「世の救い」8/22 隅野徹牧師

  8月22説教 ・聖霊降臨節第14主日礼拝
「世の救い」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書3:16~3:21


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山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいます。これまで2章の22節までを読み進めましたので、今週は3章16節から3章21節をまでを読みます。

今回の箇所の始まりは3章16節です。これは聖書の中で最も大切な言葉だと言われています。この節の言葉が、「聖書全体が伝えようとしていることをたった1節で要約している」と言っても過言ではないからです。

前任の香川教会では、保育園の運営に関わっていましたが、その保育園の多くの子がヨハネ3章16節を暗唱できていました。それは毎年のクリスマスページェントの最後、園児たち全員で、「神はその独り子をお与えになるほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というこの御言葉を声をそろえていうためです。きっと私たちが離れたあとも伝統として受け継がれていることでしょう。それだけ大切な聖書箇所なのです。

今朝は、3章16節だけでなく、この言葉の直後21節までで、併せて教えられる御言葉も共に深めたいと願います。

深める上で、鍵になる言葉を上げさせていただきます。それは「滅び・裁き」です。 

「ここは聖書で一番の箇所じゃないか!それなのになんで滅びや裁きがキーワードになるんだ!」と思われた方もあると思います。

確かに「神が独り子を与えるほどに愛して下さったことによって私たちは永遠の命を得る」別の言い方で「救いを得られる」ことが語られているわけですが、その救いは、「私たちが滅びないために与えられている」ということが教えられているのです。

永遠の命を得るのでなければ、私たちは滅びてしまう、本当は罪深い存在である。しかし!「独り子を与えて下さるほどの神の愛によって、滅びではなく、永遠の命を得ることができる」特別の恵みをいただいているのです。

このように今朝は「神の愛によって特別に与えられる救い、永遠の命」だけに目を留めるのではなく、対になって教えられる「罪がもたらす滅び、神の裁き」ということにもしっかりと目を留めながら読み進めて参りたいと願います。

まず今回の箇所がどんな流れで出てくるのかを確認します。先週の箇所を思いだしてください。3章1節からは、イスラエルの最高法院の議員だったニコデモが、「神の国」について教えを請おうとして、たった一人でイエス・キリストのもとを訪ねていった場面です。

目に見えるカタチで「神の国」を求めようとしていたニコデモに対し、イエスは「水と霊によって、新たに生まれることがなければ、神の国に入ることはできない!見ることもできない!」と教えられたのです。

分かりやすく言えば「神が送ってくださった救い主イエス・キリスト」が「自分の罪の身代わりとなって死んでくださったこと」を信じ、受け入れる者は、聖霊によって、新しく生きることができる、永遠の命を得ることが出来る!とイエスはニコデモに教えられたのでした。この話の続きとして、今回の箇所の16節が出るのです。

新共同訳聖書では、16節以下も括弧書きの中に入れられていて「ニコデモに対しイエスが語られた言葉」のようになっています。しかし、以前の口語訳や新改訳では、括弧は15節で終わっています。私もこちら取り方の方がよいだろうと感じます。

つまりどういうことかというと、ここは福音書記者の「ヨハネ自身がまとめた言葉である」ということです。イエスの弟子であったヨハネは、ニコデモに対する「愛の教え・招き」をすぐそばで聞いていました。とくに最後の14節15節で語られた「イエスご自身の十字架の死によって、イエスを救い主だと信じるすべての人が永遠の命を得る」という話が、実際に成就したのです。そして、少し経ったあと、ヨハネは感慨深く思いだし、そしてまとめたのだと私は考えます。

16節には大きく3つのことが教えられています。①つ目は「神が、罪深いこの世の人間一人ひとりを愛されていること」です。②つ目は「神はすべての人間を愛するがゆえに、その独り子をこの世に送られたこと」です。③つ目は「その独り子を自分を罪から救う救い主だと信じ、受け入れるならば、永遠の命が得られる」ということです。足す必要も引く必要もない、本当に福音の神髄を一言で表しているものです。

ただ!先ほども申しました通り、この言葉は「神は愛ゆえに、すべての人を無条件で救われる」とは教えていないことをしっかりと見つめなければならないと感じます。

罪から救われて永遠の命にあずかるためには、「絶対にあることを欠かしてはいけないこと」、そして「神・キリストによる救いがなければ、罪深い人間は滅びてしまうこと」ことが教えられます。17節以下では、「裁かれる人」と「救われる人」という対局的な表現が用いられて教えがなされます。

