6月25日 聖霊降臨節第5主日礼拝
「一緒に喜んでください」
隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書15:1~10
本日は私たちの救いが、神お一人のうちに留めておけないほどの大きな喜びであることについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。
1.神は私たちに一対一で向き合われる。(4節)
2.悔い改めは、まず神が捜してくださることから始まる。(8節)
3.神は御自身の喜びに、私たちを招かれる。(6節)
「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。(1~2節)
本日の箇所は、主イエスがファリサイ派の議員の家で食事をされた後、徴税人や罪人と呼ばれていた人たちが話を聞こうとして主イエスに近寄って来た場面です。「聞く耳のある者は聞きなさい」という主のお言葉に彼らは応答しました。聖書の教えなど自分たちに縁遠いものだと思っていたであろう人々が、自分から熱心に主イエスに耳を傾けていたのです。主は彼らを喜んで迎え入れ、共に食事をしておられました。共に食事をすることは、その人が自分にとって大事な存在であり、神にあって家族であることを意味します。
ところがそこにいたファリサイ派の人々や律法学者たちは、主のなさることに不平を言いました。彼らはイスラエルの宗教的指導者たちです。アブラハムの子孫であり、律法を日々徹底して守っている自分たちこそが神に選ばれた民であると考え、それを誇りにしていました。そして清い者であるために、律法を守らない一般の者から分離すべく、罪人たちには厳しくありました。罪人と呼ばれる人の大半は、職業や国籍、健康状態などによって律法を守ることのできない人たちを指しています。彼らはユダヤ人の共同体から排除され、彼らとつき合う人々もまた罪人の仲間だとされたのでした。
徴税人は罪人の代表のように思われていました。それは彼らがイスラエル人でありながら、当時イスラエルを支配していた異邦人、ローマ帝国のための税金を集めていたからです。徴税人の多くは下層階級に属し、困窮していたから徴税人になったという人も多かったようです。徴税人は上乗せして徴収した税金を自分のふところに入れていたため人々に嫌われていましたが、彼らが生き延びるために仕方ないことだったのかもしれません。
彼らが主の話を聞くために集まって食事を共にしていることが、ファリサイ派の人々や律法学者たちには我慢できないことでした。ファリサイ派や律法学者たちが信じている神のイメージは、彼らと同じく、悔い改めてから来いと目をつりあげている方なのでしょう。しかし主イエスは彼らに対してそれは違うと、失われていたものを見出す時の神のあふれんばかりの喜びを語られるのです。
1.神は私たちに一対一で向き合われる。(4節)
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(4節)
主イエスは神を、百匹の羊のうち一匹を見失って捜し回る人に、神のもとから離れた罪人をその一匹の羊にたとえて話されました。九十九匹の羊はファリサイ派や律法学者たちです。ユダヤの地域では牧草地は狭くてすぐに崖や砂漠になり、野獣もいます。羊の群れはふつうは個人の財産ではなく、村全体の共同の財産で、2-3人の羊飼が、一緒に群れを管理したそうです。迷い出た羊が夕方になっても見つからない場合は、羊飼い仲間は群れを連れて村に帰り、一人の羊飼いが迷い出た羊を捜し続けました。
さて「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」という主のお言葉は、「当然捜しに行くでしょう?」という強い表現ですが、私たちからすれば残った九十九匹を守るために、失われた一匹はあきらめる方が自然かもしれません。しかし、主イエスがこのたとえによって語ろうとしておられることは何か、誰に語っておられるのかに心を向けて、大切なメッセージを読み取りたいと思います。このたとえの中心は、羊飼いと一匹との関係です。神はこの世に私しかいないかのように一対一で、一人ひとりと向き合ってくださるということです。残りの九十九匹がどうなるかはこの話の中心ではなく、そこにひっかかっていると語られている本質が見えなくなってしまうのです。それでも気になるという方にお伝えしたいのは、神は九十九匹の羊も失われた一匹と同じように愛し、守っていてくださるということです。このたとえが、ファリサイ派の人たちに語られたということを思い出してください。主はまさに彼らに心を向けて、この喜びに入っておいで!と招いてくださっているのです。
商売ならば99匹を守るでしょう。しかし愛の問題として考えた時には、100匹すべての羊がかけがえのない存在です。神は自分自身のように私たちを愛し、私たちの一人でも失うことを耐えがたい悲しみとされます。だから私たちがどんなに遠く離れても、とても助けられないような状況に陥っていても、忘れたりあきらめることなどできない。全存在をもって探し出してくださるのです。
