2月2日説教 「愛に溢れた宴」(降誕節第6主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書15:17~24
先週の礼拝では、瞳牧師によってルカによる福音書15章の11節から20節が語られました。ここは、イエスがなされた「有名な放蕩息子のたとえ話」の前半部分でした。この放蕩息子の箇所は長いことと「大切な教えがたくさん詰まっている」ことから、普通何回かに分けますが、今回は先週瞳牧師が語ったのを含めて「3回に分けて」語ることにします。 今日は中間部分、帰ってきた弟息子に対して、神にたとえられた「父親」が何をしたのか、が書かれた箇所です。
私の示されていることを皆さんに「より味わっていただくために」、先週と重複しますが17節から読むことにします。深く読んでまいりましょう。
まず17節から19節を読みます。
父のもとから飛び出してしまった弟息子。お金をもっていて、なおかつ父のもとから離れ自由に生きることが「幸せだろう」と思いました。しかし、それはとんだ勘違いでした。17節、放蕩の限りをつくした結果、待っていたのは「極度の苦しみ」でした。飢え死にしそうな苦しみ。その苦難・試練を通して弟息子はやっと「自分を顧みる」ことをしたのです。
そして弟息子は「本来いた場所である、父のもとに帰ろう」と考えたのです。しかし、簡単には赦してもらえない、家に置いてもらうことはできない…そのように考えたのです。その結果が18節、19節です「もう息子と呼ばれる資格はないので、雇い人の一人になるしかないだろう」と思ったのです。
その心にあったのは「もうお父さんに愛される資格はない」という予測でした。きっと赦してもらえないだろう…だから、「子どもとしては当然受け入れてもらえないだろうから、雇い人の一人としてお父さんのもとに帰ろう」と決めた…そうイエスは譬えを通して語られるのです。
この雇い人という言葉ですが、当時では一番身分の低い「日雇いの奴隷」という意味だそうです。たとえ奴隷でもいい…これはある意味、人間的な常識に基づいているのです。悪いことをした人が「いろいろ働かされて、その見返りになんとか食べさせてもらう」そういうことは多いです。もしもこき使われることがあっても、悪いことをしたのだから仕方がない…そんな感じでしょうか。
これは、私たちが自分の罪の現実に直面し、具体的な「罪」を示された時に思うことではないでしょうか。罪を嘆き悲しみ、反省し、これからはしっかり働いて生かしてもらおう、という心を入れ替えてしっかりしなきゃと思うのです。
これは大切なことである一方、「自分を追い詰める」ことになったり、「頑張りすぎて無理をする」ことにつながる危険性もあります。
一部の宗教は、回心した「しるし」として「無給で働くことを求める」といわれます。つまり「やった悪事を反省して、心を入れ替えて、しっかり働いて、悪事の償いをすること」を教えられているのです。それは、「人間的な意味で、折り合いのつきやすいこと」なのでしょう。だから「弟息子が父のもとに帰って雇い人の一人にしてくださいといったこと」は、人間の多くが考える常識なのです。
ところが…イエスは、父親に譬えられている神が、この人間の常識を乗り越える、あるいは真逆にされる方だ、ということを語られます。それが20節から22節です。
弟息子が、出て行った時の姿とは真逆の、ボロボロの姿になって帰って来ましたが、父はまだ遠く離れていたのにその姿を見つけます。すぐ見つけたのは…ずっと探していたからなのです。 見失った一匹の羊の譬えや、無くした銀貨のたとえで教えられていた「失われたものをずっと探している神の姿」がここでも表されるのです。
そしてただ見つけるだけではないのです。20節を詳しく見ると「憐れに思った」こと、「走り寄った」こと、そして「首を抱き、接吻した」のです。よく帰って来てくれた!その思いが行動にあふれ出ています。
21節で弟息子は、「こう言おう」と思っていたことを語り始めます。しかし!父はそれを遮り、最後まで聞こうとしません。息子が言おうとしていた「雇い人の一人として、つまり奴隷として働きます」という言葉を言わせなかったのです。細かいことですが、これもイエスこの譬え話をなさる上で「大切なこと」だと考えます。
「奴隷として働きます」という言葉を遮って父親は何を語ったのでしょうか?それが22節です。
「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と命じています。それは、弟息子を「奴隷ではなく、大事な息子として、愛する者として迎える」という父の意志表示です。
父親を「利用するだけ利用し」、自分の思い通りに生きたいと出て行き、財産を全て浪費して失ってしまった弟息子。普通なら会うことさえしないか、家に迎えることは許したとしても「罰としてはたらかす」ぐらいのことをするでしょう。
