「世界のゆくえを握っている方」12/27隅野徹牧師

  12月27日説教 ・降誕節第2主日礼拝
「世界のゆくえを握っている方」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネの黙示録5:1~14

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今日は2020年最後の主日礼拝です。みなさんにとって一番印象に残っている場面はどんな場面でしょうか?

 私にとって最も印象に残る場面は、感染拡大によって礼拝を閉じなければならなくなった4月26日の礼拝です。礼拝後、再開を信じて涙を流しながら祈った、あの時…多分一生忘れることはないと思います。

 オンライン礼拝にし、説教原稿を事前送付するということが祈りで示されてはいたものの「この先一体どうなってしまうのか…」そんな不安と悲しさに苛まれていました。そんな私が立ち直るきっかけとなったのが、今日の聖書箇所の御言葉です。

 年の最後と最初は、とくに「私たちに与えられた時間、日々」ということに思いを深める時だと思います。ですので、今週と来週の「新年1回目の主日礼拝」は同じヨハネの黙示録から味わおうと思っています。とくに今週は前半の7節までに注目します。

 私達に与えられる時間や日々について、またそれを導くお方について、聖書から味わいたいと願います。

 今週、来週のメッセージで引用する「ヨハネの黙示録」ですが、礼拝を一旦閉じたごろから水曜日の祈祷会で続けて学んでいます。この書は「聖書の一番最後の書」であります。最初の創世記に「この世のはじまり」が描かれて、この最後の黙示録には「終わり」が描かれています。

 少しだけこの「ヨハネの黙示録の説明」をさせてください。

「終わりについての記述」があることで、例えばSF映画などで描写されるために、誤解されることが多いですが、書かれた時代背景などをよく理解し、また表現の多くが旧約聖書の預言書に出てくるものを引用していることなどを理解して読めば、恵みをたくさん得られる箇所です。

 この書は、1世紀末にあった「激しいキリスト教迫害」の中で、神がクリスチャン達を励まそうと、「ヨハネに天の幻をみせた」ものが文字として記されています。また暗号のような「当事者同士でしかわからない」ような表現がなされており、理解が大変難しい書簡です。しかし、この地上で目に見えるものを超えて、「天に表れる希望」が見て取れるのです。

 3章までは「序論」のような話が続き、4章から本論が記されます。その4章では、ヨハネが「天に導かれて、天の上での礼拝の様子」を幻で見せられた描写が記されます。

 その「天の上での礼拝」は「玉座、いわゆる天の中心に永遠に変わることのないものとしておられる主なる神に対してなされる礼拝」が静的に描写されているのに対して、5章は動的に描かれています。

 それは玉座におられる神の懐に「巻物があり、それが開かれようとしている」という動き、その後「小羊イエス・キリスト」が登場すること、そして今日は触れませんが、9節以降で「天の大合唱」が行われるからです。

 それではヨハネが霊に満たされて、天上の礼拝を見始めた場面の、「静的」から「動的」に変わる5章1~7節の御言葉を掘り下げてまいりましょう。

 まず1節を読みます。

 ヨハネは幻の中で「神の右の手に巻物がある」ことに気づきます。この巻物には何がかかれているのか…それは少し後の段階で分かるのですが、「神の手にあって、やがて起こること」が記されているのです。これから、世の終わりの時まで、世界はどんな風になるのか、それが書かれた巻物は7つの封印で厳重に封じられていたのです。

 7というのは完全数で、神の他誰も分からないということを表す一方で、記された内容が「世界中に及ぶこと、世の終わりにまで及ぶこと」であることが暗示されるのです。

 つづいて2節3節です(※よんでみます)

 一人の力強い天使が「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしいものが誰かいないか」と大声で叫ぶのです。しかし地上にいないばかりか、天の上でさえも、この巻物を開いて、見ることができる者がいなかった」のです。

 これは幻ですから、「固くて開けられない」とか「文字が読めない」とかそういうことではなく、もっと超越した次元で「だれにもできない」ということが表されているのです。

 それで4節、ヨハネは激しく泣いたというのです。 なぜ激しく泣いたのか、このヨハネの思いをとくに注目したいと願います。

 ヨハネはただ泣いたのではないのです。号泣したのです。なぜなのでしょうか?

