12月19日 降誕前第1主日礼拝・クリスマス礼拝・聖餐式
「神は我々と共に」
隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書1:18~25
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今朝は2021年のクリスマス礼拝を持ちます。今年は、クリスマスまでの礼拝で、「約束の成就」という視点からのクリスマスメッセージを語らせていただいています。前回は旧約聖書エレミヤ書の31章31節から34節を取り上げ「神の独り子イエス・キリストのご降誕」を「新しい契約の成就」として捉えました。
今回はマタイによる福音書の「イエス・キリスト誕生について記した箇所」です。マリアの側ではなく、「ヨセフの側に、イエス・キリストの誕生が伝えられる」有名な箇所です。この箇所は「一人間の誕生の秘話」が記されいるではありません。「人の想像をはるかに超え、旧約時代から約束されていた神の救いの業が実現したのだ」ということです。 共に御言葉を味わいましょう。
本題に入る前に、直前の聖書箇所に注目したいと願います。1~17節の「イエス・キリストの系図」の箇所です。
冗談のように「よく言われる」のが、「新約聖書はマタイ1章18節から読むとよい」というアドバイスです。それはマタイ1章1節から17節が「人の名前の羅列に終わっていて、ここを目にしただけで、聖書を読む気が失せた」という人が多いからだそうです。しかし!私はこの1~17節があってこその新約聖書だと思うようになりました。「旧約と新約の橋渡し」のような役目を担っているのがこの箇所だと考えるからです。
17節に記されているように、アブラハムからダビデまでの14代に渡る名前、ダビデからバビロン捕囚に伴う「移住」までの14代に渡る名前、その後からイエス・キリストまでの14代に渡る名前が記されています。
「福音書は主イエスの伝記ではない」という言葉がよくいわれますが、この系図もイエスの先祖が誰なのかについて全く漏れのない正確な情報を与えることを目的としては書かれていません。アブラハムから始まり、ダビデを経てイエスに至る系図を記すことで「ただ名前の羅列がなされているのとは違う!」大切なメッセージが込められているのです。それは主に二つのことです。
①つ目、イエス・キリストが「人間として生まれてこられたけれども、人間を罪から救う神の子救い主なのだ」ということを教えようとしていること、②つ目「救い主キリストがアブラハムの子孫から、一人のユダヤ人として生まれた」「神が実際に人となって、私達の歴史の中に身を置いて下さった!」ということの表れなのです。
2週前にお話ししましたが、神が人間に具体的に関わり、具体的な救いの業を行われるために選ばれたのが「アブラハムの子孫であるユダヤ人」だったのです。
神は彼らに約束します。それは「ユダヤ人として生まれる救い主によって、人が罪から救い出される」ということでした。
実際にイエス・キリストは、何の罪も犯されない神の子であるのに、私達と同じ人間として歩んでくださいました。そして全ての人の身代わりとなって死んでくださいました。さらに全ての人を新しく生かすために「死に打ち勝って復活してくださった」のです。このことによって、ユダヤ人だけでなく、私たち全ての人間のための救いの業を実現して下さったのです。
アブラハムから始まってイエス・キリストにつながっているこの系図には「神からの救いの約束」としての意味が込められていることを覚えましょう。
では今のことを心に留めて、今日の箇所18節以降を「救いの約束の成就」という観点でよんでまいりましょう。
まず18節から20節です。読んでみます。
よくご存知の箇所だと思います。この部分で大切な言葉、それは2回も繰り返される「聖霊によって宿った、みごもった」という言葉です。
ヨセフが眠っているとき、神は、夢の中に「使い」を送り、「恐れないでマリアと一緒になりなさい」と伝えます。そして「マリアのお腹の中にいる子は、誰かほかの男性の子どもなのではない」ことを伝えた上で「この子は神の聖霊による奇跡の業によって宿った子どもなのだ」と伝えるのです。
マリアのお腹に宿ったこの子は「ただ普通に人間の一生を送るために生まれてくるのではない!神から特別に送られた命なのだ!」そのことを聖書ははっきりと表すのです。
21節から23節は最後に味わいますので、先に24節、25節を見ます。
ヨセフは夢で神から告げられたとおりに、すぐに「マリアを迎え入れる」、つまり、結婚したのです。25節には「男の子がうまれるまでマリアと関係することはなかった」とあります。「普通の新婚夫婦が味わう、ささやかな幸せ」とはかけ離れた、結婚生活のスタートだったのです。
それでもヨセフは「すべてを納得した上で」、マリアと結婚し、イエスが生まれるまでを過ごしたと考えられます。
残った時間で、後回しにした21節から23節を深く味わいます。
マリアのお腹に「聖霊の御業によって宿った神の御子」は「イエス」という名前が付けられたのですが、そのことに大きな意味があるのです。
イエスという名前ですが、当時はよくある名前だったようです。意味としては「神は救い」とか「神は救われる」という意味です。
この「イエス」という名前ですが、神の使いである「天使」がつけるように伝えたから、付いたことが分かります。つまり何が分かるかというとマリア、ヨセフではなく、他ならぬ神ご自身が「予め定めた名前」として、「聖霊によってみごもった特別な子」に対し「イエス」と名付けたのです。
「神は救われる」という意味の「イエス」という名を、聖霊によってみごもった神の御子が受けることによって「民たちを罪から救う」ことを成し遂げる子であることが表されているのです。
また、人として誕生されるキリストが成しとげられる「もう一つの大きなこと」がこの箇所に表されています。それは!「神である方が、すべての人間と共にいてくださる、共感する心からの友として、一緒に歩んで下さる」ということです。
22節に「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉が出ます。イエス・キリストのご降誕、つまりクリスマスの出来事は「神が預言者を通して約束されたことが成就するためだった」とはっきり教えられているのです。アドベントからこれまで深く味わって来た「神の約束」が、この時まさに成就したのです。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は「神は我々と共におられる」という意味である。」23節のこの言葉はイザヤ書7章14節にでます。旧約の時代、神が預言者イザヤを通して実際に語られた約束の言葉なのです。
「神はその愛ゆえに、罪深い我らと共にいてくださり、救いたもうお方である」そのメッセージが、キリストが誕生される遥か前、預言者イザヤの預言の言葉に見ることができる…そう聖書は示しているのです。
神の独り子が、人として生まれ、罪の身代わりとなって死なれたというだけでも物凄いことですが、「ただ死なれた」言い換えるなら「ただ生け贄となるために生まれられた」のではないのです。
共にいて下さる!私たちの心の友となる!そのために、この世に来てくださったのが神の独り子キリストなのです。
神は「とくに何も考えず」に、粛々とご自身の立てられた計画を遂行なさるのではありません。もちろん「気まぐれに」いろいろなことをされるのでもありません。そうではなくて、神は私達人間を愛する思いから「しっかりとお考えになって」救いの業を計画され、それを実現されるのです。
神のご計画で一貫しているもの、それは「人間を大切に愛し、共に歩もうとされる思い。そして罪、滅びから救い出そうとされる思い」なのです。その神の深い愛が、今日の聖書の言葉に、また「クリスマス」という出来事そのものに溢れ出ています。
愛する独り子「イエス・キリスト」をこの世に遣わした。そのことを通して「なんとしてでも、人間たちを罪の中から救い出したい」と救いの約束を立て、そして実行なされる神。クリスマスの出来事には「それでもあなたたちと共に歩みたい」というメッセージが溢れているのです!
私たちも2021年のクリスマス、改めて知った大きな神の愛、神の恵みを感謝して受け取りましょう。
(祈り 黙想)
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