しかし、この例え話の父親は不平を全く言うこともなく赦しています。愛する息子として迎え入れる、それがこの父親の姿です。イエスは、この譬えを通して「神がこのような愛をもってあなたがたを愛しておられるのだ」、と語っておられるのです。
つづいて最後に残った23節24節を読みます。
父は肥えた子牛を屠り、息子の帰還を祝う祝宴を始めるのです。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。弟息子が自らの意思で家を飛び出したこと…それは父にとっては、愛する息子が死んでしまったような悲しみだったのです。
しかし!その息子が戻って来たのです。それは父にとって、死んでいた息子が生き返ったような大きな喜びなのです。だから「皆で祝おう」という言葉が父の、そして父が例えられている神の喜びの大きさを表すのです。罪人である私たちをご自分のもとに迎え入れて下さることを、神ご自身が「心から喜んで下さる」ことを私たちは覚えていましょう。
さて、とくに今朝は、弟息子が父親に「どんな格好に着替えさせられたか」そのことに注目したいと願います。つまり「ただ受け入れて、抱きしめた」だけに止まらず、「一番よい服を着せて、一番よい食事をした」ということに目を留めましょう。
御言葉としては出ませんが、絵画などによく描かれ通り、弟息子は「ボロボロの恰好で」家に帰ったことは間違いないでしょう。 もちろん父親は、その「ボロボロなままのありのままの恰好の弟息子」を受け入れました。決して「汚いものに触る」ような感じはありません。
しかし!ありのまま受け入れた上で、さらに「一番よい服」を着せ、「指輪」をはめ、「靴」を履かせています。この「一番よい服」「指輪」「靴」は何を指しているのでしょうか?実はそれぞれに意味があると言われています。
まず「靴」ですが、これは「奴隷でないことのしるし」なのだそうです。
聖書に「足を洗う場面が多く出るように」、当時靴は「簡単には履けない」ものでした。雇い人・奴隷はまず履くことができないものだったのです。
ですので、父親が弟息子に「靴を履かせる」というのは「あなたは雇い人や奴隷ではない。愛する息子だ!」ということを表しているのです。
次に指輪です。 これは「親子の契り、契約のしるし」を表しています。
「あなたは、わたしのもとを離れて放蕩の限りをつくしたが、それでもあなたを私の大切な子として、これからも愛していこう。その約束は変わらない」というしるしです。 弟息子にとってこの指輪を見るたびに「もう父のもとを離れないようにしよう」と思い返したことでしょう。
最後は服です。これは「赦されたしるし」を表しています。
聖書には「キリストの十字架の贖いを信じ受け入れることによって、私たちが赦され、聖められたことの印として「礼服を着る」イメージで語られることが多いです。
たとえばガラテヤ3:26~29です。お開けいただけますでしょうか?
新約聖書P346です。
私たち人間はそれぞれ違いを持っています。国籍・人種はもちろん、人生もちがっています。当然、犯してきた罪も人それぞれ違います。でも!神は悔い改めて信じるならば「イエス・キリスト」という共通の礼服を、すべての人に着せてくださるのです。 内側はそれぞれ違いをもったまま、でも「イエス・キリストという礼服を着ている」というその一点において同じなのだ!ということをガラテヤ3章は語っています。
もういちどルカによる福音書15章に戻りましょう。
22節の「一番よい服をきせる」とは「キリストという礼服」と同じ物がたとえられていると私は考えます。その服を着ていることによって「あなたの罪は赦された。この礼服を着ている故に私はあなたを裁かない」というしるしとなっています。
私たち一人ひとりも「弟息子」のように、本来近くにいるべき「父なる神」のもとから離れ、罪に溺れ放蕩をし、気づけばボロボロになっていた…そのような者たちではないでしょうか? しかし、そんな私たちを「探し続けて、ありのままを受け入れて下さる」のが神です。
私たちにできるのは「ただありのままの姿で神のもとに帰ろう」と決心することだけです。 たとえ罪によってボロボロになった私たちでも、「父なる神のもとに帰ろう」と決心するなら、神は心から喜んで下さるのです。祝宴をしてくださり、「靴も、指輪も、礼服も」一方的にご用意くださるのです。
だから「迷惑をかけたのだから、奴隷のように働こう」とか「貢ごう」とか思わなくてよいのです。また「罪を犯して汚いボロボロの格好になったのだから、自業自得だ。奴隷がちょうどよい」とか自分を卑下しなくてよいのです。私たちは「キリストの贖いのゆえに」神の子なのです。 私たち一人ひとりがもっと喜びに満ちて毎日を歩めるために、この箇所で明らかにされている大きな神の愛を心に刻みましょう。