8月27日 聖霊降臨節第14主日礼拝
「わたしたちは主のもの」
隅野瞳牧師
聖書:ローマの信徒への手紙14:1~9
本日は教会の調和がどこから来るのかについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。
1.神が受け入れてくださった人を、私も受け入れる。(3節)
2.何事も主のためになし、感謝する。(6,8節)
3.十字架と復活の主のものとされて、私たちは恐れなく地でも天でも生きる。(9節)
ローマの信徒への手紙の前半は、主イエスを救い主と信じる信仰によって罪から救われることを教えます。そして12章以降では救われた者の新しい生き方、具体的な場面での実践が記されます。14章では特に聖書にはっきりと答えが書いていない、人によって示されることが違う課題をどう受け止めるかが語られます。争いのほとんどは小さな違いから生まれ、それが教会をむしばんでいったからです。
主イエスの弟子たちに目を向けて見ますと、信仰も職業も出身も、実にさまざまな背景をもった者たちが選ばれていました。初代教会にあってはさらにさまざまな国籍の人が加えられていきましたが、長い歴史的な背景のもと、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間には深いみぞがありました。ローマ教会の課題について聞いたパウロは、それらの人々の調和、またそれを通してすべてのクリスチャンにとっての信仰の原点について伝えたのです。
1.神が受け入れてくださった人を、私も受け入れる。(3節)
「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(3節)
この手紙の書かれた当時はキリストの死と復活から20数年しか経過しておらず、実生活の面で分からないことが多くありました。各人が自らの経験や、文化的背景をもって教会に参加してきました。律法の時代から恵みの時代に移行する過渡期でした。今や恵みと信仰によって義とされるけれども、これまでの自分を形づくっていたモーセの律法や口伝律法をどう考えたらいいのか、ユダヤ人クリスチャンは戸惑っていました。
ローマの教会には信仰の弱い人と強い人との間に、不協和音がありました。それは特に、食べ物と日に関することでした。ここでパウロは律法の制約の中にまだあって、食べてはいけないものがあると考えているユダヤ人たちを「信仰の弱い人」、何を食べても良いと考える人たちを、そこから解放されているという意味で「信仰の強い人」と呼んでいます。
Ⅰコリント8章には、異邦人の市場に出回る肉は「偶像に供えられた肉」「血抜きをしていない肉」である可能性が高いため、自分を汚さないためにこれを食べない人たちがいました。それと同じような背景がローマ教会にもあったのかもしれません。一方すべてのものは神によって造られたのだから、感謝して受ければよいと考える人もいました。偶像に備えられた肉という理由であれば、そもそも偶像という神はないのであって、そこに備えられていたものを食べても問題はありません。しかしこれまで律法のもとに生きてきた人たちは、やはりそういう肉を食べることはできなかったのです。
またある人たちは主イエスを信じてからも、律法で定められた安息日やその他の祭日、断食の日などを守らねばならないと考えました。けれども他の人たちは、安息日は本体であるイエス・キリストが来るまでの影で(コロサイ2:16~17)、今はすべての日が大切であると考え、毎日集まって礼拝し神を賛美しました(使徒2:46)。やがてキリストの復活を記念して日曜日を主の日とし、礼拝をささげるようになりました(使徒20:7,Ⅰコリント16:2,黙示録1:10)。
パウロは信仰の強い人に、弱い人を「受け入れる」よう命じます。これは交わりや仲間に加える、迎えるという意味の言葉です。キリストが私を受け入れてくださったのだから、互いに相手を受け入れなさい。これが信仰者同士の交わりの根拠です。ここでパウロは自分を「信仰の強い人」に含めていますが(ローマ15:1)、彼はその自由を押しつけようとはしていません。パウロは福音の真理に関わることについては、断固として戦った人です。ですからここで問 題になっていることは、キリスト教信仰に本質的なものではないのです。私たちは自分の考えで相手を受け入れるか、受け入れないかを決めようとしますが、教会の交わりにおいて決定的に大事なのは神の判断です。
