7月10日 聖霊降臨節第6主日礼拝
「本当にアブラハムの子であるならば」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 8:31~47
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少し前から再びヨハネによる福音書8章を読み進めております。ここのところの聖書箇所は、律法学者をはじめとするユダヤ人たちと、イエス・キリストとの対話が続く場面です。
先週の箇所21節から30節では、「イエスが父なる神のもとから来て、父なる神のもとに帰ろうとしている」ことや「イエスが上のものに属しているのに対して、ユダヤ人の彼らがこの世に属していること」そして!最も大切なこととして「上のもの、つまり天に属しておられるイエスが、この世に来て、この世を生き、神の御心をそのまま行っておられるのだ」ということが示されていました。
なお、最後の30節で、イエスのこれらの言葉によって、多くの人々がイエスを信じた、と書かれています。先週触れませんでしたが、これは「心からイエス・キリストを救い主として受け入れた」という意味ではありません。あまり考えず「信じ込んだ」という意味のようです。それは今回読む部分を見ることではっきりと分かります。
イエスのことを「神が遣わされたお方だ」と深く考えず信じ込んだ人々に対して、イエスが「本当に大切な心構え」を教えられたのが今日の箇所です。その教えは、今の私たちの心に鋭く迫る教えでもあります。
早速ともに味わってまいりましょう。
まず今回の箇所の概要を簡単に説明いたします。
今回選んだ箇所である31節から47節は、ずっと同じような話が展開します。
まずイエスが、信じたユダヤ人たちに対し31節でお話しになるところから始まります。それは「ご自分の本当の弟子になるために、必要なこと」の教えでした。これを実行することで「本当の意味で自由になる」と教えられたのです。
しかし、「信じたはずのユダヤ人たち」がこれを素直に受け入れません。自分たちは「アブラハムの子孫だ。自分たちだけが、神の選びの民だ!だから私たちは何者の奴隷でもないのだ!」と反論します。
この時代、イスラエル・ユダヤは「ローマ帝国」の属国になっていましたので、政治的な意味では、実質「奴隷状態」といえました。だから「自由にする」というイエスの言葉に対し「自分たちは自由だ!」と過剰に反応したのでしょう。
これに対しイエスは、厳しい言葉で、彼らの「実際の姿」を次々と表されるのです。
34節では彼らを「罪の奴隷」と言われ、37節と40節では「あなたたちは、わたしを殺そうとしている」とまで言われます。そして44節では「あなたたちは、悪魔である父から出た者」とはっきり言われます。
来週の箇所でよりはっきりと分かりますが、これを聞いた彼らがイエスに対し不信感、嫌悪感を深めていく…そんな流れです。
さて今回の箇所を深く理解していく上でポイントになるのが37節から40節です。
イエスは、目の前にいるユダヤ人たちが「アブラハムの子孫である」ことは認めておられます。しかし、それはあくまで血筋上のことであります。
本当の意味で彼らはアブラハムの子ではない、とイエスは仰います。それは「神の言葉を受け入れない」こととともに、「イエス・キリストを殺そうとする」からだと仰るのです。
ここでの「イエス・キリストを殺そうとする」とは、単に「十字架にかけようとした」ということ以上の意味があります。
「キリストを殺す」とは、霊的な意味で!神の独り子であり、救い主であるキリストを殺すことです。そのキリストを霊的に殺す力の根源が「悪魔」です。
今日の箇所では44節に「悪魔」という言葉が実際にでます。さらに「悪魔が人殺しである」というイエスの言葉が出ますが、これも「文字通りの人殺し」というより「人を霊的に荒廃させる」という意味で言われているのです。
そのようにここで出る「イエス・キリストを殺す」ということが「書かれているの文字以上」の深い意味があり、悪魔が関係することをお伝えしましたが…実際にイエスを悪魔が「殺そうとしている他の聖書の場面」を見ることにします。