徴税人や罪人たち、ファリサイ派や律法学者たちは対極にあるようですが、どちらも私たちを表しています。現れ方は違うけれども両者とも、神のもとから失われた羊なのです。そのような私たち一人ひとりを捜し出す愛が、神が御子をお与えくださったことに現わされています。御子の十字架と復活によって私たちの罪は赦され、本来生きるべき神の命の中に帰ることができたのです。あなたは神に、見つけ出されていますか。神はあなたを捜しておられます。それはあなたが我が子だからです。私たちが失われている時に、神は御自身が引き裂かれて痛むのです。子どもは他にも大勢いるから、などと思うわけがない。あなたは誰とも交換できない、たった一人の人です。御声が聞こえたなら、どうぞ救いを受け取ってください。
神は世界全体の救いを常に考えておられます。しかしそれは具体的な一人の救いから始まります。主に見つけ出された私たちは小さな羊飼いとなっていきますが、人間ですから、すべての人を同時に完全に愛し助けるということはできません。主のみあとに続き仕える時に、誰もがふがいなく思うところでしょう。互いにゆるし合いながら、AさんができないフォローはBさんが担うという形でできればと思います。すぐ隣にいる方がどんな助けを必要としているか聴こうとしないのに、どこかの大勢を助けることはできません。この方のためにどんな働きかけが必要だろうかと祈って小さなことを積み重ねていく時に、それは結果的に99人を大切にすることになります。
2.悔い改めは、まず神が捜してくださることから始まる。(8節)
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」(8節)
次のたとえは、十枚の銀貨を持っていた女性が一枚をなくしたというものです。ドラクメ銀貨というのは、1デナリオンと同じで一日の労賃にあたります。女性が銀貨を一生懸命探したのは、貧しい家庭にあって今日の命をつなぐためのものだっただけでなく、当時の習慣として、結婚の時に花婿か父親から受け取ったものだったからと考えられます。贈られた女性は銀貨十枚をひもでつないで身に着けます。それは結婚指輪と同様の象徴的価値があり、病気などの急な出費に備える意味もありました。1枚を失くすことには、金額以上の精神的損失がありました。当時のイスラエルの家は小さな明かり窓が一つあるだけでとても暗く、床には溝もあり干し草が敷いてあって、簡単には見つかりません。銀貨を無くしたこの女性は家を掃き、貴重な油を使ってともし火をつけ、目をこらして捜しました。そしてついに彼女の大切な銀貨を見つけたのです。
本日の二つのたとえ話のそれぞれの終わりのところにあるように、「罪人の悔い改め」がここでのキーワードです。悔い改めは、神から離れ、御心を悲しませてきた自己中心的な歩みを認めて、神のほうに向きなおることです。しかし今日の箇所を読むと、羊も銀貨も自分の力や意志で持ち主のもとに帰ったのではありません。羊はもし群れから迷い出てしまったら、羊飼いが捜しに来て見つけてくれなければ、死を待つほかないのです。銀貨ももちろん、自分でここにいると言ったり動いたりはできません。ここには私たちが悔い改めることができるための根拠、土台が語られているのです。悔い改めというのは私たちが神のもとに自分の力で帰るということではなくて、主が私たちを連れ戻してくださることです。まず神が私たちを愛してくださり、御子によって現されたその恵みによって、私たちは神のもとに帰るようになるのです(Ⅰヨハネ4:10)。
ルカ19章に出てくる徴税人の頭ザアカイは、やはり人々から嫌われていました。それでも求める気持ちがあって、彼は主イエスが来られると知るといちじく桑の木に登って見ようとしました。しかしザアカイが知るより前に主はザアカイを知っておられ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と呼びかけてくださいました。ザアカイが悔い改めたときに主は、「今日、救いがこの家に訪れた。…人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである」(19:10)と言われました。
私たちはそもそも自分が罪人であることに気づかず、それを認めようとしません。それが罪の中にあるということです。そして罪が示されたとしても、自分で克服する力はない。自分の心を根本から変えるなんて、人間にできることではないのです。罪人が自分から神のもとに行けば赦される、善い行いをしていたら救ってもらえる、神に認めてもらえる…それがファリサイ派や律法学者たちの信じ教えていたことでした。しかし悔い改めは、こんなに悪い私でも見つけ出してくださる神に、抱かれることです。
