「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」3/22 隅野瞳牧師

3月22日説教・受難節第4主日礼拝
あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書  ルカによる福音書23:32~43

 

 本日は一人の罪人が悔い改め、救いに至るまでの過程が記されています。3つの点に目を留めて御言葉にあずかりましょう。

1. 知らないで主イエスを十字架につけた私を赦すために、主は祈られた。(34節)

2.主イエスは自分を救おうとされない。(35節)

3.信じる者は今日、主イエスと共に生きる楽園にいる。(43節)

 本日の箇所は、十字架につけられた主イエスを描く最初の部分です。十字架の場面で主は7つのお言葉を語られましたが、その最初の2つがこの箇所に出てきます(34,43節)。主イエスの地上でのご生涯はおよそ33年と言われていますが、弟子たちと共に御言葉を伝え神のみ業を行われた30歳からの3年間以外のことはほぼ記されていません。それは十字架と復活に向かうこの3年間こそが、主イエスのご生涯の最も重要な時、この世に来られたご目的であるからです。罪のない神の子イエス・キリストが、私たちの身代わりに十字架にかかって死なれ、よみがえって、私たちにその復活の命をお与えくださった。それが聖書を貫くメッセージです。

1. 知らないで主イエスを十字架につけた私を赦すために、主は祈られた。(34節)

 主イエスは二人の犯罪人と一緒に、十字架で死刑にされるために引かれて行きました。23章前半には主イエスの裁判の様子が記されています。裁判をつかさどっていたローマの総督ピラトは主イエスに罪を認めることができず、釈放しようと三度もユダヤ人たちに提案しましたが、彼らはその呼びかけを受け入れず、イエスを十字架につけろと要求し続けました。主イエスは偽善的な宗教指導者とは違って神の御心の本質に生き、多くの人が後に従いました。そのことでユダヤ人指導者たちの激しい憎悪の的となり、主イエスは神を冒涜したとしてユダヤ人議会で死刑の判決を受けました。宗教的な罪はローマで裁けないため、イエスはユダヤ人の王と自称して皇帝に背いたと、ユダヤ人たちはピラトに訴えたのでした。暴動が起こって自分が失脚させられないために、ついにピラトはイエスを十字架につける決定を下しました。犯罪人たちはローマの兵士によって、一人は主イエスの右に、もう一人は左に十字架につけられました。

 主イエスは、御自分を十字架につけた者たちのために、父なる神に祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」主イエスはここにいた者だけでなく、神に背き隣人を傷つけて生きている私たちのためにも祈られました。十字架の死刑を受けなければならない罪人は、本当は自分なのだと知らない私たちのために祈られたのです。私たちは悪いこととわかっていて罪を犯すこともありますが、ほとんどの場合罪の自覚はありません。むしろ、正しいことをしていると思うこともあります。しかし神がご覧になれば、どこまでも深い闇に塗りつぶされた私たちの心なのです。自分の姿を認めようとしないゆえに、悔い改めの必要も感じない。それが「罪の中にある」というしるしであることを、主イエスの祈りは示します。聖書の言葉という鏡によってのみ、私たちは自分が本当はどのような者であるかを見ることができるのです。

 このように祈られた主イエスのように、私たちも人の罪を赦そうと思うことは大切ですが、自分が砕かれなくては相手を心から赦すことはできません。ここで主イエスがおっしゃっているのは、私たちこそ赦されるべき者であることを知ってほしいということなのです。自分は神に赦していただいた罪人にすぎないことを知る時に、命のある種から芽が出て花が咲くように、赦す者へとおのずから変えられるのです。

2.主イエスは自分を救おうとされない。(35節)

 民衆は立って見つめていました。野次馬も、また心に悲しみを覚えつつも恐れのゆえに何もできず見ているしかできなかった人もいたでしょう。しかしともかく、人々は見ていたのです。十字架につけられる人は服をはぎ取られ、それは死刑執行人であるローマ兵たちが取ってよいことになっていました。現代のように服をすぐに買ったり、何枚も着替えがあるわけではありませんでしたから。服をくじで分け合うというのも、その人を侮辱し、苦しめることでした。

