「平和の道に導く者」12/8 隅野徹牧師

  12月8日説教 「平和の道に導く者」(降誕前第3主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書1:76~79

 先週からクリスマスを待ち望む「待降節」が始まりました。

これから毎週、クランツのキャンドルに1本、火が灯されています。この数が日曜日ごとに1本ずつ増えて行き、私たちはイエス・キリストの誕生を「待ち望み」救い主のお生まれを喜び祝うのです。

 このようにクリスマスは「喜び、祝い」の時ですが、一方で忘れてはならないことがあります。この教会の牧師だった「古賀博牧師」がよく紹介されていた「クリスマスだから」というこども向けの讃美歌の歌詞が、大切なことを示していると感じますので紹介します。

 クリスマスだからかんがえる。 たくさん たくさん たくさん

 悲しんでいるひとのこと

 クリスマスとは何の日で、どんな意味のある日なのか…それはヨハネによる福音書3章16節に「一言」で表されています。神がその独り子「イエス・キリスト」をこの世に送ってくださったのが「クリスマスの出来事」なのですが、そこに表されているのは「神が私たち人間をどれだけ愛し、大切にされているか」ということです。それは「すべての人間が同じ」です。

 ですので、健康な人も、病に苦しんでいる人も関係なく、そして経済的に裕福な人も貧しい人も関係なく「神に愛されている」ことが表れるのが「クリスマス」だということもできます。

 クリスマス物語の羊飼いはそのあたりを示していますし、 サンタクロースによる「クリスマスプレゼント」がはじまったのも、「貧しく、苦しい人々に」「あなたも神から愛されていることを表す為だったと言われています。

 私たちはクリスマスに「自分が神から愛されている」ことを感じることとともに、自分の隣人、とくに「今、苦しみ・悲しみの中にいる人々が神に愛されていることを感じてもらう」ことが大切だと考えます。

 神の愛を「今、苦しみ悲しみの中にある人々に伝える!」…受け身だけでなく、自分から「クリスマスに込められた愛のメッセージを発信する」大切さを、今日の礼拝で「示されております聖書箇所を通して」皆さんと確認できればと願います。

 今日の聖書箇所はルカによる福音書1章の最後の場面です。聖書をお開きでしょうか?(新共同訳聖書の新約聖書102頁です)

 次の2章1節からは、いわゆる「イエスの誕生の場面」です。ヨセフと身重のマリアが人口調査のためにナザレからベツレヘムに向かうその場面の直前に、聖書は「洗礼者のヨハネ、別の言い方でバプテスマのヨハネ誕生」の場面を描いています。

 しかもただ誕生した、ということが書かれているだけでなく、誕生に至るいきさつが描かれ、それが「神の業だった」とはっきり分かるように描かれています。そして今朝の聖書箇所が含まれている67節以下の場面では、洗礼者ヨハネの父親であるザカリアが「神の霊である聖霊に満たされて」、自分の子がどんな働きをするのか預言したことが記されています。

 ルカによる福音書が、イエスの誕生より先に「洗礼者ヨハネの誕生」を詳しく語るのには大きな意味があります。 それは神の独り子イエス・キリストがこの世に来られ、大切なお働きを成さる前に「その業を整える人があったこと」の大切さを伝えるためです。

 イエス・キリストは全知全能のお方ですから、本当は何でもご自分独りでお出来になります。しかし、伝道を「使徒たちや弟子たちやと一緒になさった」ように、人間と一緒になって「神としての業を成された」のです。

 今回の箇所は、「洗礼者ヨハネ」がどんな働きをするか、予め「聖霊によって示された」箇所です。76節から順にみて行きましょう。 76節77節をお読みします。

 生まれたばかりの「洗礼者ヨハネ」が、この後誕生される「神の御子イエス・キリストを世の人々に伝える役目」を果たすのだ、と父親のザカリアは「聖霊によって」予告するのです。

 さらにキリストの存在を「世の人々に伝えた…」だけに止まらず、そのキリストを世の人々が受け入れられるように「先に道を整える」と予告されます。具体的には77節にあるように「罪の赦しによる救いを知らせる」ということによって、「イエスの福音宣教」の道を整えたのです。

