10月31日 降誕前第8主日礼拝
「だから、わたしも働くのだ」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書5:9b~18
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本日は、私たちにまことの安息を与えるために主が働いておられることについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。
1.安息日は救いを共に喜ぶ日である。(11節)
2.救われた恵みに留まり、歩み続ける。(14節)
3.神は休みなく救いの御業を行われる。(17節)
1.安息日は救いを共に喜ぶ日である。(11節)
先週は、エルサレム神殿のそばのベトザタの池で、38年病気で苦しんできた人を主が癒されたことを聞きました。ベトザタは「憐みの家」という意味です。この池の水はまれに動く時があり、その時一番早く水に飛び込んだ者はどんな病も癒されると信じられていたため、池の周りに多くの病人が横たわっていました。真っ先に水に入ることができるのは、他の人など構わず押しのけられる軽症の人です。ですからそこは憐みの家とはほど遠い、争いと失望の場所でした。しかし祭りのためエルサレムに来られた主イエスはそこに行かれ、長い間病気であった人に「良くなりたいか」とおたずねになりました。「良くなりたいです」と素直に答えられず、わたしを池に入れてくれる人がいないと嘆く彼に、主は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられました。すると彼はすぐに癒され、床を担いで歩きだしました。
歩き出した人を見て、そこにいた人々は驚き喜んだことでしょう。ところがそこを通りかかったユダヤ人宗教指導者たちは、これを苦々しく思って彼に言いました。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
安息日に労働することは、死に値する律法違反とされていました。安息日に荷物を運んではならないことは、ネヘミヤ13:15~、エレミヤ17:21~にあります。これはイスラエルが外国に捕らわれの身となっていた時、神の民としての信仰を守り証するために命じられたことでした。安息日に行商が通らないようにし、自分のための仕事を休み、主に信頼することの具体的な現れとして安息日を守ったのです。
しかし主イエスの時代には、安息日に困っている人を助けることまでも労働に相当するという解釈が、一般的になっていました。その結果安息日は喜びの日ではなく、苦しみの日になってしまいました。引越しで家具を運ぶのであれば、確かに仕事にあたると言えるでしょう。しかし38年もの間病気で苦しみ寝たきりの生活をしてきた人が癒され、床を取り上げて自分で歩くことができるようになったのです。彼が担いだ床は喜びの現れ、癒してくださった主を賛美する行為でしたが、ユダヤ人指導者たちは「元気になってよかった」「主はすばらしい」と声をかけるどころか、彼を問いただすことしかできませんでした。
そもそも主は安息日を、何のために制定されたのでしょうか。イスラエルの民にとって安息日は一切の労働を中断し、神の御業を想い起こすことに集中する日です。神が天地万物を創造され七日目に休まれたゆえに、人間も休んで神の創造の御業、また神が奴隷の家から導き出された出エジプトの救いの御業を想い起こすのです。仕事をしてはならない日というよりも、神が世界を造り、自分に命を与え救い出して下さった恵みを、隣人とともに感謝する日、神との交わりに生きる喜びの日です。また、人間には休みが必要です。労働を休むことによって身体の疲れを取り、神を礼拝することによって霊と魂の休みを得る事ができます。
教会が日曜日に礼拝をささげるようになったのは、キリストがよみがえられ、教会を誕生させた聖霊が降った日という、教会の根幹となる救いの御業が行われたのが日曜日だったからです。初代教会ではすでに日曜日の聖餐や、集まった献金を日曜日に献げていたことが記されています。
さてユダヤ人たちが安息日の掟によってまず批判したのは、癒されて床を担いで歩いている人でした。責められたこの人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。癒されるために彼が主イエスを信じたということは書かれていませんが、彼の行動こそ信仰の現れということができるでしょう。主イエスは、癒された人が床を運ぶことが当時の安息日解釈に反し、必ず咎められることをご存じでした。しかしあえて「床を担いで歩きなさい」と命じられました。それこそが、救われたことの証しだからです。
