11月1日説教 ・降誕前第8主日礼拝・永眠者記念礼拝
「天国はどんな場所か」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネの黙示録7:9~17
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今日は1年に一度の「永眠者記念礼拝」です。イエス・キリストを信じ、天国への希望を抱いて旅立たれた方々を覚えて、神の前で礼拝をおささげするのがこの時ですが、同時に私たち自身が天国を実感する時でもあります。「死」は確かに悲しいものですし、恐ろしいものです。しかし「死は死で終わらない。天にて生きる希望が与えられている」ということを聖書の言葉から感じていただければ幸いです。
今日のメッセージで引用する聖書の箇所は「ヨハネの黙示録」です。現在、水曜日の祈祷会で続けて学んでいるこの書は「聖書の一番最後の書」であります。最初の創世記に「この世のはじまり」が描かれて、最後の黙示録には「終わり」が描かれています。「終わりについての記述」があることで、例えばSF映画などで描写されるために、誤解されることが多いです。
この書が書かれた背景は、1世紀末にあった「激しいキリスト教迫害」の中で、神がクリスチャン達を励まそうと、「ヨハネに幻をみせた」ものが文字として記されています。また暗号のような「当事者同士でしかわからない」ような表現がなされており、理解が大変難しい書簡です。しかし、この地上で目に見えるものを超えて、確かに与えられる希望が見て取れるのです。
今回選んだのは7章9~17節です。ここでは「私たちが地上の歩みを終えた後、行くことのできる場所である「天国とはどんな場所か」が示される箇所です。別の言い方では「山口信愛教会の永眠者の方々が先に旅立たれた「天国」がどんな場所かがわかる箇所なのです。早速深めてまいりましょう。
今回の箇所である9~15節には、「神がヨハネに幻という形で示した」天国の様子が記されています。大切なポイントを3つほど挙げてお話しします。
1つ目のポイントは「天国の中心は玉座におられる神と小羊であるこの方々が世界を救われる」ということです。 (とくにこのことが示されている10節をお読みします)
小羊とは、神の独り子で、人となってこの世に来てくださった「イエス・キリスト」を表しています。聖書には十字架にかかって「人間の罪の身代わりになってくださったキリスト」のことを「小羊」と表した箇所が多く出ます。
旧約聖書の時代、人間は犯した罪を赦していただくために「小羊」を生贄としてささげていました。その後神は「すべての人間を罪から救うため」に、自ら「完全な生贄」を用意されました。それが「人として、この世に来られたイエス・キリスト」なのです。 だから、「イエス・キリスト」が小羊なのです。
その小羊イエスと、父なる神が玉座におられ、中心におられるのが天国だということを心に留めましょう。
2つ目のポイントは、「天国が小羊の血によって罪を洗い清められたものすべてが憩うことができる場所である」ということです。(とくにこのことが示されている9節、14節をお読みします。)
天国の中心に、神とその独り子キリストがおられることを今お伝えしましたが、その周りはどうなっているかというと9節にある通り「数えきれないほどの大群衆」がいるのです。
この大群衆ですが、あらゆる人々が「人種の違いや、生きた年代を超えて一つになっている大群衆なのです。天国は、違いを持った一人ひとりが、分け隔てされることなくいることのできる場所だと分かるのですが一方、すべての人が同じように「白い衣を身にまとっている」、そういう「共通点」も見いだせるのです。
この「白い衣」とは何か…それは14節からわかります。
小羊の血とは、「キリストが十字架で流された血」です。これで服を洗い白くするというのは「キリストの十字架の死によって、自分が罪から救われると信じ受け入れること」です。私たちはみな罪を持って生きていて、その心は汚れきっています。しかし、キリストの犠牲が私のためだ、と信じ受け入れるならば、心は「白い衣を着たかのように」清められるのです。