17節は最後に味わいますので、先に18,19節を読むことにします。

キリストによる救いがなければ私たちは神によって裁かれ、滅びるのだということが繰り返し語られているのです。それほど私たちは「罪深く、本当なら、神によって裁かれ、滅びるしかない者なのだ!」ということが示されるのです。

自分に罪の自覚がなくても、私たちは既に神に逆らい、神が与えて下さった隣人をも愛することができなくなっています。皆がそうなのであり、私たちは本当は神に裁かれ、滅ぼされるしかないのであります。

そんな私たちが罪からの救いにあずかるためになすべきことはただ一つです。「神の独り子をお与え下さったほどの愛を信じて受け入れ、神の独り子主イエスを救い主と信じることだけ」です。その救いにあずからなければ、私たちは、「神に背き逆らう罪の中に留まり続け、裁かれて滅びに至る道を歩み続けるほかない」ということが明確に教えられているのが18節、19節なのです。

18節に「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」とあるのは、神が御子イエス・キリストを世に与えて下さったことによって、裁かれない者と裁かれる者とが分けられているという意味なのです。19節の「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」というのも同じことを語っています。

つまり!神によって、救いがはっきりと与えられる一方で、その救いを受けることができない者の滅びも明確になるのです。聖書は「終りの日の神による裁き」を教えていますが、しかしここでは、神の裁きは「独り子イエス・キリストを世にお与えになったことによって既に始まっている」ということをはっきりと教えているのです。決定的な救いの始まりは、同時に「神による裁きの始まりだ」ということを覚えましょう。

神が独り子をお与えになったほどに世を愛して下さった、その救いのみ業は、決定的な救いのみ業であるがゆえに、同時に裁きでもあるのです!

この救いの業を受け入れ、主イエスを信じて罪を赦され永遠の命に至る救いの道を歩むのか、それともそれを拒み、罪による滅びへの道を歩み続けるのかが、私たちに問われているのです!救い主イエス・キリストにおいて私たちは二つに分けられていくのです。

イエスとの出会いによって分けられる「全く別の二つの道」のことは20、21節に出ます。

20節の「悪を行う者」というのは、何か大きな罪を犯すことではなくて、光として世に来られたイエスを信じることなく、この世を覆っている闇の中に留まっているということです。

続く言葉には「光であるイエスを憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れる」とあります。それは隠していた罪が暴かれるという意味よりも、自分が神に背き逆らっている罪人であることが、イエスの光に照らされることによってこそ明らかになる!という意味です。もし罪を明らかにされることを恐れて、光である主イエスのもとに来ないならば、救いにあずかることもできない、それが「悪を行う者の歩みだ!」と教えられます。

 その反対の歩みは21節に出ます。これは「立派な善いことをして生きる歩み」ではなくて、「光の方に来る歩み」です。つまり「独り子をも与えて下さる神の愛を信じ受け入れて、その救いの恵みによって生かされていく」歩みです。

 このように私たちすべての人間には「救い主イエスを信じて歩む道」と、「御子のもとに来ることなく、その救いを拒んで歩む道」とが開かれている。つまり「神の裁きに直面している」のです。

でも!!それは神が私たちを裁いて滅ぼそうとしておられるということではありません。最後にそれが「はっきり表れている」17節を味わいます。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです。私たちを愛し、私たちが一人も滅びることなく救われて永遠の命を得る!そのことを願って、神は御子を遣わして下さったのです!!            

元々私たちは、罪による滅びへの道を歩んでいました。しかし!神は私たちへの心からの愛によって、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、その十字架の死と復活による救いを既に実現して下さっているのです。そのことを改めて心に留めましょう。

 その上で「救いの道は既に開かれている」「この道を選ぼう!進もう!」と多くの人に伝えていこうではありませんか!

救われる条件は「立派な善い行いをする人になる」ことではありません。「自分は教会に行くような高尚な人間ではない」と思っている周りの人々が実に多いですが、そんな人々に対し神の愛の招きに応答しよう!御子を信じる者となって永遠の命に至る救いにあずかろう! そのように証ししてまいりましょう。

(祈り・沈黙)

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