「信仰のない私をお助け下さい」1/1 隅野徹牧師

  月1日 降誕節第2主日礼拝・元旦礼拝
「信仰のない私をお助け下さい」隅野徹牧師
聖書:マルコによる福音書9:14~29

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 皆様、あらためまして明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 今年は元旦が日曜日に重なりました。元旦礼拝ではなく、聖餐式もある「主の日の礼拝」をもって1年が始められますことを感謝します。最初の礼拝ですが、私には「新年にはここを語ろう」と示されていた聖書箇所がありました。それが先ほど朗読いただきました箇所です。

 水曜日の祈祷会で夜の部だけが開催される時、使徒信条の解説テキストを用いるのですが、11月23日の祈祷会で「我は信ず」の部分を学んだときに「気づかされたこと」が多くありましたので、新年の一発目、皆さんにお分かちしたいと思いました。

 今、聖書のP78、マルコ9章14節からの部分をお開きでしょうか?

この場面はイエスが二人の弟子たちとともに山から下りられた後、ある人から「自分の一人息子を癒して下さい」と願われたことから始まります。

この子の病は「悪霊に取りつかれること」によって起るものでした。悪霊が取りつくと、その子は突然叫び出し、けいれんを起し、その場に倒れて引きつけを起こすのです。この子の父親はイエスの弟子たちに、この子から悪霊を追い出してほしいと頼みます。しかし、弟子たちは誰も悪霊を追い出すことができなかった、と聖書は記しています。

しかし!神の子であり「全ての民の救い主」であるイエス・キリストは汚れた霊を叱り、追い出してくださったのです。子どもを癒し父親にお返しになりました。弟子たちには出来なかった癒しをイエスは成し遂げられました。

一連の話を通して聖書は「自分たちの力に頼り、神の力に委ね切れなかった弟子たちの失敗」を描き、一方でイエスは忍耐し、み業を行なって下さること、そして「今一つ信じ切れない、父親」に対しても寛容を示し、御業を通して大切な真理を伝えてくださることを教えるのです。

さて深く御言葉を味わうために、まず19節に注目したいと願います。【※19節をよんでみます】

イエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいられようか。あなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃいました。これは「弟子たちだけでなく、父親やそのこども、そして群衆すべて」に対して言われたことばです。一見ひどい言葉のように感じてしまいがちですが、もとの言葉を直訳すると…「私はあなたがたと共におり、あなたがたを我慢するのはいつまでだろうか?」という疑問形になるそうです。

つまりイエスご自身は「わたしたがあなたたちと共にいるのは、何時までだと思っているのか?」と答えを考え出させる意味で言われた言葉なのです。

 なぜこんなことを考え出させようとされたのか…それは弟子たちを含め、ここにいた人たちが「イエスの力」を絶対的なものとして考えるというよりは「都合よく借りようとしていた」からだと私には示されるのです。

 今日の箇所の最後の方の28節と29節をご覧ください。

弟子たちがイエスに、「どうして私たちはあの悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか」と問います。それに対しイエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と答えられたのでした。

イエスが言っておられるのは、「あなたがたがもっと信仰を持っていれば追い出せた」ということではありません。また「祈りという手段を用いなかったから追い出せなかった」ということでもありません。

悪霊を追い出してこの人を救って下さるのは「自分の力ではない」もちろん「人間個人の祈りの熱心さ」ではない! そうではなくて「神ご自身の力である!」という信仰、これこそが必要だったのです。つまり「自分をすてて、ただ神に委ねる祈り!」祈りが必要だと教えられたのです。

今回の箇所の直前の箇所では、弟子たちはイエスによって派遣された時、「いろんな人々から悪霊を追い出し、病気を癒すことができた」と書かれています。弟子たちは、派遣された当初、「悪霊を追い出したり、病気を癒す権威や力が自分にある」などとは全く思っていなかったのです。だから…ひたすらイエスの授けてくださった力を信じ、そして天の神に祈り求めつつ「目の前の一つ一つの事柄にむかっていった」のです。

ところが!今回の聖書箇所の場面では、弟子たちが「何か自分自身に特別な力が備わったか」のように勘違いしてしまったのです。それで、この父親が訪ねて来た時にも、「さあ、私たちが悪霊を追い出してやろうではないか!」という思いでこの子供を癒そうとしたのです。すると今度は何事も起らなかったのです。

先ほど、イエスの言われた19節の「いつまでわたしは、あなたがたと共にいられようか。あなたがたに我慢しなければならないのか」という言葉は、もともと「わたしたがあなたたちと共にいるのは、いつまでだと思っているのか?」と答えを「考え出させる意味で!」言われたものだの私の考えをお話しました。それを言われた理由としては、弟子たちを含め、ここにいた人たちが「イエスの力」を絶対的なものとして考えるのではなく「都合よく借りようとしていた」からだとお伝えしました。

