7月24日 聖霊降臨節第8主日礼拝・創立記念礼拝
「神の業が現れる一人一人」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 9:1~12
説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。
今日の礼拝は「山口信愛教会の創立記念礼拝」として持たせていただきます。
いまから128年前の1891年、明治でいうと24年、アメリカ人宣教師のミス・ケイト・ハーラン女史らが、英語や裁縫の学校を開いて、青年男女を集めて、この山口で布教を開始しました。同じ年1891年の7月20日に12人もの青年がイエス・キリストを救い主だと告白し、洗礼を受け、最初の教会員が誕生したのです。
山口信愛教会では、この1891年7月20日を教会の創立日として記念しています。
建物が立った日や「宣教師が赴任した日」ではなく、キリストを「自分を罪から救い出してくれる救い主」として信じて公に告白し、そして洗礼を受ける人が起こされた「その日を」創立記念日にしているのです!
この「信仰を告白した人が与えられた日」を創立記念日として覚えることで「山口信愛教会とはどんな場所か、何のために存在する場所か」ということを私達に再確認させてくれるのではないでしょうか。
山口信愛教会の主日礼拝で読み進めている「ヨハネによる福音書」はちょうど順番的に「9章の最初から」になりました。目の不自由な人の癒しの箇所ですが、ここは「ただ奇跡的に視力が回復した」ことよりも、目の不自由な人が「イエスの言葉を信じ、受け入れて一歩前に出たことの大切さ」、そして「この人に対するイエスの愛」を教えているのです。
創立131年を迎える、この山口信愛教会の歴史を振り返るとき、弱さや病気がきっかけでキリストと出会い、そして「イエス・キリストを救い主として告白して、新しい人生を歩みだされ、その後キリストの愛に満たされてこの世の旅路を進まれた」方が沢山おられます。
今日は、そういった先人の歩みも心に留めつつ、御言葉を味わっていただくことを願います。
今回の箇所のあらすじは、先ほどの子どもメッセージでも紹介しましたので、改めてご説明することはしません。ただこの話の最初のところに注目したいと願います。
1節をご覧ください。
弟子たちの2節の質問が強烈な印象を残しますが、はじまりは、イエスが「生まれつき目の不自由な人」に愛のまなざしを送られたところから始まっているのです。
イエス・キリストは、多くの人が大して気にすることもなく通り過ぎてしまう「様々な苦しみや悲しみを負っている人に」愛のまなざしを向けておられます。その人々のために愛の業を行おうとしておられることをまず心に留めましょう。
さらに大切なこととして心に留めたいことがあります。それはイエスが立ち止まって「苦しみを負ってらっしゃる方を見つめられること」によって、私たち周りの者もその人に目を向けていく者とされるということです。
とくに注目したい言葉があります。それは「4節」です。
今回の箇所で最も大切なみ言葉は3節の「神の業がこの人に現れるためである」とのイエスの言葉であることは間違いありません。今回の説教題にも、そのようにつけさせていただきました。ただこの言葉とともに大切なのが続く4節だと私には示されています。(※では3節と4節を続けて読んでみましょう)
4節のイエスのお言葉ですが「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と言っておられます。
イエスをお遣わしになった方、それは天の父なる神です。その方の業を、「まだ日のあるうちに」つまり、世の光であるイエスの光がかき消されてしまい、誰も働くことができない夜になる前に「神の業を行わなければならない」そう言われたのです。
この「夜になる前に、神の業を行わなければならないのは」イエス・キリストおひとりではなく、「わたしたち」なのです。
つまり!イエス・キリストと共に生きる「わたしたち一人ひとり」が、苦しみ悩む人々に対して「神の業を行わなければならない!」そのように勧められているのです。
このようにイエス・キリストが「神の業を行うため」に、父なる神からこの世に遣わされた方だということ、そしてキリストに出会った私たちもまた「神のお助けをいただいて、神の業を行う者となる」ことが大切だ!ということが、この箇所から教えられる最も大切なことなのです。
イエスの唾で作った泥には癒しの力があるとか、シロアムの池の水には他の池とは違う特別な力があるとか、そういうことではありません。7節には「シロアム」という言葉が「遣わされた者」という意味であることがわざわざ語られています。
イエスこそが、父なる神によって「遣わされた者」です。ですからシロアムの池の水による癒しは、その池の水の力を示しているのではなくて、イエスが「人間の救いのために神が遣わして下さった救い主」そして「この世全体を愛によって生まれ変わらせる救い主」であることを示しているのです。