山口信愛教会が永眠者として覚えている方々はみな、小羊イエス・キリストを救い主として受け入れた方々です。14節にあるように「それぞれ、大きな苦難を通られた」のですが、人生の旅路の中でキリストを自分の救い主として受け入れられました。一人ひとりその人生には違いがあります。でも「キリストを信じて救われ、まるで白い衣を着たかのように罪赦され、今主の身許におられるのです。
私たちももう一度「キリストの十字架の死によって、自分が罪から救われると信じ受け入れる」ことを確認し、その恵みに感謝しましょう。まだ信じ受け入れておられない方も、ぜひキリストの十字架の恵みを受け入れてください。共に天で憩えることを切に願います。
3つ目のポイントです。「天国は、神を賛美し、礼拝する場所である。また神に仕えることのできる場所である」ということです。(このことが示されている10、11、12と15節をお読みします)
日本人に多い勘違いとして「天国を何もしないでダラっとしていられる場所だとイメージする」ことがあります。しかし、この箇所は全く違うことを私たちに示してくれています。
15節をご覧ください。「彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える」とあります。暇にして過ごすのではなく、神に仕えて過ごすのです。苦役では決してありませんが、しかし、一人ひとりが最も輝く形で神のお手伝いをする、それが天国だと分かります。
そしてもう一つ、天では常に神への感謝の礼拝がささげられているのです。喜びの賛美も常にささげられていることがわかります。「自分が罪から救われた感謝をいつも持ちながら、神に仕え、礼拝する。そして感謝の賛美はいつも溢れている…」なんと素晴らしい場所でしょうか。
私たちは、今この地上で生かされています。それぞれに「大きな苦難を通り抜けなければならない」ですが、それでもいつの日にか「この地上での苦しみから解き放たれ、天国で神とともに憩うことができるという希望をもって歩んでまいりましょう。
この世の教会の礼拝は完全ではありません。しかし、ヨハネ黙示録7章に記された礼拝の様子と重なるところも多いのです。天国の前味として、山口信愛教会の礼拝を大切にしていただければ幸いです。
最後に残った16節、17節を読みます。
難解な言葉が並ぶヨハネ黙示録の中でも「この言葉は大好きだ」とおっしゃる方が多くある、そんな箇所です。
17節には、小羊であるイエス・キリストが、天に招かれたすべての人の「牧者」となって「命の水の泉へと導かれる」ことが示されます。
今回の礼拝の交読詩編に選んだ23編の詩の内容と同じです。ダビデがうたったように、「イエス・キリストこそが私の本当の牧者であって、自分には欠けるものが何一つない」ことを心から感じる場所、それが「天国」なのです。
そして16節も大変慰められる言葉です。天国は、神が共にいてくださるだけでなく、飢えることも、渇くこともなく、暑さ、寒さが襲ってくることはないのです。
メッセージの最初、ヨハネの黙示録は「激しい迫害の中で、神がヨハネを通して、クリスチャンたちを励ますために与えた幻だ」ということをお伝えしました。地中海沿岸の太陽が照り付けるなか、ローマ皇帝に迫害されていたクリスチャンたちは、食べ物や飲み物が与えられず、死線をさまよっていたといわれます。
そのような中、ヨハネを通して与えられた「この天の幻」にどれだけ励まされ、慰められたか想像に難くありません。
私たちも今年はとくに大きな苦難があります。実際に生きていくための困難に直面することもあります。しかし、苦難は苦難で終わらない、ということを今回の聖書箇所から覚えていただいたら幸いです。
イエス・キリストを「罪から自分を救ってくださる救い主だ」として受け入れた永眠者の方々は、今、そのキリストとともにおられます。ただ共にいる、というのではなく、今回の箇所で具体的に示されているように「救い主をほめたたえて礼拝し、救い主に仕え、そして救い主に日々命の水の泉に導かれて」憩っておられるのです。
私たちもいつかそこへ行き、神にあって大切な方々と再会できるのです。神と相まみえることができるのです。この地上の歩みは苦難が伴いますが、それでも希望をもって歩んでまいりましょう。(祈り・黙想)
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