 実際にその様子が描かれたのが少し先の3章です。(105頁を読みます。)

 成人した「洗礼者ヨハネ」は、7節からのところで、民たちに「罪を悔い改める」ことを教えています。取税人に「もうこれからは規定以上のお金をだましとらないように」勧めていますし、軍人に対しは「自分の給料で満足せず、力任せに人から奪うようなことをしてはいけない」と教えています。

 神に「自分の犯した罪を赦してもらう」ことは「お気楽に」できることではありません。救い主がこの世に来られたからといって「すべて水に流れる」わけではないのです。

罪が赦されるためには!「自分の犯した罪を心から悪かった、と思う気持ち」と「これからは、悪い行いをもうしません」という決意が必要なのです。洗礼者ヨハネは「まさにそのこと」を人々に伝えたのです。

 このことによって、洗礼者ヨハネは「イエスが何を救うのかわからない救い主」ではなく、そのままにしておけば人間を滅びに至らせてしまう「罪」から救う救い主であることを示したのです。 悔い改めを伝えることによって、「人々を罪から救うイエス・キリストを信じ受け入れられるように」したのです。まさに「道を整えた」のですが、私たちにも同じことが求められています。

 ①まず自分が「救い主イエスを心から迎え入れられるために」自分の罪を今一度神の前に告白することです。そして、②まわりの人々が「救い主イエスを迎え入れるために」、「罪から救われることの大切さ」を教え、「もし悪い行いに気づくなら、それを改める」ことの大切さを少しでも説きましょう。それがクリスマス前に私たちが「主のためにできる道備え」なのです。

 再び102頁をお開き下さい。 残りの78節、79節を読んでみます。

「洗礼者ヨハネが伝え」そして「神の子イエスが成し遂げられる」罪の赦しによる救いですが、これは神の憐み以外の何物でもありません。本来、自分の罪をどうすることもできない私たち。そんな我々を「独り子をこの世に送り、十字架にかけて罪の身代わりとさせる」という「本当に特別な憐れみ」によって私たちは「罪赦され、救われる」のです。 クリスマスはその「神の憐みの心」「私たち一人ひとりを愛しておられる」ことを思い出すときなのではないでしょうか。

 そして繰り返しになりますが、自分だけでその思いを留めるのではなく、「神の憐みを知らない人」「感じられない人」に真実を知らせる時…それがクリスマスではないでしょうか。

 「神は独り子をこの世に送ってまで、あなたを罪から救おうとされるのだ。だからあなたは尊い命だ、大切ないのちだ」 それを伝えることは79節にあるように「私たち人間の歩みを平和の道に導く」ことに繋がります。

 洗礼者ヨハネとイエスの誕生の頃、イスラエルは暴力と流血が繰り返されていました。国王のヘロデは猜疑心から人を次々に殺しました。兵士たちも略奪を繰り返す…「血で血を洗う」ような状態で「罪の感覚」も麻痺していました。あたかも「敵を倒すことで平和が訪れるか」のような感覚をもっていました。その時代字あって「罪に向き合うこと」を教え「その罪を神が特別に救ってくださること」そして「神がそれほどなさるまで、すべての人間の命が尊いこと」を洗礼者ヨハネは伝えたのです。

 最近日本で、大きなNEWSとして取り上げられたキリスト者として、来日したローマ法王、そしてアフガニスタンで凶弾に倒れた「中村哲医師」が挙がると思います。お二人の生き方から多くのことを学ばされますが、彼らの行動の背後にあるのは「すべての人間が神に愛され、憐まれる尊い命だ」という信念でしょう。とくに79節の最初にあるように「暗闇と死の影に座している者たち」に対して「あなたは神から愛された命だ」と伝えるべく、活動なさったのではないでしょうか。

 私たちも「クリスマスを前に」自分と隣人、そして「とくに暗闇と死の影に苦しんでいるような人たちが」神が独り子を送って救おうとされるほどに大切な命であることを今一度心に留めましょう。 それが「平和の道」につながると信じています。