 ユダヤ人の議員たちも、主イエスをあざ笑いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシア(救い主)で、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。また十字架刑を執行している兵士たちは、酸いぶどう酒を主イエスに突きつけました。このぶどう酒は十字架刑を受ける者の苦しみを和らげてやるための麻酔薬として用意されていたようですが、ここでは主イエスを侮辱するために、あたかもユダヤ人の王に杯を献上するかのようにささげたのです。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。自分を十字架の苦しみと死から救えないなら、お前は救い主でも選ばれた者でもない。お前は神に愛されてはいなかったのだとあざけったのです。

 実はこれは、私たちにとても身近な言葉です。神がいるならなぜこんなに悲しい、つらいことが起こるのかと、たずねられたという方は多いのではないでしょうか。そして私たち自身も、なぜですかと神に怒りをぶつけたこともあったでしょう。十字架の主をののしった声は、実は私の内にもあふれています。十字架のような現実を見る時、そこには神の愛や守り、恵みが一切失われたとしか思えないからです。しかし主イエスは黙って耐えておられます。そして父なる神もまた、激しい痛みをもって耐えておられます。それは十字架によってのみ私たちの罪が赦され、神の子とされる道が拓かれるからです。

 「他人を救った」(35節)という事実は、敵たちでさえ否定できない事実でした。しかし神の力が働いていることを認めても、彼らはその救いを自分たちには求めません。どんなに奇跡的な出来事が起こっても、たとえ今見えるお姿で主イエスが現れてくださったとしても、聖霊によって私たちの罪と主イエスの救いが示されなければ、私たちは決して主イエスを神の子救い主と信じることはできません。私たちはひたすら十字架の主イエスに救い主を見、十字架の主を宣べ伝えるのです(Ⅰコリント1:22~24)。

 神を知らない時に私たちは、必死になって自分を救おうとします。しかしそうまでして守る自分の命や持ち物は、最終的にはどうなるのでしょうか。自分の命が終わる時に、愛し与えたものだけが残り、人を生かします。私たちが今持っているものは、神からお預かりしたものですから、神と人のためにお返しするときに祝福を受けます。主イエスは御自分の十字架、またその御跡に従う者についてこのように語っておられます。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:24~25)

 主はご自身を救えないのではなく、「救わない」のです。すべての人の罪が赦され、神と共に生きる永遠の命を得るために、あえて主は一粒の麦として命をささげてくださったのです。

3.信じる者は今日、主イエスと共に生きる楽園にいる。(43節)

 「お前はメシアではないか。」犯罪人の一人がののしります。こう言っている彼は、主イエスを救い主とは信じていません。しかし人々の無知・無理解の中でもう一人の方の犯罪人は、主イエスとその十字架の意味を理解しました。マタイによる福音書によれば「強盗ども」と複数形で書いてありますので、はじめは二人とも主イエスをののしっていたのでしょう。ところがいつからか、二人の強盗のうち一人の心が変わり始めたのです。それは、主イエスの祈りを目の当たりにしたからでしょう。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。

 彼らがどのような罪を犯して十字架刑の判決を受けたのかは分かりません。単なる強盗ではなく、イスラエル独立のために手段をいとわず、ローマの支配への抵抗運動を行った政治犯だという見方もあります。そうであれば、自分たちは不当な支配に抵抗したために捕えられた犠牲者だ、と思っていたかもしれません。しかし自らを見つめる彼は今、自分が神のみ前に立たされていると感じました。十字架の激しい痛みの中では、取り繕うことなどできるはずがありません。その者の本質が表れます。今自分と共に十字架につけられながらも神を心から父と呼び、その父に自分を十字架につける者たちの罪の赦しをも願うことができるこのイエスという方には、神の前に何の罪もない。この聖なる方が自分と同じ十字架の刑罰を受けている…。彼はイエスが神であることに目が開かれ、生きておられる神と出会っている畏れを抱きました。そして自分は死ぬべき罪人であることに気づかされたのです。彼は、救いを願うことなどとうていできないとわかっていました。ですからただ「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と憐みを求めました。ただ主イエスが覚えてくだされば十分ですと。彼は主イエスが神の国の御座について治められる王の王だと信じていました。

