「国籍は天にあり」11/5 隅野徹牧師

  11月5日 聖霊降臨節第24主日礼拝・召天者記念礼拝
「国籍は天にあり」隅野徹牧師
聖書:フィリピの信徒への手紙 3:17~21

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今日は一年に一度の「召天者記念礼拝」です。コロナ禍であったここ3年の礼拝は少人数で持たざるを得ませんでしたが、今年は多くの方と再び「召天者記念礼拝」が持てますことを心から感謝いたします。

「礼拝メッセージ」は、祈りのうちに示されて、フィリピの信徒への手紙3章17節からの部分を選びメッセージを語ることにしました。この部分は少し前の「敬老祝福礼拝」でお語りした続きの箇所です。

フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが「ローマの獄中で」書いたものです。

新約聖書にはパウロが書いた「手紙」が聖書本文になっているものがいくつもありますが、その中でも「フィリピの信徒への手紙」は「一番人情味があふれたものだ」と評されています。今回取り上げる3章は、パウロが「愛をもって接している、フィリピの信徒たち」が、間違った考え方に染まらないようにと、「諭すように」教えている部分なのです。

 それが垣間見えるのが18節と、19節です。(※聖書をご覧いただけるでしょうか)

 ぎょっとされた方もあるでしょう。「十字架に敵対している人が多い」とか「それが行きつくところは滅びだ」などという言葉がでます。詳しく掘り下げることはしませんが、ここでパウロが言っているのは、「教会に属しながら、高慢に自分を誇り、世の価値観を教会の中に持ち込み、教会を混乱させている人たち」のようです。 十字架の恵みを知っていながら、その恵みを忘れ、捨て去ろうとしているその生き方に対して、パウロは涙ながらにその間違いを訴えているのです。

 その後の20節と21節で、「キリストを知って受け入れた者の歩みが、本当はどんな希望に満ちたものであるのか」を熱い言葉で訴えるのです。

 それは「世の中一般の、希望」とはまるで違っているものだ、ということが、この箇所を通して教えられます。

 今回のメッセージでは「この20節、21節」にしぼってお話しさせていただきます。皆様にとって「希望のメッセージ」が、神ご自身によって語られることを願います。     

 20節をお読みします。

パウロはフィリピ教会の人々に、「わたしたちの本国は天にあります」。

これは、以前使われていた口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」と訳されていました。私はこの「国籍は天にある」という言葉の方が好きですので、今日の説教題にもこの言葉を付けさせていただきました。

キリストの十字架と復活を信じ、キリストと結ばれた者たちは、世ではなく、天に属している者なのだ、というのです。フィリピ教会の中では「世の価値観を教会の中に持ち込み、教会を混乱させている人たちがいて」自分のことや、自分の持っているものを誇るということが起こっていたのです。   1

そんな中で「わたしたちの国籍は天にある」というパウロの言葉は大変なインパクトがあったのではないでしょうか。

この言葉によって「混乱のなかにあったフィリピ教会の信徒たちの目を天に向けさせ、地上の目に見える現実がわたしたちを支配しているのではなく、見えない神の恵みの現実が、わたしたちの人生を導いているのだ」ということを教えたのです。      

 20節のその次の文には「わたしたちの本国である、天からキリストが救い主として来られるのを待っている」ということが語られます。

 これをみて「おや?」と思われた方があるかもしれません。 それは「パウロがこの手紙を書いたときは、すでにキリストは人間としてこの世に来られた後だから」です。

 ご存じの方もおられると思いますが、聖書ではイエス・キリストについて次のように教えています。

イエス・キリストは神であられたのに、わたしたち人間を罪から救い出すために、まず「人間のあかちゃん」となってこの世に来てくださいました。その後、罪深いわたしたちと同じ人間として生きて下さり、私たちの弱さや罪深さの現実を「共に生きて下さった」のです。

その後私たちの罪の身代わりとなるために十字架に架かって死なれましたが、天の父なる神によって復活させられ、天にあげられました。ですから、キリストは今、天にて生きておられるのです。

そのキリストが「再び天から来られる」ということを聖書は教えています。

今回の聖書箇所のフィリピ3章20節では、パウロが「キリストが天から救い主として来られるのを待っています」と言っています。

この言葉は誤解されやすいのですが、何か「空から宇宙人が降りて来るのを目撃しようとして待ち続ける」という意味ではありません。そうではなくて、大切なことは「神の子であり、救い主であるキリストと相まみえることを、希望として持ち続ける」ということです。