私たちも教会において、自分と全く違う環境や価値観のもとで育ってきた兄弟姉妹と出会い、時に感情がぶつかったり、信仰のあり方をめぐって分裂に至ることもあります。また日本でキリスト者として生活するために、社会(そしてそこに属する方々)とどのように折り合いをつけるかも課題です。そこから離れて切り捨てれば簡単かもしれませんが、そこで葛藤し、祈り、主であればどうなさるだろうと向き合うのです。主は相手の方がどんな立場にあったとしても、共に喜び共に泣いてくださるでしょう。私たちはそのままの姿で神に受け入れられ、罪の赦しを受けて同じ命に生かされた、かけがえのない神の家族です。その人の考え方を修正するためではなく、あるがままのその人を受け入れましょう。
「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」(4節) 「召し使い」とは家の使用人のことです。ある人の家で使われている使用人について、同じ召し使いにすぎない者が何かを言うなら、それは自分の立場をわきまえない越権行為です。ここでパウロは真理を思い出させます。あなたが軽蔑し裁いているその人は、神の召し使い、神のものなのだ。あなたは自分を神の立場に置いてしまっていると。
またほかの人ではなく、自分はだめだと裁いてしまうこともあります。しかし弱い私たちであっても、主は立たせることがおできになります。こんな私が立つことができるから、福音なのです。
「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(5節)
信仰の根幹に関わることでなければ、一人ひとりが神に示されたとおりにすればよいと語られます。主イエスが完成された愛の律法は、すべてを尽くして神を愛し、主が愛してくださったように、隣人を自分のように愛することです(マルコ12:30,31,ヨハネ13:34)。その解釈は深く広く、自由で平安に満ちています。主が愛してくださったように愛する。それは簡単に機械的に、すべての人に同じ答えが出るものではないし、出すべきではないでしょう。私たちの歩み、選択の一つひとつが自由意志に委ねられていることもまた、主イエスによる救いの大きな恵みです。
「霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)罪から救われて主のものとされる。それは私たちの生きる動機が、誰かに強いられたからとか、自分の欲望に支配されるのではなく、聖霊の示される御言葉によって自分の心を吟味し、行動できるようになることです。強いられたり恐れの中で、また~さんのように信仰生活が守れないと苦しんでいる方がいるならば、神はそこから解放したいと願っておられます。神は「休ませてあげよう」と言われたのです。自分らしく喜びと平安のうちに、主に従っていきましょう。
2.何事も主のためになし、感謝する。(6,8節)
「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」(6節)
ある人は「主のために」と考えて何でも食べる立場を取り、他の人も「主のために」と考えて、食べない立場を取る。パウロはこれについて白黒をつけません。相手を傷つけてまで、白黒にこだわる必要のないことがあります。人の成長には度合いがあり、今すぐに真理を受け止められない人もいます。キリストは信じているが、今まで守って来た日は守らなければならないと感じる。食べてこなかったものを食べることは罪を犯すことのように感じる。このような人を非難して無理に「正解」を押し付けるなら、その人にとって福音が喜びではなくなります。かつて私たちも弱い人でありました(ローマ5:6)。今「信仰の強い人」であるのは、神がそのような私たちを受け入れて「強めてくださった」からです。また、多くの信仰の先輩たちもそのようにしてくださいました。あなたにとって「信仰が弱い人」がいるならば、どうぞ祈って見守ってください。「神に感謝している」、これも信仰の歩みにおいて大切です。信仰生活は、神への感謝の応答です。ある特定の日を重んじる、食事をしたりしなかったり、それは神に対する感謝の応答としてささげられるものです。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(8節)
自分のために何もしてはならないということではありません。いつも何をするにもそこに神がおられ、主イエスの救いの恵みの中で感謝して生きる者となるということです。御子によって神と共に生きる者とされたから、私たちは神の方を向いて自由に生きることができます。神の方に向いて生かされる時、私たちは必ず隣人の方に向いて生きるようになります。キリストのように愛することを求めるようになります。
キリストのように愛する、それは自分の権利を相手のために放棄することです。「肉を食べることは自由だ」と考える人にとっては、あえて肉を食べないということです(Ⅰコリント8:13)。15節にはこのようにあります。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」