 それは、この巻物が開かれない限り「この先、神の御手の中にある世界はどうなっていくのか?同じように神の御手の中にある歴史がどう変わっていくのか?」それが分からないからです。

 冒頭、このヨハネの黙示録は、ローマ皇帝による激しい迫害の状況の中で書かれたとお話ししました。ヨハネ黙示録全体から垣間見えるのですが、皇帝を神として拝むことを強要され、拒むと命を奪われたり、生活物資を止められたり…当時のクリスチャンは本当に悲惨な状況にありました。

 そんな中で幻の中で天の情景を見せられていたヨハネは「今クリスチャンの仲間たちが受けている不当な苦しみが、この後どうなっていくのか」それを見せてもらうことを本当に期待していたのだと思います。いや、地上での歩みが本当に苦しい状況の中、「神だけがご存知の歴史の行方」を知ることだけが一縷の望みだった…。だからそれを開ける者がいないと分かったとき、激しく泣いたのでしょう。

 自分たちはこの先一体どうなってしまうのか…さっぱりわからない…緊張状態の中で何とか耐えていた心が、何かの拍子で折れるようなことが起こってしまうと、どうしょうもなく泣けるものです。 私は人生の中で何度かそれを経験しましたが、今年2020年にそれを味わいました。そして泣きました。

 その出来事とは、冒頭にお話しした「感染拡大によって礼拝を閉じなければならなくなった4月26日の礼拝後泣いたこと」です。

 新型コロナウイルス感染拡大によって、世界はどうなってしまうのだろうか?未来あるこどもたちはどうなってしまうのだろうか?教会につながる人々はどうなってしまうのだろうか?

 教会の礼拝を閉じてしまって、本当に再開できるのだろうか?これから教会はきちんと運営できるのだろうか… 様々な思いが、最後の礼拝が終わり、祈りを合わせている中で、どうしようもない不安と悲しみに襲われたのです。

 その少し後、まさにヨハネの気持と重なったことに気づいたその時、でも!5~8節が失意の中にあった私に響いてきたのです。

 その5節~8節を最後に味わいましょう。

 まず5節を読みます。

 天の上にいる長老の一人が言います。「泣かないで良い。神が封印しておられる歴史の行方が記された書を開き、解き明かして下さる方があるのだから」 

 このお方が神の独り子であり、クリスマスに「人間の姿となって」この世に来てくださったイエス・キリストに他なりません。

 5節の長老の言葉はイエス・キリストを二つの言葉で表現していますが、いずれも旧約聖書の表現を引用したものなのです。ユダ族の獅子の方は創世記49:9、ダビデのひこばえはイザヤ11:1と10です。 神の民イスラエルのシンボルである「ダビデ王の子孫として生まれた方」であり、ダビデがそうであるようにイスラエル12部族の中では「ユダ族出身」であるお方は、野獣の王のような威力をお持ちのイエス・キリストが表現されています。

 一方で次の6節をご覧ください、この方は「弱々しく小羊」として登場されるのです。

 七つの角と七つの目を持っているお方ですから、全知全能で世界中を、そして全歴史を見通せる、「小羊」なのですが、この小羊には「屠られた傷跡」つまり「生け贄として血を流された跡」があるというのです。

 全知全能のお方が、地上に降り、そしてすべての人間の罪を贖うために「完全な犠牲」をささげてくださいました。そのお方は、天に昇られてからも「傷跡のある者」としていて下さることがここで示されているのです。

 天に帰られた主イエスは、栄光に輝き、力に満ちた「審判主」として座しておられることは間違いないのですが、決してそれだけではないのです。天に行かれてもなお、「罪深い私達一人ひとりを愛されているお方」であり、「ご自身の痛みをもって、私達を悔い改めに導こうとしておられるお方」であるお方であるのです。 この方が、私達の毎日を、そして未来を導いて下さるのです。

 そのことが最後の7節にしっかりと表されています。

 小羊イエス・キリストが進み出て「神が封印しておられる歴史の行方が記された巻物」を受け取られたのです。これは、「小さく弱い小羊、しかもただの生け贄に過ぎないと思われた気イエス・キリストこそが、歴史を導き、そして世界の救いを完成される救い主である」ことを示した、象徴的な光景なのです。

 繰り返しになりますが、今私たちは、この先が一体どうなるか分からない中で年越しを迎えようとしています。しかし!人間の目には先が見えなくとも、世界の行く手は「ご自身の痛みをもって、愛のうちに私達を悔い改めに導こうとしておられるお方」に委ねられているということを聖書は教えるのです。

 ご自身の命さえささげて下さる愛のお方イエス・キリスト。この方にのみ希望を置いて、この先も歩んでまいりましょう。(祈り・黙想)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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