3月29説教 ・受難節第5主日礼拝
「善い業を行う私達になるために」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:エフェソの信徒への手紙2:8~10
教会の暦で受難節に入ってから、私は示されて「エフェソの信徒への手紙2章から」何回かいに分けて語らせていただいています。それはイエス・キリストの十字架の苦しみ、その苦しみを通して私たちに何をなして下さったかが熱く語られているからです。早速御言葉を味わいましょう。
エフェソ2章から語るのは3週ぶりになるので、少しおさらいをします。
1~3節を簡単に目で追って見て下さい。
ここでは、3節の最後にある通り「人間は皆、生まれながら神の怒りを受けるべき者だ」ということが語られています。その理由は2節にある通り「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち不従順な者たちの内に今も働く霊、つまりサタンに従い、過ちと罪を犯して歩んでいる」という理由です。
しかし、この状態は変えられることが可能だと教えられます。霊的に死んでいるような私たちも「生きる者として変えられる」ことができる、それが4節以降に書かれています。
まず4節を目で追って見て下さい。
この節では、罪の中に死んでいた私たちに対し、それでも神がどんなことを為してくださったのかが表されています。「憐み深くあられる」ことと「この上なく愛してくださる」ことがはっきりと示されます。
私たち人間は「罪まみれで、神から怒りを受けるべき者」ですが、神は「罪に対して怒る」というまさにその理由をもって、同時に「私たちを憐れんでくださる」「愛してくださる」のです。まさに「無価値なものをそれでも無条件で愛するアガペーの愛」なのです。
つづいて5節6節を目で追って見て下さい。
「キリストによる一方的な恵みによる救い」が「キリストと共に生かす」ということばで表現されているのです。十字架に架かり、すべての人間の罪の身代わりとなって死なれたキリストが、死の力を打ち破って復活してくださった…その新しい命に私たちも与れるというのです。
さらに6節では驚くべき恵みが語られます。キリストを信じることによって恵みを得たものが「ただ生かされる」というところで留まるのではなくて、天の王座に着かせてくださるのだという希望がはっきりと示されているのです。
ただ罪赦されてそれで終わりではなく、天で王座に着かせていただける、神と生きた交わりを持たせていただけるとは何と幸いでしょうか? 朽ちることのない「本物の希望」がここにあるのです。
そして7節、「私たちに示されたこの恵み、いつくしみを神はこの先、全世界に示そうとなさっている」ということを確認しました。
本日はこの続きの8~10節を深く掘り下げます。
まず注目するのは10節です。10節をお読みします。
実は私は、この言葉の解釈を巡って「悶々とした思い」を抱えてきました。どういうことかお分かちします。
最初にこの言葉を知った大学生の頃は好きな聖書の言葉の一つでした。
私たち一人ひとりは神によって創造された「神の作品である」ことを受け入れました。そして神は私たちの心に「良心」を備えてお造りくださったことも理解しました。当時は「善い行いが神さまによって私の中に備えられているなあ」と思ったものです。
しかし…クリスチャン生活が長くなると、「私は素晴らしいものとして造られている」という思いより、「自分はどうしてこんなに罪深いのか」というジレンマの方が強くなり始めたのでした。そして「義なる神に創造され、しかも良心も備えて創造された私」がどうしてこうも罪まみれなのか。クリスチャンになってもまるで善い行いができていないではないか…ということを思いはじめ、自分で自分が良く分からなくなったのでした。
「私は神の作品である。全知全能の神が私を最善に作って下さった…善いものもたくさん備わっている…それも分かる。しかし実状善い業を行えていない罪深い自分がいる。この箇所が言っていることは本当なのだろうか…」と聖書の言葉を疑う…ということまでしました。
さらに…8節、9節にある内容と、この10節の言葉が矛盾しているように感じ始めました。「救いの恵みは、ただ神からの一方的な恵みであると8節でいっている。罪深い自分が、神から一方的に愛の故に赦される。私たちが何かよい行いをしたから救われるのではないのだ」しかし「それなのに10節で私たちがよい行いに歩むように、その愛を予め備えて下さる」とあるのは一体どういうことだろうか…と迷い道に入るようでした。 皆さんはどう思われるでしょうか?私の言っていることがお分かりでしょうか?
そんな風に、この箇所を巡って悶々としていた私ですが、その後あることに気づかされました。 それは、「私たちが造られた」というのは、単にこの世に誕生したということ以上のことを言っているということです。
10節の中頃の「しかも…」から先をご覧ください。こうあります。
「しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」 お気づきになったでしょうか。ここでは私たちを造られたのが神だけでなく「キリスト・イエス」だと強調しているのです。
これはキリストの十字架の贖いによる「新しい命の創造」「第二の命の誕生」のことが言われているのです。そのことを踏まえて10節全体を読むならば次のようになります。
キリストが十字架で死んで、私たちの罪を贖い、その後復活され、私たちに永遠の命をお与えになるのは、私達が善い業を行う者になるためなのだ。そのために新しい命は与えられる。そして「善い行いも、併せて与えられるのだ」ということなのです。
キリストによって救われることによって「善い行いが備えられる」とはどういうことか…それを分かりやすく説明するために結婚のたとえがよく用いられます。
あるところに「ふしだらなことを繰り返し、お金を浪費しまくり、放蕩生活をしている人」がいるとします。その人が、ある日素晴らしい結婚相手と出会ったとしましょう。これまで放蕩生活をしてきたことを相手はすべて許し、受け入れて、愛してくれて結婚するというとき…それでも今まで通り「放蕩の限りをつくす」ということがあるでしょうか?
普通なら、受け入れてもらったことに感謝するでしょう。自分が本当なら愛されに値しないのに、それでも受け入れてもらったことに感謝し「愛されるに価する者にすこしでもなっていこう」と思うはずです。自分中心に振舞っていたのが相手を思うようになり、謙遜になっていくものでしょう。
そう考えれば「放蕩者にとっての結婚」は、よい業・善い行いをもたらすものだ、ということができます。
同じことが、罪深い私たちとキリストの関係にあてはめられます。
私達がキリストを自分の救い主として信じ受け入れたしるしとして受けるものが「洗礼」ですが、その洗礼はよく「私たちと、イエス・キリストとの結婚式だ」という譬え方をします。
その時から始まる新生活においても「相手に負債を負わせっぱなし」では正しい関係とはいえません。私は神に対しても、パートナーに対しても「相変らず多くの負債を負わせ続けているな」と気づかされました。悔い改めます。
全生涯をかけて「相手が与えてくれる愛に応えようと努力する」ことがないのだとすれば、それは正しい関係ではありません。もちろん善い行いが救いを獲得するものではありません。それは8節、9節ではっきりと示されている通りです。
だけれども、「救われたこと」が「善い行いを何も生みださない」とするならば、何かが間違っているのです。 繰り返しになりますが、私たちはキリストによって救われ「特別に契約を結んでいただいた者」です。罪を贖われ、永遠の命を与えていただきました。その恵みに生きること、感謝することで、私達が善い業を行う者になる…本当の意味で生きる者になるためなのです。
祈りが聞かれず、すぐ信仰を疑ったり、人にイライラしたり…善い業を行えているとはとても思えない、私たちですが、キリストが十字架で死なれたことによって「私たちをどうしようとされているか、どうなることを望んでおられるか」を心に刻んで歩んでまいりましょう。
(時間があれば、ローマ6:4~11を読みましょう)