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り」(5~6節) 私たちは自分で神を選び信じたと思うかもしれませんが、実は神の熱心が私たちを探し求め見出してくださいました。そして天に行く時まで私たちは、この主のあたたかさを感じ抱かれて歩むのです。それが信仰、主と共に生きること、礼拝なのだと思います。「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:4)
3.神は御自身の喜びに、私たちを招かれる。(5~6節)
「友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(6節) 羊を見つけ出した人、無くした銀貨を見つけた女性の喜びはあまりにも大きかったので、一人で喜びを抑えていることができず人々を呼び集め、一緒に喜んでくださいと言います。羊飼いが一匹の羊を、女性が銀貨1枚をどんなに大切に思っているかを知っている友は、一緒になってこの出来事を喜ぶのです。
私たちが悔い改めてみもとに立ち帰ることを、こんなにも神が喜んでくださるのです。もともとの文では、「『私の』失われていた羊を見つけたから、『私と』一緒に喜んでください。」となっています。神がこんなに喜んでくださるのは、私たちが御自身のものだからなのです。小さく罪深い私たちを御自身のものと言って愛し、命を与え、何度神に背いても捜し出し御国に伴ってくださるとは、考えられない恵みです。そして神はご自身の喜びを、多くの人々と分かち合おうとなさいます。
ファリサイ派や律法学者たちは、神の民イスラエルのエリートとして「罪人」を規定し、罪人に分けられた人々は神の救いには与らない、神の国の食卓に着くことはないと考えていました。しかしそういう人々が主イエスの話を聞こうと近寄って来て、主は彼らを歓迎して食事まで一緒になさったのです。しかしファリサイ派の人々や律法学者たちはこの喜びの席に着こうとしませんでした。主イエスはもちろんファリサイ派の人々とも食事を共にしましたが、彼らの食卓には愛する兄弟としての、徴税人や罪人はいませんでした。そういう人々は、彼らの食卓にいるべきではないと考えていたからです。
私たちは、自分がかけがえのない存在として神に愛されていることは感謝しますが、自分にとって「いてほしくない人」をも神が自分と同じように見ていることは、我慢できないものです。父の愛は正しい者に向けられるのが当然だと思っているからです。しかし「この人はいない方がいい」と思う時、私たちは神の前に果たして正しい人間なのでしょうか。神が私と同じように救いに招いて下さっている人を、あの人は救いにふさわしくない、あの人と喜びを分ち合うことはいやだと言うならば、それは「一緒に喜んでください」という神の招きを拒むことになるのです。主イエスは彼らに「あなたたちは神の喜びをまだ知らない。神の喜びは、自分が救われれば他の人はどうでもよいというようなものではないのだよ。神は、あなたと一緒に喜びたいのだ。あなたも彼らの救いを一緒に喜ぼう。」そう招かれたのです。伝道の喜びはこの神の喜びにあずかることです。神と共に喜ぶ者とされている。それこそが、私たちが「神の子」であるという確かなしるしです。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(7節)
99匹は、自分たちは悔い改める必要がないと思っている人たち、ここではファリサイ派や律法学者たちを表しています。置いていかれても私たちは自力で、野でご主人様を待つことができる優秀な羊です。神の律法をたがわずに守ってきました…。彼らの自負を主はユーモアをもってこう表現されながら、彼らを見守っておられるのだと思います。
彼らにとっては徴税人や罪人が見失われた羊でした。律法に従わないでイスラエルという神の羊の群れから、自分勝手に迷い出た連中は放っておかれればいいと思っていました。しかし彼らの見えるところは神に近くありましたが、その御心からは遠くあったのです。彼らは神の愛と守りによって今の自分があることを忘れ、恵みを受け取らず、喜びのない信仰生活を送っていました。その様子は、今日の箇所の次に出てくる放蕩息子の兄に表されています。私たちは皆、神のもとから失われた罪人であり、捜し出される必要があるのです。
ただ羊飼いによって見出され、担がれた羊である私たち。暗い部屋の中で声を上げることもできず、主の御言葉の光に照らされて見つけ出された銀貨にすぎない私たちです。けれども神は私たちの存在そのものを、生きていてくれることを喜びとしてくださいます。御心を痛め、御子の命を与えるほどに私たちを愛してくださっているから、見つかった時の喜びを神はおさえることができません。そしてこの喜びは私たちを真に満たすもの、世が与えることのできない永遠の喜びです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ15:11)
「一緒に喜んでください!」神の喜びを受けた私たちは神と同じく、誰かと喜びを分かち合わないではいられません。神の命、喜びの食卓に、さらに多くの方と共にあずかりたいのです。一緒にこの喜びのためにお仕えしましょう。私たちが互いを喜び合う時、そこに神の国があるのです(ルカ17:21)。