自分以外の存在を愛しその方のために生きる時、真の喜びがあります。たとえば親は子のためにそのようにして、持っているものや時間の中心は子どもになりますが、それを喜びとします。主は私たちのために神の身分を捨てて人となり、十字架にまで降り、命をささげてくださいました(フィリピ2:6~8)。その愛を受け主のものとされた時、私たちは人を自分の基準で裁いたり人の目を恐れて生きることから解放されます。
私たちが自分の命を主のみ手に委ねる時に、死といのちの境界はなくなります。死のこちら側でも、向こう側でも、キリストは私たちとともにおられます。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。…一方では、この世を去って、キリストとともにいたいと熱望しており、このほうがはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにもっと必要です」(フィリ1・21~24)。どのような時にも主は私たちとともにおられ、私たちは主に自由に用いられて隣人のために仕えます。与えられた命を本当の意味で生きるといえるのです。
どちらを取ってもよいことで争いが起こるのは、信仰の最も大切な部分が見失われているからです。主イエスが他ならぬ私のために十字架につきよみがえり、主のものとして生きるようにしてくださった恵みにしっかり立っていないと、あの人も主が十字架によって救ってくださったのだと考えることはできません。自分が主のものであることを覚え続けるために、主は私たちを礼拝に招いてくださっています。
3.十字架と復活の主のものとされて、私たちは恐れなく地でも天でも生きる。(9節)
「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9節)
キリストが死に、そして生きた。それは神が最後まで、いや死をも超えて永遠に私たちと関わって下さるということです。わたしたちの命がキリストに属するものとなるならば、この体の命が終わる時さえも、決して独りではありません。私たちは、永遠に生きておられる方といつもともにいるのです。
ハイデルベルク信仰問答の問1にはこのようにあります。(問)「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」(答)「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」
主のために生きるところに与えられる深い喜びは、死においても失われることがありません。「わたしは確信しています。死も、命も、…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38~39)
御子の死は私たちの罪を担ってくださったものでした。私たちこそが神に背き、罪を犯して神の命から引き離され、裁かれねばならなかったのに、そのすべてを引き受けて下さったのです。そしてキリストは十字架に死んで三日目によみがえり、今も生きておられます。主が復活されたのは、この命が信じる私たちにも与えられていることの保証です。主にあって、この体の命の終わりは永遠の命の始めとなるのです。
先週ある方のもとに行き、教会の数名の方と一緒に賛美をささげました。その方に主の慰めと永遠の命の希望があるように心を合わせて賛美していると、途中からハーモニーがつきました。それは一人ひとり違う楽器やパートでも、主という指揮者をしっかり見つめて、「この方の力にならせてください」という一つの祈りの曲を作り出している、教会の姿でした。
本日の箇所の後の11節に、「すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」とあります。私たちはやがて、大いなる神賛美が響き渡る中で御前に立ちます。今は裁いたり見下したりを繰り返してしまう私たちかもしれません。しかし私たちをまことに裁く方は主です。そしてこの主は御子の贖いのゆえに「あなたの罪は赦された」と、私たちを罪なき者として御国に迎え入れてくださいます。その時私たちは共に主の憐みの前に膝をかがめ、相手の存在をただ感謝するように変えられます。
主のものとされた私たちはその日を覚えつつ、これからも同じ主を見上げていきます。自分の音を保つとともに互いの音に耳を澄ますことが、美しいハーモニーには欠かせません。自分の正しさを主張することを手放して愛するほうへと一歩、主とともに歩み出す時に、神の国がそこに現わされるでしょう。