「イエスの時は何時(いつ)」2/6隅野徹牧師

  2月6日 降誕節第7主日礼拝・聖餐式
「イエスの時は何時(いつ)」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書7:1~9



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 今山口信愛教会の主日礼拝では、続けて「ヨハネによる福音書」のみ言葉を聞いています。今日の箇所から7章に入ります。6章では、まず「五千人の給食の奇跡」の場面が描かれ、その後イエスが「ご自分こそが天から降って来た生きたパンであること、イエス・キリストというパンを食べる者には永遠の命が与えられる」ということが語られてきました。

しかし、先週瞳牧師が語った箇所にでたように、多くの人々が反感を覚え離れて行ったのでした。更にイエスに従っていた人々の中からも、離れ去っていく人々が多く出たということが語られました。これらはガリラヤ地方で起こった出来事でしたが、7章では話の舞台がエルサレムへと移ります。

本日の箇所の9節までは、「イエスがエルサレムに上って行くのかどうか」について語られています。その「エルサレムに上っていくかどうか」で、イエスが大事にされたのが「ご自分の時」ということと、「世の悪を証しする」ということでした。この二つの点に注目して、御言葉を味わってまいりましょう。

まず1節をご覧ください。この時点でイエスはガリラヤにおられたのですが、それは「ユダヤ人が殺そうとねらっていたのが分かっておられたから」だと分かります。この後、深く味わう「イエスの時がいつなのか」ということが語られる上で、大切なポイントがここで示されているのです。

続いて2~4節です。ここは私が読んでみます。

仮庵祭という都エルサレムで行われる大きな祭りが近づいて来た時、イエスの兄弟たちがイエスに、「エルサレムに行くように」と促したのです。その兄弟たちはイエスに「エルサレムのあるユダヤ地方に行って、あなたのしている業を世の多くの人に対してはっきりと見せてやりなさい」と勧めます。

兄弟たちは良かれと思ってアドバイスをしたのでしょう。弟子の多くが離れて行ってしまった、ガリラヤの多くの人も反発してしまったことを聞いている。だから、祭りが行われるこの時に都へ上り、奇跡を行って、また多くの弟子を獲得しなさい、という激励だったのでしょう。

でも5節にあるように、兄弟たちは、イエスが奇跡的な業を行えることをしってはいても、「それが何のためなのか」そして「イエスが何を成すために、人としてこの世に来られたのか」それを理解していなかったのです。

しかしながら、神は彼らを「時が来た時に」真理へと悟らせ、初代教会の指導的な役割を果たすまでにさせてくださいました。今日は詳しく触れませんが、ここでも「神の時、イエスの時」があることを覚えて頂いたらと思います。

続いて順番を逆にして8節、9節を先に読みます。

イエスは「ご自身の時がまだ来ていない」として、祭りの時にはエルサレムには昇って行かないと宣言されます。実際には来週の箇所10節で「人目を避けるようにして、密かにエルサレムへ上られた」ことが分かります。しかし、イエスが「十字架の上で死んで、すべての人の罪の贖いをする」という決定的な時を見つめておられることがこの箇所で分かるのです。

イエスの命を狙う者もいました。しかし、ここで殺されることは避けようとされているのです。そのため兄弟たちが勧めるような「目立つような、一旗揚げるような」そんな形でエルサレムにいかれることはなさらないのです。

あくまで、十字架で救いの業を成しと遂げるために、謙遜に、しかし一方で一途に進みゆかれるイエス・キリストのお姿を心の目に焼き付けましょう。

残りの時間で、今日の中心箇所である6節と7節を味わいます。

まず6節を読んでみます)

 イエスは、「あなたがたの時はいつも備えられている」と仰います。新改訳だと「あなたがたの時はいつでも用意ができています」と訳されていて、こちらの方が分かりやすいかもしれません。要は「あなたたちはいつでも都エルサレムに、堂々と行くことができる、その状況は整っている」ということです。

一方で、ご自身が「エルサレムに上って」救いの業を成す時はまだ来ていない、と言われるのです。その「イエスの時」とは、都エルサレムにおいて神の子であり救い主であることが完全な形で表される時、つまり「十字架にかけられ、復活される時」なのです。

イエスが思われている「時」と、兄弟が思っている「時」が違っていることが示されます。

兄弟たちが見ているのは、「イエスを世に示す時」、「多くの人に知ってもらうチャンスの時」としてのエルサレム上りだったのです。それが祭りの時であれば「なおチャンスだ!」という思いもあったことでしょう。

しかし、そのような「自分を売り込む時」というのは、はっきり言って「いつやっても大差ないもの」のだと思います。もっと言えば「人間が人間の栄光を表そうとすること…」それはいつでもできる意味のない時間であると言えるのではないでしょうか?

よく、テレビなどで「チャンスを生かして、人に認められて、人生の勝ち組になった」ような成功談を聞きます。でも本当のところは、「時を上手く生かしたように見えて」、実は中身のない無駄な時間を過ごしていることになるのだ、ということが言えるのではないでしょうか。

6節の「あなたがたの時はいつも備えられている」とは、イエスの兄弟たちが「イエスを売り込もうとしている、その時の虚しさ」が表されているように私は感じます。

一方で、イエスが見ておられる「時」とは…人類の歴史の中の「かけがえのない一瞬」「替えの効かない、ある一瞬」なのです。それは言うまでもなく「十字架の上で死なれる時」であります。

そしてこの「イエスの時」には何が明らかになるのか…それが7節に表れています。

イエスの時である「十字架の死の時」それは、イエス・キリストが世の罪を指摘したために世の人々から憎まれ、殺されたことによって起きました。

一方でそれは「人間の罪を全てご自分の身に引き受け、本当は私たちが受けなければならない報いをイエスが代って受けて下さるため」でもあったのです。

このように、イエス・キリストの十字架の死は①「人間の側がイエスを裁判にかけて殺した」という側面と、②「神の側が、人間を罪から救い出すために、自ら独り子をいけにえとしてささげた」という両方の面から見ることができます。

しかし、いずれの面から見ても同じようにして表されていることがあります。それが何かというと「人間の、この世の罪深さ」です。

イエス・キリストの十字架、それは私たちがいかに罪深いかを証しするものです。

十字架は「私たちへの愛が表れた時」でもありますが、まず私たちは「その行いがいかに悪いのか、神の独り子が犠牲にならなければならないほど、世の罪、自分の罪は深いのだ」ということを、今一度心に刻み付けたいと願います。

 7節最初に「世はあなたがたを憎むことができない」とあるように、世の中一般の常識では人々に憎まれないように、波風を立てないように行動することが美徳とされがちです。人が悪いことをしていても「それを指摘しない」むしろ耳障りのよい言葉だけを並べ、厳しいことは言わなくなっています。そして悪は悪を呼び、蔓延していきます。そこに「本当の愛の心」はありません。

 でも、イエス・キリストは世のすべての人を本気で愛してくださっています。だからこそ私たちの「行いが悪いこと」をもはっきりと示して下さるのです。そのことで、私たちは神のもとへと立ち帰らせていただけるのです。

神の独り子が人となってこの世にきてくださり、人類の実際の歴史の中で「十字架で死んでくださった」その出来事を心に留めるとき、私たちの「放置してはならない、罪や悪」があることに気づかせていただけます。

 自分の罪に目を向けることは嫌なことです。しかし、イエスが愛の内に「そう導いて下さったのだ」と感謝をもって受け止められたらと思います。この後の聖餐式も、「神の時、十字架の時に、私たちの何が証されたのか」思いだしながら与りましょう。(沈黙・黙祷)

 

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