この地上の歩みの途中で「天から降って来られるキリストを目撃することを楽しみに待つ」というよりも、むしろ「この世での歩みを終えた後、天においてキリストと相まみえること」を待ち望むことの大切さが語られている、と理解します。

つまり、「地上において、天から降ってこられるキリストを待つ」というのは、「地上において、苦しみや悲しみや困難がある私たちの人生が、死んでただ終わりと捉えるのではなく、キリストが切り開いてくださった「復活の命」に自分もあずかることができる、と信じて「待つ」ことと同じなのです。

この地上の生活において、わたしたちを苦しめるもののうち、最大のものが「死」ではないでしょうか。しかし「死」にも勝利され、復活されたキリストを信じ、受け入れるなら「私たちの魂の国籍・本籍」はすでに天に移されているので、いつの日か「天におられる救い主キリスト」と相まみえることができるのです。

さて残りの時間、もう一つの節21節に注目しましょう。(※よんでみます)

この節では、とくに「栄光の体」ということが教えられているのです。   

先ほどお話しした「わたしたちそれぞれが、キリストに相まみえるその日、わたしたちもキリストと同じ、復活の体が与えられるのだ!」という希望の約束が語られているのです。聖書は「キリストの、万物を支配下に置くことができる力によって、わたしたちの卑しい体は、キリストの栄光あるからだと同じ形に変えてくださるのです」と言います。

イエス・キリストは神の御子でありながら、卑しい人間を罪から救いだすのために、人間の弱い肉体をまとってこの地上を歩まれました。

わたしたちと同じ肉の体を持たれたことによって、苦しみ、悩み、悲しみも味わいながらキリストはこの世を生きて下さったのです。

このお方が、わたしたちの罪を担い、苦しみながら十字架で死なれましたが、この方を神が復活させて下さったのです。そのことによって、わたしたちも「キリストと同じ復活の命、汚れの一切ない天で生きることのできる栄光の体」になることができるようになったのです。

つまり、わたしたちも、キリストに結ばれて、永遠の命にあずかり、復活してキリストの栄光の体に変えられる…そのような約束が与えられていることをフィリピ書3章21節は力強く教えているのです。

この21節の内容と、先ほどみた20節の「私たちの国籍は天にあるのだ」という教えを合わせてよむとき、さらに大切なことが見えてきます。

「わたしたちの国籍は天にある」ということと「わたしたちの卑しい体は、キリストによって、キリストと同じ栄光の体に変えられる」という希望を通して「わたしたちには、この地上の目に見える現実を超えた未来」がある、というメッセージが受け取れるのではないでしょうか。

わたしたちは地上の歩みを終えて、肉体が朽ちて、無に帰すのではなくて「国籍がある天に帰る」そして「神の栄光のみもとに受け入れられ、キリストと相まみえることができる」のです。

目の前に写真がならべられたお一人お一人も、この地上での歩みを終えたあと、キリストによって復活にあずかり、栄光の体に変えられ、天にてキリストと合い見えておられます。 わたしたちも救い主キリストを信じ、希望をかけるなら、同じようにキリストによって復活にあずかり、栄光の体に変えられ、天にてキリストと合い見える時が来る。そして先に天に旅立った「キリストと結ばれた兄弟姉妹たちとも、相まみえることができる」というのが、聖書の教える希望なのです。

今年の召天者記念礼拝は「国籍は天にあり」という題で、この言葉がでてくるフィリピ書からメッセージを語らせていただきました。   3

山口信愛教会が「召天者」として覚えて記念している方々は、この地上をいきておられる間にキリストに出会われ、救い主として信じ受けいれられたことで「天の国籍」を得られました。

どの方も、地上を歩む間は、体の弱さだけでなく、心の弱さ、つまり「罪」に悩みながらの歩みだったことでしょう。しかし、キリストご自身が共にいて支えて下さり「神の国の国籍をもった、神の民として」この地上をそれぞれお精一杯歩まれました。そして今はキリストによって栄光の体に変えられ、「本国である天にて」キリストと相まみえ、憩うておられるのです。

いま地上で生きている私たちも「キリストを受け入れるなら」、この地上にいながら、天の国籍を持つことができ、今この時も、神の国に属する者として希望をもって歩むことができるのです。

 パウロが今日の箇所で語っている「天からイエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っている」その希望を多くの人が持つことができるように、期待しつつ祈ります。  (祈り・沈黙)