「天からの権威と人からの権威」10/18 隅野徹牧師

  10月18日説教 ・聖霊降臨節第21主日礼拝
「天からの権威と人からの権威」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書20:1~8

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 

 先週は神学校礼拝で違う箇所を読みましたが、山口信愛教会の礼拝では、続けてルカによる福音書からのメッセージを聞いています。今19章の終わりまできました。イエスがエルサレムに入城され、いよいよ十字架に向けての歩みが始まっています。今日の箇所は20章の1節から8節、「権威」について教えられる箇所です。

 早速ですが、今日の箇所のあらすじを、前回の箇所との流れで確認します。

 直前の45節から48節をご覧ください。

 イエスは、エルサレムに入城された後、最初に何をされたかというと、「金儲けの場所と化したエルサレム神殿を、祈りの家に相応しい場所にすべく、きよめられた」ことでした。つまり「商売人たちを追い出す」ことをされたのです。そして神殿の境内で、熱く教えられたのです。

 41節からのところで分かるように、イエスはエルサレムの人々が「強い政治指導者を先頭にして、ローマと戦おうとすること」その姿勢が結果的に「エルサレム崩壊」を招くことになるのをすべてご存知でした。しかし、それでもなおエルサレムの人々を愛するゆえに、手を差し伸べ続けられるのです。

 これは普通の人間にはできません。イエスが「神の御子であるから」そして「神から遣わされたからこそだ」と聖書を読む私たちには分かります。一方で、神殿の管理を委ねられていた祭司長や、神殿で教えることがあった「律法学者、民の指導者たち」にとっては腸が煮えくり返る思いだったことは容易に想像できると思います。

 それで今回の箇所の1節と2節「一体何の権限があってこんなことをしてくれたのか!」というような感じでイエスに迫ったのでしょう。ここからが今日の聖書箇所です。深く味わいましょう。

 祭司長、律法学者たち、長老たちは、それぞれよく話し合い、イエスを神殿から追い出すために作戦を練ったと考えます。「我々に答えてみなさい。何の権威でこれをしているのか。」

 2節には出てきませんが、3節4節のイエスの答えから想像するに、祭司長、律法学者たち、長老たちは「天からの権威か、それとも人からの権威か」という答えを想定していたのではないかと考えられます。

 もしイエスが「自分が神殿から商売人を追い出し、人々に教えたのが天からの権威だ」とお答えになったら、「この人は神を冒涜している」と訴えようとしたと想像します。逆に「人からの権威だ」と答えられれば「この人は神の宮である神殿を大切にしていない不届きものだ」として訴えようとしていたと想像させられます。

  祭司長、律法学者たち、長老たちは、自分たちの面子を潰された、仕返しをしたかったわけですが、イエスを貶めるには最高の質問ができた…そのように自画自賛したことでしょう。しかし、全能の主イエスは彼らの心を見抜いた上で、答えを返されるのです。

 3節の答え方は当時の一般的なものだったようです。どういうことかというと、一方が何か質問をするなら、その相手も出された質問に答えるというものだそうです。一方的にならず、一問質問すれば、一問相手に答えなければならないルールだったようです。 それでイエスは「わたしも一つ質問するから答えなさい」と仰ったのです。

 そのイエスが返された質問が4節です。「洗礼者ヨハネが、人々に罪の悔い改めを宣べ伝え、悔い改めのしるしとしてバプテスマを施したが、それは天からの権威によるのですか、それとも人間的な権威、つまり人間的な思いでなされたものだったのですか?考えを聞かせて下さい」というものでした。これは祭司長、律法学者たち、長老たちの急所を突く質問でありました。

 5節と6節をご覧ください。彼らが答えに苦慮している様子が描かれます。

 洗礼者ヨハネは、イエスが教えを宣べ伝える前に、人々が「イエスの福音を信じて受け入れることができるように」道備えをした人です。自分の後にこられるイエス・キリストこそが、神の子であり本当の救い主なのだとはっきり教えていました。 しかし洗礼者ヨハネはヘロデ王の悪行に対し、悔い改めを迫ったために処刑されてしまいました。この時の民衆には未だ熱狂的に支持されていたのです。

 だから、もしも「洗礼者ヨハネは、ただ人間的な権威だけで悔い改めを教えていたのだ」と祭司長、律法学者たち、長老たちが答えると、民たちから大変な怒りを買うことが予想できました。一方で「洗礼者ヨハネの権威が天からのものだ」と認めるなら、そのヨハネが救い主だとはっきり証言しているイエス・キリストをなぜ受け入れないのかという批判が来ることも恐れたのです。