その後、6節以下で、実際にイエスが「この人の目を見えるようにする癒しのみ業を行われた」ことが記されます。
その際イエスは、弟子たちが質問した「この人が生まれつき目の見えないことに対しての理由や原因」を示そうとしてはおられません。むしろご自分がなさる神の御業に弟子たちの目を向けさせておられるのです。
私たちは苦しい出来事に直面する時に「どうしてこうなったのだろう、その原因は何なのだろう」という問いを抱きます。しかし神・イエス・キリストは、そんな私たちの「人間的な問い」に対して、「その原因はこうだ」という答えを与えようとはなさいません。
イエスは、これ以上ない愛をもって「業」へと向かわれているのです。
そのお姿には「なぜこうなったのか、と後ろ向きに問うのはやめなさい。これから神が行われる救いの業をよく見なさい」そして「あなたたちも私をお遣わしになった神の愛に目を留めなさい!」というメッセージが込められているように私は感じます。
そして…3節のイエスのお答え「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業がこの人に現れるためである」という言葉と4節の「わたしたちは、独り子をこの世にお遣わしになった天の父なる神の業を、日のあるうちに行わねばならない」という言葉を続けて考える時、「原因さがしではなく、未来を見ることこそ大切だ!これから起こる神の愛の業をよく見なさい。」そして「あなたがたは、目の前で苦しむ人に出会った時、苦しみの原因捜しをする前に、隣人愛を実践しなさい!そこに、独り子を惜しまずに世に与えられた、天の父なる神の、愛の御心はあるのだから」という深い教えがある…そのように私は読み取ります。
イエス・キリストが死を打ち破って復活され、天の上から見守っておられる今、独り子を愛のうちにお遣わしになった神の御業を行うのは「わたしたち」です。イエスに従っていく弟子である私たちはその業を「まだ日のあるうちに」、つまり「この地上で生かされている間」行うように、教えられているのです。
世の中は冷たいものです。目の前に苦しむ人がいても、自分を犠牲にして助ける人は僅かです。そればかりか、苦しむ人を前にしても「なぜこれが起きたのか、その答えが知りたい」などと思う者が大多数です。 相手の助けよりも、自分の納得できる答えを得る方を優先させる。それは苦しむ人をさらに苦境に追い込むことであります。
しかし、私たちキリストを信じる群れである「教会」はそうであってはならない。ことを今回の箇所は強く教えていることを忘れないでいましょう。
私たちが苦しむ人々を救うことなどできません。しかし神が、ご自身の救いのみ業のために私たちを用いて下さる。そして神の愛の業が、様々な苦しみ悲しみの中にいる人々にも起っていくのです。
今日の箇所から教えられる、この「神の業の現れ」は、山口信愛教会の歩み、そのものと重なると思います。
お互い弱さをもちつつ、神の愛、キリストの愛によって支え合う共同体として131年歩んできた山口信愛教会。まさに「神の業が現れる一人ひとり」としての歩みがそこにあるのではないでしょうか。
最後に、今日の箇所を通して、私が最も思い浮かべる「ある信愛教会の信仰の先達」の歩みに触れてメッセージを閉じます。
その方は穐村香代美さん。野村登紀子さんの妹さんです。
視力を失われた中でも、明るく前向きに、純朴な信仰をもってこの地上の生涯を走り抜けられた穐村さん。私が一番印象に残っているのは、私が洗礼をうけた1993年のクリスマス、琴の演奏で洗礼を祝って下さったその時の表情です。
視力を失っていらっしゃることを知っていたのですが、そんな苦しみを抱えておられたはずの穐村さんが私の洗礼を我がことのように喜んでくださる。「苦しいはずなのに、これだけ前を向いてあゆんでいらっしゃる、その原動力がキリストの愛なのだろうか…」とクリスチャンになったばかりの私が思ったのを今でも思い出します。
穐村さんだけでなく、彼女を支えておられた教会の姉妹方の一つ一つの行いからも「神の業」を感じた私にとって穐村さんは、まさに「神の業が現わされた人」でした。そして、ご親族の中に、イエス・キリストと出会い、この教会の枝となられた方が何人も生まれるきっかけとなられたのでした。
イエス・キリストは、苦しみや悲しみをかかえて生きている私たちの人間に、愛の業を現そうとして下さっているのです。イエスのそのまなざしに応えて、神の業を信じて求めていくなら、私たちの群れ全体の歩みの中に神の業が現れます。創立記念礼拝の今日、この先も「神の業が現わされる教会として」歩むことを祈り願ってまいりましょう。 (祈り・沈黙)
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