神の力を祈り求めることをせず、自分の力で何かをすることができるような錯覚に陥っている。そして「悪霊に打ち勝つことができずに簡単に諦めてしまう」そういう態度は「イエス・キリストを神の子、救い主として信じ、受け入れる」態度ではない!ということがこの箇所を通して描かれているのではないでしょうか。

イエスは「わたしたがあなたたちと共にいるのは、いつまでだと思っているのか?」と答えを考え出させることによって…「わたしはあなたといつも共にいるのに、あなたはわたしに頼る時間を『自分が思う、ある限られた時間』だけだと思っていないか?」ということをお伝えになります。

そのことを通して!「イエス・キリストの力が働く時間や場所があるのは信じるけれども、働かない時間もあるし、できないこともあるのではないか…」と疑ったり、諦めてしまうことに対して、その間違いを教えられるのです。

神とイエス・キリストとの全能の力をどこか低く見るような態度…それは私の心の中に正直あります。この礼拝の後の「新年の抱負の分かち合い」でもお分かちしますが、年末に西村信恵宣教師をお迎えした際、このことが強烈に私の胸に迫ってきました。

今回の聖書箇所の中では、明らかに弟子たちにみられます。しかしもう一人「いる」ことが分かります。それが「病んでいる子の父親」です。

最後に「病んでいる子の父親」がどう変えられたか、そして「どのような体験をしたか」を味わって、1年で初めの日の礼拝の締めくくりとさせていただきます。

21節の最後の部分をご覧ください。病気で苦しんでいる子どもを前に必死の思いからでたことばなのでしょうが「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」とイエスに向かって父親は言います。

これに対し23節、イエスは「できれば、と言うか。」とお答えになります。

これは「あなたの心の中には、わたしの力が働かない時間もあるし、できないこともある、という思いがあるのではないか?」という指摘です。

父親のこの間違いをはっきりと示された上で、イエスは「信じる者には何でもできることを信じられるか?」と、改めてその信仰を問われるのです。

すると24節父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びました。この24節が今日の礼拝の説教題につけた言葉であり、今回の箇所の中心の御言葉です。

「信仰のなさ」を素直に認め、心から「なんでもおできになる神に全てを委ねる」気持ちをもったとき、不思議なことに「神の子イエス・キリストによってこの子の癒しが行われた」のです。

 私たちには信じる力さえありません。しかし、その「わたし」に近づいてきて、憐れんでくださるのが「イエス・キリスト」なのです。私達の信仰が深いから、祈りが立派だから、キリストが近づいてこられて恵みが与えられるのではありません。ある牧師が「信仰とは私達人間個人個人の所有物ではない」といっていましたが、全くその通りです。 わたしの努力や誠実な生き方などとはまったく無関係に、一方的に神から与えられる恵みなのです。

このメッセージの後、皆さん一緒に日本基督教団信仰告白の中の「使徒信条」を告白しますが、使徒信条の冒頭「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず…」と告白します。つまり「私個人は、神が天地の造り主であり、全知全能のお方であることを信じます」と告白しているのです。そのことを深く考えられたことはあるでしょうか?

1か月まえの祈祷会に、皆でふりかえってみましたが…私達は、本当に「あなたこそ、わたしの救い主です」と告白できるでしょうか?

本当に神を信じて、希望を持ち、苦難をしのび、たゆまず祈り続けることができているのでしょうか?

たとえ、それが今、できていないとしても、せめて「そうありたい」と心から願うことができているでしょうか? 

正直、「信じきることのできていない自分」に気づかされるのではないでしょうか。そんな一人ひとりが毎日曜の礼拝の中で「我は信ず」と告白しているのです。真剣に心から使徒信条を告白しようとすればするほど「信じることのできない自分」に気づかされるのだと思います。

しかし、自己嫌悪に陥ってそれで終わりではないのです。今日の箇所の父親のように「信仰のないわたしを憐れんで、お助けください」と正直に悔い改め、自分の力や、人間的な考えなどを捨てて神に委ねるなら、神、神の子キリストは、私達を助け、最善を成して下さるのです。

29節の「祈りによらなければ…」というイエスの言葉の中の「この祈り」とは?言葉を並べ立てる、人の目から見て「立派そうに見える祈り」ではありません。そうではなくまさに24節の父親がした「たった一言の短い祈り」なのです。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」この「個人の、一人ひとりの正直な短い祈り」を、教会の皆で!重ねていく1年になることを願っています。(祈り・黙想)