 結局答えに窮した彼らは7節で「ヨハネの権威がどこから来たのかわからない」と答えます。そして8節、イエスも当時のしきたり通り「あなたたちが分からない、答えないのなら、私も答えませんよ」とお答えになったというのが今回の箇所の流れです。

 さて、きょうの箇所のキーワードは、題にもつけたように「権威」です。新共同訳聖書の小見出しにも「権威についての問答」とあります。

 権威の意味を辞書で引くと「正しいことを強制して行わせる力、もしくは服従させる力」と出ます。

 法律などがこれに当てはまります。悪い行為を止めさせて従わせる力のあるものです。

 しかし、法律は絶対ではありません。わざわざ法律や条例を制定させて「立ち退きを迫る」というニュースを目にしますが、人間の生み出す権威というのは、ときに暴力的だなと感じます。

 立ち退きも酷い話ですが、悪法を成立させて「戦争ができるようにしてしまう」という過ちを人間は何度も犯しています。その結果、武力などによって「人を強制的に従わせる」ということが起こります。これはいうまでもなく「権威の誤った行使の仕方」です。

 そしてキリスト教会でも残念ながら「誤った権威の行使」が繰り返されてきました。神の名を借り、自分の意見や政策を「神からの権威」だとして、人々を強引に従わせる…ヒトラーのナチス政権は、ドイツの教会を骨抜きにし、自分に従わせるための道具としたのです。

 だからなのでしょう。ほとんどの人は「権威」という言葉に良い印象を持たないと思います。権威というものを間違えて理解している私たち、もっといえば「本当の権威が何なのか分からないのが私たち人間」のために、聖書は本当の権威について教えているのです。

 今回の箇所で私が注目したこと、それはイエスが「私は神の権威で宮清めや神殿で人々を教えることを行った」とは仰らなかったことです。8節でも「私も何の権威で行動しているか言うまい」と仰っているのです。

 ただ質問をはぐらかされたのではなく、「私は権威を振りかざす者ではないのだ」と仰っているように私は感じます。

 イエス・キリストが「神の権威をお持ちかどうか」というと、それは間違いなく「神の権威をお持ちである」と言い切れます。聖書のあちらこちらに「イエス・キリストの神としての権威、権能」ということが示されています。しかし、イエス・キリストは「権威ある方」ではあるけれども「権威を振りかざすことは決してなさらない、愛のお方」なのです。

 先程、人間は「権威ということばを正しく理解していない」といいましたが、今日のこの場面に出てくる祭司長、律法学者たち、長老たちもそうです。権威は振りかざすものだ!と思っているのです。権威を持つ者が有無を言わせず、言うことを聞かせることができる…そう勘違いしています。

 しかし、イエスは全く違います。神殿から「商売人を追い出された」のは、「私の宮を汚すな!」ということではなく、「清く生きなさい」という愛ゆえの招きなのです。そしてこの後、十字架にかかって罪の身代わりとなって死んでくださるのですが、それは追い出した商売人の罪の身代わりたなられるためであり、歯向かってくる祭司長、律法学者たち、長老たちの罪の身代わりでもあり、私たちを含むすべての人間の罪の身代わりになるためなのでした。

 キリストが用いられた神の権威、それはすべての人間を愛の故に正しい道に招くものなのです。

 このように神の権威、キリストの権威は強制的に従わせるものではなく、「十字架の赦しの恵みに与って、謙った新しい生き方」に招くものなのです。マタイによる福音書11章28節にあるようにそれは「負いやすい軛であり」神の権威に身を委ねることは「安らぎを得られることなのだ」ということを覚えていましょう。

 最後に、今のいったようなことが教えられるとともに「私たち自身が権威というものをどう捉えたらよいのか、教えられた箇所がありますので、そこを朗読してメッセージを閉じます。

 その箇所とは新約聖書ペトロの手紙Ⅰ5章1~7節(新P434)です。

 このような言葉です。

 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。

 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。

 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。

 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。

 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。

 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。

 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

 私たちは祭司長、律法学者たち、長老たちのように「権威を振りかざすことを考えず」、私たちを愛し、心にかけて下さる神の「権威」にのもとに静かに身を委ねてまいりましょう。(祈り・沈黙)


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