「互いに足を洗い合わなければならない」3/6隅野徹牧師

  月6日 受難節第1主日礼拝・聖餐式
「互いに足を洗い合わなければならない」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書13:1~17


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 先週の水曜日から、教会の暦では1年の中でも特に「イエス・キリストの十字架で負ってくださった苦しみを覚える期間」である、受難節に入りました。今年は受難節の間、ここのところ続けて読んでいます「ヨハネによる福音書」の「十字架につながる場所から」語ることにします。

 今週から3回に分けて13章を読みます。抜かした箇所はイースター以後に改めて読むことにします。 今回の箇所は、イエスが弟子たちの足を洗われる有名な箇所です。戦乱の今の世にあって、本当に大切なメッセージが示される箇所です。早速読んでまいりましょう。

 まず簡単にこの箇所のあらすじをお話しします。

過越の祭りの前日、つまり木曜日の夕方、イエスと弟子たちはエルサレムの二階座敷で「過越の食事」に着きました。ヨハネによる福音書には食事の様子、とくに他の福音書が記している「聖餐の制定」の様子が出てきていません。4節にあるのですが、食事が終わったあと、イエスは、「おもむろに!」席から立ち上がり、5節、弟子たちの足を洗い始めたと記されています。

当時、人々は素足にサンダルを履いて外出していましたから、足はいつもほこりで汚れていました。そうして汚れた人の足を洗うのは、奴隷の仕事でした。

それなのに!イエス・キリストは、弟子たちの足を洗い始めたのです。

8節でシモン・ペトロは「わたしの足を決して洗わないで下さい」と願いましたが、イエスは12人全員の足を洗われたのです。その中には、この後でイエスを裏切るイスカリオテのユダも含まれていました。

この後、再び席につかれたイエスは弟子たちに語られるのです。その教えの中心は14節と15節です。「主であり、教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだ、あなたがたも、互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、模範を示したのである」

このようにイエス・キリストは、身をもって弟子たちに、「互いに足を洗い合う」よう、手本を示され、今日の最後の17節で「そのことを実行することの幸い」が語られますます。 以上が今日の箇所のあらすじです。 続きは来週以降見ます。

 さてこの箇所には大切なことが沢山詰まっていますが、その中でも2つのことだけ大切なポイントを語らせていただきます。(ユダの裏切りに関しては、来週詳しく掘り下げようと思っています)

1つ目のポイント、それは「イエスの足を洗う行為は、十字架の死が何であるのかを弟子たちに教える象徴行為である」ということです。

  この出来事のすぐ後、イエス・キリストは何も罪を犯されていないのに捕えられ、でっち上げの裁判で裁かれ、そして十字架にかけられて殺されたのです。それは「罪ある人間の身代わりに死なれたことの表れ」ですが、弟子たちはパニックや恐怖心から「イエスが十字架で死なれた意味」をすぐには理解できなかったでしょう。そんな弟子たちのために、イエスは「十字架の死にどんな意味があるのか」死の直前、この洗足の行為を通して教えられたのです。

7節にはイエスのこんな言葉が記されています。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」

 神の子が僕となって、低い者となって足を洗われたことを思い出すことによって「神の子であるお方が、罪ある一人ひとりを愛して、十字架で死なれることによって罪から解放してくださったのだ」ということが分かったのだと、私は思います。「低い者となって徹底的に愛する、そのことによって、人々の罪を取り除く」それが、神の独り子が「弟子たちの足を洗われ」そして「十字架にかかって死なれたこと」によって表されたのです。

このように、イエス・キリストの愛を、十字架につけられる前の夜、予め表されたのが「この足を洗うという行為」だったのです。8節後半の「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」というイエスの言葉は「イエスによって罪を洗い清められなければ、つまり十字架の贖いを受けなければ、あなた方は神の国を継ぐことができない」というようなことが示されているのであります。

イエスは、人間の足が土ぼこりで汚れているように、人間の心もさまざまな罪で汚れている。だから、足を洗うように、心の汚れである罪も洗い落とさなければならない。そして、その「心の中の汚れである罪は、キリストによって洗い落されるのだ」ということを教えられているのです。

このように「人の罪は、イエス・キリストによってのみ取り除くことができる」ということは皆さんご存じだと思います。しかし大切なのは、「イエス・キリストが苦行や鍛錬を課して、それに耐えることによって、罪汚れが取り除かれる」のではないということです。いわゆる「みそぎ」とは全く違っていることがこの出来事に示されているのです。     

この「洗足」には十字架の赦しが予め表されていると言いましたが、ここにあるのは、「遜って、相手に仕える愛」だけです。そうです!愛によって人の心にある汚れを取りのぞく…それが「十字架の業」なのです。

人間の心の汚れは、「一種のペナルティーを科せられたり」「賠償金をはらったり」する、そういうことによっては取り除かれません。今、世界で起こっていることもそうだと思います。重い制裁を課して反省を促しても、それで平和は訪れません。いずれそれは「復讐心」となって湧きあがるのではないでしょうか?

人の罪は赦されることによって、また愛されることによってしか、取り除かれないのです。しかし、イエス・キリストは、私たち人間を「十字架で命をささげるほど愛してくださった」のです!そのことではじめて私たちの罪・汚れは赦されるのだ、ということを覚えていましょう。      

残りの時間で短く、今回の箇所の教えの2つ目のポイントについてお話します。それは「イエスを信じ、受け入れた者が、この先も赦し、受け入れ合って生きていくことの大切さ」です。

このことが表れている12節から17節を再び読みます。(※よむ)

この中での教えの中心は14節です。「あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」というものですが…皆さん、「互いに足を洗い合う」とはどういうことか分かるでしょうか?

誤解しやすいのですが、ここでイエスが教えられる「足を洗い合うこと」とは「悪いところを指摘し合うこと」ではないのです。相手に対して「あなたのここが悪いから、それを私が注意します」というのは「裁き合うこと」につながるのです。

コロナ後に「自粛警察」という言葉が流行りましたが、あのように、「自分が他人の間違いを正そう」とする行為は、正義を振りかざすことであって、罪をきれいにするどころか、かえって「憎しみの連鎖を生んでしまう」ものです。

足を洗い合うとはその真反対です。イエス・キリストがなさったように、「相手の一番汚い、心を受け入れ合い、愛し合うこと」なのです。「犠牲をともなう愛」とも言えるかもしれません。

イエスは「弟子たちの足を洗われ」そして「十字架にかかって死なれること」によって「低い者となって徹底的に愛する、そのことによって、人々の罪を取り除く」ことを表されましたが、その恵みを受けるだけで終えるのではなく、今度は自分も「相手に対して低い者となり、相手を愛する者になるように」教えられたのです。

もちろん私たち自身は、罪深いものですから、相手の罪汚れをきれいにできないばかりか、自分の心の内側の罪も自分では取り除くことはできません。しかし、悔い改めつつ、相手を受け入れよう、愛そうとするところに、神の力、聖霊の力は働くのだと信じます。

圧倒的な武力の前に、無力感を感じるかもしれない今だからこそ、私たちは「弟子の足を洗われ」「ご自身が十字架で死なれることの意味を教えられた」イエス・キリストのお姿を思い返しましょう。 そして!「あなたたちも同じようにしなさい」「このことが分かり、その通りに実行するなら、幸いである」と言われたイエス・キリストの言葉を忘れないで歩んでまいりましょう。

自己愛ではなく、「他者を、痛みをもって愛する生き方」へと招くためにイエス・キリストは苦しみを負って下さったことを今、深く心に留めましょう。(沈黙・黙祷)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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