12月26日 降誕節第1主日礼拝
「救いの計画の終着点」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネの黙示録21:1~6
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今日は2021年最後の礼拝です。コロナ禍2年目の今年2021年は皆さんにとってどんな1年だったでしょうか。私にとっては苦しい1年でした。
嬉しいことも多くありましたが、多くの愛する方々が苦しまれる状況が多かったように思います。とくに体調のすぐれない方が多く、「あの方をなんとか癒して下さい」という祈りを重ねた1年でした。
しかし、祈る中で「苦しみは苦しみで終わらない。やがて神と共に、天にて永遠に生きる希望が与えられている」という希望も確かに感じ取った1年でした。
ちょうど今年のクリスマスには、続けて「神の約束の実現」という聖書からの一連のメッセージを聞いてまいりました。人間を罪から救い出すという神の約束は「イエス・キリストの誕生や十字架・復活」で成就したことを皆様と御言葉から味わいました。しかし、それだけではまだ完全な「完成・終わり」ではないのです。
私達一人ひとりの「罪からの救い」は、この地上ではなく「天において」完成するのです。今日はそのことが示されている聖書箇所を選びました。今年最後の礼拝において「最終的な神からの約束」を聖書の言葉から感じていただければ幸いです。
さて、今日のメッセージで引用する聖書の箇所は、聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」です。しかも今日は、その「ほとんど終わり」の場面を見ることにします。最初の創世記に「この世のはじまり」が描かれ、最後の黙示録には「終わり」が描かれています。
「終わりについての記述」があることで、例えばSF映画などで描写されるために、誤解されることが多いです。しかし!私達はそうした誤解をいったん捨てて、終わりの時を「救いの計画の完成の時」として、別の言い方では「神の福音が最も満ちあふれる時として」見つめてまいりたいと願います。
天地創造から始まる創世記は、「罪に堕ちた人間をそれでも愛の内に助け出そうとされる、神の救いの歴史」が始まる書でもあるのです。その「創世記」から始まった「神が人を救いに導く歴史」が完全に「完成する約束」が示されているのがヨハネの黙示録なのです。
この「ヨハネの黙示録」ですが、1世紀末にあった「ローマ皇帝による激しいキリスト教迫害」の中で、ヨハネが与えられた「幻」が記されているのです。幻ですから理解が難しいのが当然です。しかし!この地上で目に見えるものを超えて、「確かに与えられる希望」が見て取れるのです。
今回選んだのは21章1~6節です。ここでは「私たちが地上の歩みを終えた後、どんな希望があるか」、新しいエルサレム、別の言い方で「天国にあっての」神からの約束が示される箇所です。味わってまいりましょう。
まず1節と2節です。
「新しい天と新しい地を見た」とあります。これと2節にでる「天から下ってきた聖なる都エルサレム」は同じようなものを指していると考えて差し支えありません。いずれも私たちがやがて行くことができると約束されている「天の国」を幻で表したものです。
さて、その二つが新しく現れるのとは反対に「最初の天と最初の地」が去っていくと記されています。「最初の天と最初の地」とは、古い世界のことを意味します。具体的には私達が今生きている「現実世界」のことです。
現実世界は残念ですが「弱肉強食の世界」です。武器をもって相手を脅すことが社会正義を実現する道であるかのような「罪に満ちた世界」です。ここ2年のコロナの感染拡大で貧困格差はさらに広がったといわれます。苦しむ人がなおも苦しまなければならない…一生懸命に生きたクリスチャンが、出口の見えない迫害にさらされていたヨハネの時代とあまり変わりません。
しかし、今回読んでいる聖書箇所では「神が創られた世界は、いつまでも堕落した状態でいるわけではない」と力強く教えられるのです。古い世界はいつか「去って行く」のです。
