対照的な人たちが登場してきます。それが13節から15節です。

パウロを捜し出してテサロニケからはるばるベレヤまで追跡してくる「ある意味で熱心なユダヤ人たち」が登場します。彼らの「パウロを許さない!あいつは神を冒涜している!」という強い思いは、実は思い込みから来ているのです。

「自分は神の子だ、救い主だと主張したあのイエスは神を冒涜したのだ。それなのにあのイエスが救い主だと多くの人を解き伏せている、あのパウロを絶対に許さない!!」そんな感じの思いをもっていたと想像できますが、旧約聖書をよく読めば、イエスが約束された救い主だということははっきりと分かってきます。

人間は「思い込みの激しい」生き物です。自己中心で、さも自分の意見が絶対かのような言動をしてしまいます。そんな私達のために「信仰と生活の誤りなき規範」として与えられているのが「聖書」です。

13節に出る「執念深くパウロを追い回し、罪を重ねたテサロニケのユダヤ人」と「素直で、イエス・キリストを受け入れたベレアのユダヤ人」の違い…それは聖書の向き合い方だったことをしっかりと胸に刻みましょう。

祈ることとともに「聖書に親しむこと」は信仰生活の基礎になりますし、人生を大きく変える要素になるのです。

メッセージに締めくくりに、「信徒の方一人ひとりが聖書に親しむことが、伝道とどう繋がるか」をお話ししてメッセージを閉じます。

今日の中心聖句は11節です。聖書の御言葉を語り続けるパウロたちの熱心が、ベレアの会堂にいたユダヤ人たちの「聖書に向かう姿勢」に良い影響をもたらしたのでしょう。ベレアのユダヤ人たちは「非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」というのです。

パウロがベレアやテサロニケのユダヤ人に対して、3節にあるように「イエスが神から遣わされた者として受難を受けられ、復活して栄光を受けられること」について説明したときに用いたであろう、旧約聖書の言葉を、私達も読んでみましょう。

多分旧約聖書のいくつもの箇所を引用してパウロは話したと思うのですが、私が「確実にここを引用しただろう」と考えるのはイザヤ書53章です。

旧約聖書のP1149をお開き下さい。私がゆっくり読んでみますが、皆さんは「あること」を心に留めながら、共に目で追って読んでいただけたら幸いです。

それは「ベレアのユダヤ人たち」と同じような思いになることです。つまり「イエス・キリストが本当に救い主かどうか、何のためにこの世に来てくださったのか、調べる思いをもつ」ということです。

「旧約聖書の時代から本当に約束されていたのかどうか確かめる」思いをもって、御言葉を読んでみましょう。

いかがでしょうか?何が書かれていたでしょうか?ここに書かれているのは、ずっと昔から「救い主を苦しみに遭わせて、人を罪から救いたいと願われている神の愛」です。 聖書は「神についての分かりにくい教えがずらずらと並べられた書」なのではなく、読めば読むほど「私達をどれだけ愛しておられるのか、大切に思って下さっているのかが確かなこととして迫る書」なのです。

ぜひ、これまで以上に「聖書に親しむ日々」をご一緒に送りませんか?それが信徒が伝道に関わる第一歩だと聖書は教えます。

ここのところ聖研祈祷会の出席者が減っています。もっと多くの方が参加して「聖書って奥深いね!」とか「旧約聖書と新約聖書がこう繋がるんだね!」などと感じることができ、そして多くの人で、神の愛を語りあえたら、それは伝道の大切な一歩なのです。

もちろん祈祷会だけではなく、教会の中で「聖書のこの言葉にこう教えられた、慰められた」というような証しが自然と飛び交うようになれば、それは「もっと深く神の愛に触れたい」という人が生まれることにつながり、それは伝道に大きく波及すると信じます。ベレアの町でギリシャ人たちにまで救いが広がったのは、まさにそういうことではないでしょうか?

人に話しかけるのが苦手という方でも、ともに聖書を熱心に読むことならできそうだ、と感じていただいたら感謝です。ともに主の道を多くの人に伝えるために、できることを担ってまいりましょう。(祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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