安息日に仕事をしてはならない、そのようなことは癒された人もわかっています。けれども、38年も決して癒されることのなかった自分を癒してくださった方が、「床を担いで歩きなさい」と言われたのです。彼は自分が癒されたという救いの事実に基づき、その救いを与えて下さった方にこそ自分は従う、と信仰を告白しているということができます。神は安息日を、私たちが命を受け、自由と喜びに生きるのためにお与えになりました。人が安息日のためにあるのではありません。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することこそが律法であり、主の御心です。その御心を忘れて外面を守ることに固執しているユダヤ人たちこそが、律法に違反しているといえます。
多くの人は信仰生活を、何かの教えを守ることだと誤解しています。確かにそれは信仰生活の一部ではありますが、それだけでは「クリスチャンになってかえって生きづらくなった」と思うことになります。信仰はキリストにある「いのち」を味わって生きることです。主を証する者はこの世の価値観と対立しなければならないこともありますが、内に与えられたキリストの命が、床を担いで歩きだした彼のように救いの喜びを表し、主に感謝をささげる力を与えるのです。
2.救われた恵みに留まり、歩み続ける。(14節)
病に苦しんだ彼を立ち上がらせたのは、主イエスの一方的なみわざでした。同じように主イエスによる救いの恵みは、私たちの行いや能力によらず、一方的な恵みとして与えられます。さて癒された人は、床を担いで歩きなさいと言ったのは誰かとたずねられましたが、彼は自分を癒してくださった方が主イエスであることを知りませんでした。彼の周りを群衆が取り囲んでいたであろう時に、主イエスは立ち去られたからです。ところがしばらくして主イエスの方からこの人を見つけ、神殿の境内で出会ってくださいました。見つけ出してまで、言わなければならないことがあったのです。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
主イエスはまず「あなたは良くなったのだ」と、病が癒されたこと、そして新しい人生が始まったという救いの宣言をされます。変わりたいと願いつつも、このままでいた方が楽だという彼の思いはとても強いものでした。環境を理由に、癒されて自分で生きていくことをためらっていました。しかし主は一方的な恵みの御言葉をもって彼を癒し、彼が歩むために必要なすべてを備えてくださいました。
その後に続く主イエスのお言葉は、どんな失敗や悪いこともしてはならないとか、また罪を犯すと今度はもっとひどい病気になるかもしれないという意味ではありません。ここで言われている罪とは、神から離れ、神を忘れて自分中心に生きることです。聖書はすべての人間が神を知らず、神から離れて生きていると告げます。その罪から人を傷つける言葉や行い、そして窃盗や殺人など社会の法を犯す犯罪が生じます。福音を受けその恵みを知りながら、自分から神との関係を拒むことがないようにと、主は願われます。
旧約聖書には、せっかくエジプトの奴隷状態から救われたイスラエルの民がすぐにエジプトに戻りたいと願い、神に背き続けたことが記されます。彼らは神の約束を信じようとせずに繰り返し神に逆らったために、ほとんどの人が約束の地に入ることができませんでした。カナンの地に入ることができた成人男性は、主を信じ続けたヨシュアとカレブだけでした。主は悔い改めたイスラエルを赦し回復させてくださいますが、彼らは生活が安定するとまた同じ過ちを繰り返しました。神でなく自分たちのタイミングで計画を実行し、豊かな国に頼り、その基準に従って欲望のままに生きていました。新約になるとそれは、せっかく神の恵みによって救われたのに、自分の力で救いを達成しようとする律法主義に戻ってしまう人たちとして出てきます。
私たちに与えられた救いは、「イエスは私の主です」と皆の前で発表すれば、自動的に天国行きの切符をもらえるというものではありません。イエスを主と告白することは、この世と調子を合わせる生き方と衝突することもあるからです。この世にはさまざまな誘惑があり、サタンは常に神の民をつまずかせようと必死に活動しています。そのことを意識して、いつも主とその御言葉の約束により頼むことが大切です。「とうてい私の力では、信仰の旅路を歩み切ることはできません。罪深く弱い私を憐れんでください。」と主にすがる者の信仰を、神は守り通してくださいます。そのために私たちには、御言葉と教会が与えられています。
主イエスを信じて罪赦されることは信仰のスタートであって、そこからどのような生き方をするかが大切です。神は救われた私たちがまことにキリストに似た者として成長し、喜びに満たされた生涯を送るよう願っておられます。新しい命を受けて神の子として生まれた者は、聖霊の息吹で呼吸し、御言葉を自分で食べて成長していきます。私たちは一人で信仰の道を歩くのではありません。後ろに戻りそうになる時には、私たちの家族や友人、兄弟姉妹の愛を思い起こしましょう。私たちの前に信仰の道を走り抜いた方々が囲んでくださっています。何よりも私たちの救いのために十字架の死を耐え忍び、御心に従い抜かれた主イエスを見つめる時に、私たちは信仰に踏みとどまり、自分に定められている道を再び走っていくことができるのです(ヘブライ12:1~3)。
3.神は休みなく救いの御業を行われる。(17節)
