8月9説教 ・聖霊降臨節第11主日礼拝
「神の国を受け入れる」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書18:15~17
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今日示されています聖書箇所は、「子どもたちの健やかな成長を願って」イエスに祝福してもらおうと、多くの親が子どもたちを連れて来たけれども、弟子たちが「追い返した」。という箇所です。 この箇所は、キリスト主義の保育施設では繰り返し読まれて確認される箇所です。私も保育施設に関わっていた前任教会の時代に「イエスは子供を無条件で愛されるのだから…その愛に基づいて私達も、どんな個性豊かな子でもイエスの愛に基づいて受け入れて行こう!」と繰り返し保育士たちに教えてきました。
しかし今回、そのことを超えて「大切な教えがこの箇所でなされていることが私に迫ってきました。 そのことを皆様にもお分かちします。共に御言葉を味わってまいりましょう。
まず18節です。
イエスの弟子たちは、イエスに触れて祈ってもらおうと近づいてきた親たちを叱りました。弟子たちがどのような思いから彼らを叱ったのかは、いろいろな見方があります。
①子供に何かご利益がありそうだから何となく来たという態度を叱ったという見方です。「従うことなしに祝福だけを受けようとする態度」を弟子が許せなかったというものです。
②つ目は、大人の相手をするだけでも忙しくて大変な主イエスをこれ以上煩わせてはならないと弟子たちが思ったからだという見方です。
③つ目は、子供たちが騒いだり、特に乳飲み子が授乳を求めて泣いたりすると、イエスのお話に耳を傾けようとしている人々の妨げになる、ということかもしれません。
いずれにせよ、弟子たちはこの親たちを叱ったのです。
これに対して、イエスの思いは弟子たちとは反対でした。イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」言われたのです。
聖書がここから私たちに対し一番伝えようとしていることは「イエスは子供が好きだった、子供に優しかった」ということではなく、私にはその次の16節、17節の「神の国」と結びつけられた教えが、この箇所の主題だと示されました。このことを深めて学びましょう。
今、今朝中心的にかたる主題は「神の国」についてだとお話ししました。
神の国についてはここ最近、何回かお話ししていますが、少しおさらいをしましょう。「神の国」ことが出た、17章20節以下を振り返りましょう。
143頁をお開き下さり、20~37節をざっとご覧いただけますでしょうか?
民たちの「神の国」に対しての捉え間違いに対して、イエスは「神の国が来る」というのは「神のご支配が成る」という意味だとお話しになります。
この世での「目に見える国や政治の支配体制」のようではなく「目には見えないけれども、確かにあるもの」だと示されたのです。21節に「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とおっしゃっている通り、神の国、そして「神のご支配」は、「ご自身が人となってこの世に来られたことにより、既にあなたがたの間に実現している。あなたたちは神の国、神の恵みのご支配に既にあずかっているのだと、はっきりお伝えになっています。
一方でこの箇所には、「神の国が来る」ということに対して素直になれない人々の様子が読み取れます。イエスは弟子たちに、「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」とおっしゃいました。
「人の子の日」が「神の国の実現の日」が何時なのかはっきり知りたい。自分で言い当てたい。そして兆候を言い当てたい…そんなイスラエルの指導者階級、そして弟子たちの心の中を主イエスは見抜いておられるかのようです。
23節以下の厳しい言葉は、「神の国はいつ来るのか」といって心をざわつかせるのではなく、「色々なことを詮索せずに、たたまっ直ぐ、主と共に歩む」ことの大切さを教えられているのです。「神の時を当てられることで、自分は賢いのだ」と思うことより、「神の前に、自分の罪深さを心から悔い改めること」の方が何倍も大切なのです。
神の独り子イエス・キリストによって到来した神の国は、未だ完成していない、肉眼でも明らかな現実とはなっていないものです。だから、信じるしかない!のです。 私たちの信仰の歩みは、イエスによって既に来ている「神の国に希望を置いて!」その完成を待ち望みつつ生きるものだということが教えられます。
今日の聖書箇所に戻りましょう。144頁をご覧ください。今お話しした17章20節以下を念頭に置くなら、今回の箇所の18章15節から17節が「神の国はどのような者のものなのか、どのような人がそこに入ることができるのか」、を語っていることがお分かりになると思います。16節と17節を読んでみます。
「神の国はこのような者たちのものである」。その「このような者たち」とは、子どもたちのことです。子供たちこそ、神の国に入るのに相応しい者だとイエスはおっしゃったのです。それは子どもしか入れない…大人は入れない…ということではありません。「子どものような」者が神の国に相応しいということです。
では、「子どものよう」とはどういうことなのでしょうか?それは「罪のない純潔な者」という意味ではありません。17節の「子供のように神の国を受け入れる人」という言葉が表しているのは、「大人のような神の国に対する態度ではない」ということなのです。
先ほど見た17章20節からの部分で「多くの大人の神の国に対する態度」をイエスが表しておられることに気づきます。神の支配の完成や「人の子の日」といった「人間には計り知れない、神の領域にあること」を一目見たいと願う人が多いのがこの世なのです。
私たちの日常では様々な事が起こります。神の恵みのご支配などどこにあるのか、という「失望の出来事」も多いです。しかし!イエスの十字架と復活によって神の救いの業が既に行われ、恵みのご支配は実現しているのです。つまり「神の国は既に来ている」のです。これを信じて受け入れることこそが、17節でイエスが言われている神の国を受け入れることなのです!
大人はいろいろと理屈を言って、納得できる説明を求めます。例えば…「こんなに不条理が満ちているこの世界のどこが神の国なのか!」とか「この世で神のご支配があると言うのは一体どんな証拠があるのか!」などというものです。
それに対して子どもはどうでしょうか? たぶん大人よりは「言葉をそのまま受けとる、信頼して聞く」ということをすると思うのです。そしてもう一つ注目したいことは15節、16節に「乳飲み子」が出てくることです。これはいわゆる子どもではなく「乳児」がこの場にたくさんいたことの表れです。
イエスは「乳飲み子」を含めて「子どもたちのように神の国を受け入れなさい」と仰っているのです。
乳飲み子は、お腹がすけば泣き、与えられた母乳やミルクを飲み、お腹がいっぱいになったら寝る、という存在です。信頼するとか受け入れるとかではなく、ただ与えられたものをいただくことによって生きているのです。イエスはそのような乳飲み子を見つめつつ、「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったのです。
素朴な信頼をもって、イエスによって神の国が実現しているという福音の言葉を信じて受け入れる者が、神の国の完成を待ち望みつつ生きることができる。そして最終的に神の国に入ることができる…イエスはそのような意味で「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と仰ったと理解します。
私たちはどうでしょうか?ファリサイ派の人々や、イエスの弟子たちのようにいろいろと理屈を言って、納得できる説明を求めようとしているのではないでしょうか?
イエスが、その愛によって、恵みによって支配なさる「神の国」に希望を置けているでしょうか?
私はというと…純粋に、そのまま受け入れるということができていないのではないか…そのように思い当たることが多くありました。悔い改めると同時に、17節最後の「決して神の国に入ることができない」という言葉を重く受け止めます。
しかし、本来なら「神の国に入ることができないような罪人の私」のために、イエスは十字架に架かって死んで下さったのです。そして「死の力に打ち勝って復活してくださり、神の国に入る道を特別に切り開いて下さった」のです。
信頼しきれていない私たちに対して、「神の国の恵み」が先行して与えられるのです。なんと感謝なことでしょうか。 私たちは、少しでも「疑い、諦めの心」をすてて、「神の国の恵みによる希望」を純粋にもって歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)
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