2節に「もはや海もなくなった」という言葉も併せて出てきます、「海」は黙示録13章では、悪によってこの世界を支配する悪しき支配者に例えられた「獣」が出てくる場所です。その海がなくなるのです。つまり、天と地の一切が新しくされ、「私達人間が、罪や悪に支配されることのない、新しい世界が与えられるのだ」ということが教えられるのです。
その新しい世界の象徴の幻として「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来る」ことがヨハネに示されるのです。
2節の最後で注目したい言葉があります。それは「天から下ってくる」です。
救いの完成の場所である「神の国」は天から来る、つまり「一方的に与えられる」のであって、人の努力により生まれるのではないということがはっきりと教えられます。
社会情勢が不安になるたびに「ユートピア運動」というものが起こります。人間が、同じ思想の人を集めて、その人たちだけで固まって過ごす、いってみれば「排除の論理」で地上の楽園を体現しようというものです。このコロナ禍でも多く起こりました。しかし、この聖書の箇所ははっきりと示します!(強)約束の国は地上にはないですし、このあと実現することもないのです。人間の救いは、神からの一方的なものなのです。
アドベントからクリスマスまでの4週の礼拝で「私達を救うために神が結んでくださる契約は常に一方的なものである。人間が約束を破っても、それでも救いを実現しようと、契約を結び直してくださるのだ」ということを学びました。
人間の努力や、行いが救いをもたらすのではありません。天の国での永遠の命も神からの一方的な恵みであることを覚えましょう。
つづいて3節4節です。ここもお読みいたします。
ここでは「新しい天と地」そして「新しいエルサレム」に具体的にどんな希望があるのか教えられます。ここでは、死も悲しみも嘆きもなくなるというのです。なぜなら「神が完全に共におられる場所だから」です。
悲しみや嘆きや労苦がなく、喜びが支配する国。神が共に住み、神自らが「これまでの苦しみ、嘆き」を分かって下さり、慰めてくださると教えられます。
なんという希望でしょうか。神と私達人間が「まるで一体となったかのような世界」に、いつか私達が行くのです。
ヨハネを通して神は、迫害下にあったクリスチャンたちに「どんなに目の前の現実がどれほど暗くても、私はあなたたちと共にいる。そして救いが最終的に完成するとき、私はあなたたちと一体になるのだ」と教えられるのです。
これは現代を生きる私達にも語られている希望です。
最後に残った5節、6節を読んで終わります。
幻を見ているヨハネに天におられる神の厳かな声が響きます。それは「神が万物を新しくする。この約束を地上で苦しむものに書き送れ」という声でした。
さらに「事は成就した」という神からの宣言がなされるのです。
神ご自身が導いてこられた地上でのこれまでの歴史が全く新しくされるのです。初めであるお方、つまり創造主であり、独り子キリストをこの世に送ってまで、私達一人ひとりを救おうとなさるお方が、歴史の最後まで見放すことなく導いてくださるという約束がなされているのです。
そのことが確実であることを迫害下のクリスチャンたちに送るために記された言葉が「ヨハネの黙示録」ですが、これは今を生きる私達にむけても与えられた約束なのです。コロナ以降、私はとくにこのことを思うようになりました。
そして6節の最後に「天の国は、神が共にいてくださるだけでなく、飢えることも、渇くこともない場所だ」ということが幻を通して示されるのです。
地中海沿岸の太陽が照り付けるなか、ローマ皇帝に迫害されていたクリスチャンたちは、食べ物や飲み物が与えられず、死線をさまよっていたといわれます。そのような中、ヨハネを通して与えられた「新しい天の幻」にどれだけ励まされ、慰められたか想像に難くありません。
私たちもそれぞれ大きな苦難の中を生きています。しかし、苦難は苦難で終わらない、「アルファでありオメガであるお方が、私達を一番よい結末に導いてくださるということを今回の聖書箇所から覚えていただいたら幸いです。神と共にある希望をもって新しい年を歩んでまいりましょう。(沈黙・黙祷)
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