癒された人は、その御業を行ってくださった方が主イエスであるとユダヤ人たちに知らせますが、それは主イエスへの迫害をもたらしました。床を担いで歩くことは安息日にしてはならない「仕事」とされていましたが、緊急でない病人を癒すこともそうでした。しかし主イエスが安息日の掟を破っていると批判し迫害したユダヤ人たちに対して、主ははっきりと告げられました。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」。
神が創造の七日目に安息なさったのは、私たち人間が自分の業を休んで神と向き合うためです。私たちは放っておくとこの世の事柄だけを見つめ、自分の力だけに頼って神と向き合おうとしません。ですからあえてその営みをいったんやめて、神との交わりの時を持たせる安息日が命じられたのです。しかし主の救いの御業に休みはありません。主イエスが安息日に心を向けられたのは、神殿の礼拝よりもまず、ベトザタの池に横たわっていた人でした。自分の不幸を嘆き、人や環境を非難する中に留まっていた彼に、主は語りかけてくださいました。これこそが私の求める安息であると示してくださったのです。
この世界を造られた神は、造っただけで放置しておられるのではありません。神がご支配を続け、維持してくださっているからこそ、世界は回っています。そして肉体をもつ私たちの感覚からはわかりにくいのですが、救いのために働くことこそ、神の安息です。出エジプトの時に主が寝ずの番をしてイスラエルを救い出してくださったように(出エジプト12:42)、神はすべての希望が失われたかに見えた安息日にも、最も大きな救いの御業を行っておられました。ユダヤ人たちが十字架で殺した主イエスを、神は死人の中から甦らせてくださったのです。
ヘブライ人への手紙4章では、神が私たちに真の安息、救いの完成を与えようと願っておられることが記されます。創造の御業を完成された神は、この世界を御座から治めておられます。そのご支配が全地に満ちて誰の目にも明らかになる時を待ち望み、「御国が来ますように」と私たちは祈ります。そして私たちの安息もまた、何の活動もなくなるというのではなく、アダムの罪ゆえに苦しみとなった労働の喜びが回復する時と考えることができます。私たちも、休みをとって自分をいたわってあげることは大切ですが、誰かの喜びのために時間を費やすことができると幸せを感じ、疲れも吹き飛んでしまいますね。神が最終的に与らせようと願っておられるまことの安息とは、神が住んでおられる天の安息の領域に私たちが入れられることです。その日を待ち望みつつ、私たちは主の日の礼拝を感謝をもってささげていくのです。
御自分を迫害し始めたユダヤ人たちに対する主イエスの応答は、驚くべき言葉でした。主イエスのこのお言葉は、父なる神とご自身との関係をはっきりと示しています。父なる神とその独り子である主イエスは一体である、それは御自身を神と等しい者とされることです。これは、神は唯一であり目に見えない方であると信じてきたユダヤ人には、到底容認できないことでした。主イエスが安息日を破っただけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされた、それはユダヤ人が主イエスを十字架で殺す決定的な要因となりました。
ベテスダの池の五つの回廊は、モーセ五書(創世記~申命記)と呼ばれる律法を表していると言われます。
ここに多くの病の人が横たわり、38年間癒されない人がいた。それは「律法では人は救われない」ことを象徴しています。律法は私たちが罪人であることを知らせます。しかし、その罪からの救いは律法ではなしえません。「~ができれば救われる、基準に達しないと罰せられる」というところに捕らわれていた私たちにも救いの喜びはありませんでした。しかし神と等しい方である主イエスが私たちのもとに来てくださり、御自身を信じる者に救いの喜びを与えるために、十字架の道を歩んでくださいました。
癒された人はかつて、自分のために他の人を押しのけ、彼を一番に水に入れてくれる助け手を待っていました。それは切実な願いではありましたが、自己中心でありました。しかし神の救いはそのようなものではありません。私たちが「良くなった」、つまり本当に主の救いにあずかったしるしは、今伏している人を見て絶え間ない痛みが心にわき、自分が救われたように隣人の救いを願うようになることです。
「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。」(詩篇121:4) 安息日を守るとは、与えられている時間を自分のために用い尽くさないということです。主の日の礼拝のたびに私たちは、今日も明日も私たちの救いのために働いてくださる主を礼拝し、その恵みを感謝をもって思い起こします。それとともに大切な人が、特に苦しみや孤独の中にある方が安息の喜びを味わうために何ができるか、主に祈り求めましょう。神と隣人に仕え、安息日の喜びあふれる教会でありますように。
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