皆さま、新約聖書のP107をお開けください。 ルカによる福音書4:1~13です。有名な「イエスが、宣教のはじめに悪魔の誘惑を受けられた場面」ですが、ここをざっと読んでいただけますでしょうか。
ここで悪魔がしようとしていることこそ「イエス・キリストを、神の御心から引き離す」ことです。別の表現で「天の父なる神が、人間を罪から救うために、独り子イエス・キリストを遣わされた救いのご計画を邪魔すること」だったのです。
ここで悪魔は、イエス・キリストを「権力と繁栄とを兼ね備え、絶大な力をもった者」として、人間たちに見せようと誘惑しましたが、これこそが「キリストを殺すこと」なのではないか、と私は今回の箇所から連想しました。。
この「悪魔がイエスを誘惑することで作り上げようとした救い主像」にまんまと乗ってしまっていたのが、当時のユダヤ人たちだったのです。
もう一度今日の聖書箇所に戻りましょう。再びP182、183をお開け下さい。
彼らは「自分たちはアブラハムの血を引くものだ」ということを「ブランド」のように思っていました。そのことから一人間である「アブラハムやダビデ」を「繁栄をもたらしたリーダー」として必要以上に持ち上げ、崇拝したのです。これは「見た目を重視させようとする」悪魔の策略どおりでした。
今回の説教題に「本当にアブラハムの子として歩むこととは」と付けましたが、本当にアブラハムの子として歩むこと…それはガラテヤ書の3章などに出てきます。
具体的には「神を信じる信仰によって、神から義とされることに希望をもって生きる」ことです。律法・掟を守るなど「何か立派な人っぽく歩むこと」がアブラハムの子の歩みではありません。
そして今日の箇所ならば31節です。ここの「イエスご自身の言葉」に「アブラハムの子として歩むとは、どんなことか」の答えがあります。
もう一度31節をご覧ください。
ここでは「イエスご自身の言葉にとどまる、そのことが真理であり、知らず知らずのうちに罪の奴隷になっている私たちを解放する」と教えられています。「イエスの言葉にとどまる」とは「自分の罪を認めること。しかし、そんな罪人の自分をも救うためにキリストがこの世に来て下さったことを信じて生きる」ことなのです。
41節を見ると、ユダヤ人たちは「自分たちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただ一人の父、神がいます。」というような答えをしています。
これは「私たちの民族は、宗教的に浮気はしていません。親から子へ正統な信仰を受け継いでいるので、他の民族と違い、正統で純潔な信仰を持っているのです」というような意味です。
実際のイスラエル・ユダヤ民族の歩みは全くそうではなかったのですが、いかにも「自分たちは正しいのだ!正統派だ、純潔だ!」と思い込み、自分たちの罪を顧みるつもりがないことが見て取れます。
先日、シオンの会で読んだりもしましたが、実際のアブラハムの生涯は罪や失敗のない完全無欠な歩みではないことが分かります。しかし!彼は「欠けの多い自分をも神は、義しい者としてくださる、祝福の基としてくださるのだ」という約束を信じ抜いて、その生涯を走りぬいたのです。
そのアブラハムのように、私たちも「罪や欠けが自分のうちにあることを認めつつも、そんな自分を神は、キリストのゆえに義として下さる」ことを信じて、希望をもって歩むならば「本当のアブラハムの子として」歩むことができるのです。そのことを覚えていましょう。
最後に私たちへの教えとして 34~36節を短く味わってメッセージを閉じます。
ここでは、ユダヤ人に限らず、私たち人間すべてが「罪の奴隷」である現実に心を向けましょう。罪の奴隷は「神の家、神の住まいである天国」にいることができません。
しかし、そんな私たちが「神の子イエス・キリストを信じ受け入れ、その言葉に留まり続けることによって」、特別に養子縁組をしていただくような形で「子としていただける」そのような希望が示してあるのです。
私たちは、皆「原罪を引き継いで」生まれてくる、いわば「罪の奴隷」ですが、そんな私たちをも「子として下さり、罪の支配から自由にして下さる」神、そして御子イエス・キリストの愛を心に刻んで、日々歩んでまいりましょう。
(祈り・沈黙)
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