6月13日説教 ・聖霊降臨節第4主日礼拝・「花の日・子どもの日合同礼拝」
「幼子の心でイエスのもとへ」
隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書11:25~30
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まず、いつものこどもメッセージのように、今日の聖書箇所のうち、一番大切な聖書の言葉をみんなで声をそろえてよんでみましょう。 28節です。
これは教会の入り口の看板に書かれることも多い、有名な聖書の言葉です。
ちょっと言葉の内容に注目しましょう。「疲れた人、重荷を負っている人」とあります。
これは、生きていくのに疲れた人、とか、「大変重い荷物を負わされているようにして生きている」と感じる人のことです。 そんな人は「私のもとにいらっしゃい!」とイエス様は仰っているのです。
Q こどもの皆さんに質問です。みんなは生きていることに疲れていますか?そして背負いきれないほどの大きなものを負うようにして生きている…と感じますか?
実は、この聖書の言葉の時代、つまりイエス様の時代は、こどもが!「背負いきれない大きな荷物を負わされたような感覚で、生きることに疲れる…ということが実際にあった」のです。
それは律法(法律)が原因だったのです。当時のヘブライ人の指導者たちは律法を「あまりにも細かく守る」ことにこだわり、聖書にない決まりまで「新たなルール」として人々に守ることを求めました。
1つのきまりを例に挙げます。安息日である土曜日には「1キロ以上歩いてはいけない」とか、「仕事をしてはいけない」とかいうルールでした。さらにびっくりするけど「料理もしちゃいけない!」といったルールまで作られたのでした。
みんなだったら守れる? 子どものころはなかなか家でじっとしてはいられないよね?お腹が空いても我慢できないよね?
こういうルールを守ることができるのは誰だったか分かりますか?25節に名前が出てきますが「知恵がある、つまり頭がよくて、賢くて、立派な仕事についている人」です。 こういう人たちはお家に食べ物とかが蓄えてあるし、読む本だってたくさんあっただろうし…
子どもたちや生活に余裕のない貧しい人々は細かいルールを守ることはできませんでしたので「ダメな奴だ!罪人だ!」と悪く言われました。その一方で、当時のヘブライ人の指導者たちは、人々から「あんなに大変なルールを守ることが出来るすごい人なんだ!」と褒められ、尊敬されていく…そんな仕組みが出来ていたのです。
そのような状況で、神の子イエス様は「人々を救うために」人間としてこの世に来てくださったのです。そして「あなたたちの感じている重荷や疲れを解放します」そのように今回の箇所で教えてくださっているのです。
今この社会で、「こんなことも守れないなんて!悪い奴だ!」などとダメ人間シールを押されて生きている人がたくさんいることを私はたくさん見てきました。逆に一部の人が「あんなこともできるなんて凄い!」と、もてはやされます。絵本の「大切なきみ」にある通りです。
でもイエス様は、25節から分かるように、社会から非難され、落ちこぼれ意識を味わっている弱い立場の人々を助けて救ってくださるのです。
どの様にして「弱い人々を助けて救ってくださる」のでしょうか?それが特に表れているのが28節から30節です。残りの時間、ここの言葉を「いくつかの言葉に注目して」深く学びたいと思います。
まず28節の「休ませてあげよう」の「休む」という言葉に注目します。これは、29節の「あることをすれば…あなたがたは安らぎを得られる」とある「安らぎ」と同じことばです。このことから分かるのは、イエスさまが与える「休み」とは、「ダラッとして何もしない状態」「ゴロゴロ昼寝をしていてよい」という意味ではなく、「あることをすることで」得られるものなのです。
ではイエス様の仰る「休ませてあげよう」とは一体どんな意味なのでしょうか?
それが分かるためのカギとなるのが29節と30節に出る「くびき」という言葉です。
イエス様は「わたしのくびきを負いなさい」と命じられましたが、「くびき」とは、2頭の牛が荷物を運んだり、畑を耕したりするときに「バラバラに動かないで、2匹一緒に動いてもらう目的」で、首の所にはめられる木の道具です。これを当時の人は「奴隷がきつい仕事を負わされる」ことの譬えとして使っていたのです。
つまり、どういう事かというと、イエス様は「社会のルールのくびきで苦しんでいる人に対し、新しく私と一緒にくびきを負って生きてみませんか?」と提案されるのです。そして「それが本当の安らぎを得ることになるのですよ」と教えておられるのです。
今のを聞いて「私はダラッとしておきたい。くびきなんて負いたくない。」と思った人はいませんか?
イエス様のくびきを負うと、重くて、苦しくて、倒れてしまうではないか…そのように思われる方もおられるかもしれません。そうではありません。
ここでイエス様が「わたしの軛を負いなさい。」と言われているのは、イエス様と一つにされて歩む者とされるということ、イエス様と同じように生きる者とされるということなのです。そして、イエス様が私たちの重荷を共に負ってくださるということなのです。
30節にはそのことが教えられます。私たちは「自分一人で重荷を負っている!」かのように考えがちですが、そうではないのです。イエス様が共に担ってくださるから「くびきは負いやすく、荷も軽い」のです。
先程「イエスさまが与える休みとは、ダラッとして何もしない状態のことではない」と話ました。私達が生きていくのは決して楽だけはありません。頑張らなければいけないことや、神様が作られたこの世のために果たすべき役割もあります。私たちは人生の中で負わなければいけない「くびき」があるのですが、でも!それはイエス様が共に負ってくださるのです。私達の人生の中で大切になるのは「イエス様とつながっていること」なのではないでしょうか。
最後に注目する言葉は29節の「わたしに学びなさい」です。
これは「イエス様と一緒にくびきを負って人生を歩むことは、イエス様から学ぶことなのだ」ということです。
私達がイエス様とともに負う「くびき」は、ただ苦しい働きに終わるのではなくて、「イエス様のような柔和で謙遜な人に変えられるため」の「大切な学び」となるのです。
今日のお話しの題に「幼子の心でイエスのもとへ」と付けました。大人になってくると、なかなか素直になれないものです。「人から偉く見られたい」と思ってしまったりしますので、「今さらイエスから学ぶなんて嫌だ!」と思ったり「今さらイエスと一緒にくびきを負うのなんて御免だ!」と思ったりしやすいです。
でも「安らぎの心をもって」人生を歩むためには、幼子のような素直さで、イエス様のもとへ飛び込んでいき、「一緒にくびきを負ってもらい、学ばせてもらいたい」という思いが必要なのです。
ぜひ、少しでも若いうちに、イエス様とともに人生を歩んでいきたい!という決心が与えられるように、祈っています。(祈り・黙想)
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