 この人は自分の人生が失敗であったことを認めました。自分の力ではどうすることもできないみじめさや罪深さを素直に認めることが、救いの第一歩です。信仰の告白は人の力や周りの条件にはよらず、このような最悪と思える状況にあっても与えられます。それはこの犯罪人や私たちが悔い改め主を信じる前に、主イエスのとりなしの祈りがあるからです。

 彼は世の終わりに、主イエスがもう一度来られる時に思い出してくださるよう願いました。ところが主イエスは彼にこう宣言されました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。「はっきり言っておく」は「アーメン・真実に」という意味で、とても大切な宣言をする時に主がお使いになる表現です。楽園は神に赦され義しいと認められた人が死後に住む、祝福の状態を指します。楽園とは本来は壁で囲まれた庭園という意味で、神に造られた最初の人間アダムとエバが住んでいた「エデンの園」に用いられる語です。アダムとエバはそこで神と共に祝福のうちに生かされていました。しかし神に背いたことによって彼らは楽園から追放され、荒れ野のようなこの世を生きなければならなくなりました。

 ですから主が「楽園にいる」と約束してくださったことは、罪が赦され、神のもとでの祝福が回復されることを意味しているのです。このお約束は、測り知れない大きな慰めを彼に与えたに違いありません。世の終わりを待つまでもなく、彼には主イエスと共に生きる命が約束されています。悔い改めた罪人は主イエスと共にある限り、どんな困難や苦しみの中にあっても楽園に入れられているのです。「今日」は「今この瞬間から」という意味で、主イエスを信じる者のうちに救いがただちにもたらされ、神の恵みの中に生きる命がスタートすることを表します(ルカ4:21、19:9、ヘブライ3:13,15)。天国はどんなところか。一言でいえば、それは永遠に主と共にいるところです。永遠の命とは、キリストと共にいることです。キリストの再臨によって実現する救いの完成は、いつまでも主と共にいる者とされることです(Ⅰテサロニケ4:17)。

 「わたしを思い出してください」。聖書において「(神が)覚える・思い出す・御心に留める」という言葉は、小さき者に注がれる神の深い憐みと救いを表します(ルカ12:6、イザヤ49:14~16)。私たちは本来、主に忘れられても当然の存在です。「月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。」(詩編8:4~5)。何度御心に背き、自分中心の道を歩んで多くを失ったことでしょう。しかし私たちがどんなに主を忘れても、主は私たち一人ひとり、また私たちに与えられた救いの約束をお忘れになることはありません。そして私たちが悔い改める時に、神は御子の犠牲によって私たちの罪を忘れてくださるのです。

 私たちもいつか、この世の命の最期を迎えます。それは恐れを伴うものでしょう。死は未経験のものですし、やり残したことや家族の悲しみ、体に痛みがあるかもしれません。そして恐れの根本にあるのは、罪をもったまま神の前に、たった一人で出るということです。けれども主イエスを信じる時に、私たちのすべての罪は赦されて、恐れから解放されます。信じた瞬間から主イエスは、いつも私たちと共に歩いてくださいますので、決して一人で神の御前に出ることはありません。うれしい時には主と共に喜び、試練の時には主も泣いてくださり、その重荷をおゆだねして歩むのです。

 主イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人は、私たちの姿です。はじめは、私は罪なんて犯していない、主イエスを十字架につけた人たちとは違うと感じていたでしょう。けれども私たちが御言葉を通して十字架の主イエスに出会う時、悔い改めに導かれ、このお方を救い主と信じて憐みを願う信仰が与えられるのです。その時主は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と救いを宣言して下さいます。今この礼拝に集っている私たちは皆、ここに招かれています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。…たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(Ⅰヨハネ1:9,2:1)

 主イエスとの出会いに遅すぎることはありません。救いは犯した罪の重さや善行、どれぐらい長く信仰生活を送ったかに左右されるのではありません。罪を悔い改めイエス・キリストを私の救い主と信じるならば、すべての人に同じく恵みとして与えられます。私たちはこの測り知れない恵みに感謝し、家族、友人の救いをあきらめることなく、福音を伝え続けたいと思います。主が、あきらめておられないからです。祈りましょう。

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