「恵みと真理の現れ、イエス・キリスト」5/30 隅野瞳牧師

  

  月30説教 ・聖霊降臨節第2主日礼拝
「恵みと真理の現れ、イエス・キリスト」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:14~18

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 本日の箇所では、人となった言であるイエス・キリストを通して、私たちは神を見るということが記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。

1.天地を造られた神は、私たちを救うために弱さをもつ人間になられた。(14節)

2.神の恵みと真理=福音はイエス・キリストにおいて現れた。(14,17節)

3.神はその栄光を、私たちを通して世に示してくださる。(14,15,18節)

 

1. 天地を造られた神は、私たちを救うために弱さをもつ人間になられた。(14節)

 神の「言」である方、天にある神の御子が、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことが語られます。すべての根源である創造主、絶対者、永遠の神が人となったというのは、衝撃的なことなのです。主イエスはただ私たちを愛するゆえに、ご自分の神としてのあり方を捨ててくださいました。14節から「わたしたち」という主語になっています。それは教会、時代を超え国を超えて、主イエスを信じ救われた群れすべてを表しています。いまここにいる私たちもそうです。

聖書において「肉」はいくつかの意味がありますが、ここでは弱く、罪の力に支配され、死によって限界づけられた人間を意味するものとして用いられています。パウロはローマ7:18で、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。」と、御心に従いたいのにできないという弱さを見つめています。

「わたしたちの間に宿る」とは、神の御子が私たちと同じ姿をとってこの世に来られたということです。「宿る」は住む、天幕(テント)を張るという意味です。かつてイスラエルの民の先祖たちは遊牧民として天幕生活をしていましたが、永遠である神の御子が人となり、限りある命を私たちと共に生きられたことを、この言葉は表しています。主イエスは特に、罪人と言われ蔑まれていた人々のところへ行って、共に食事をし、家にお泊まりになりました(ザアカイ、ルカ19章)。子供を祝福し異邦人の信仰を喜び、病に苦しむ者を拒むことなくその心を共にされました。お腹を空かせ、疲れて眠り、涙し、喜ばれました。私たちと同じようになられたのです。それが「宿られた」ということです。マタイ1:23ではこのことを、インマヌエル(神は我々と共におられる)と表しています。

 ユダヤ人にとっては、人が見ることが許されない聖なる神が人となるなどということは、神への冒涜でした。またギリシア人(異邦人)にとって体は汚れたものであり、神が人間の救いのためにその肉体をとるなどばかばかしいことでした。しかし主イエスを救い主と信じる私たちにとって、神が人となられた出来事は神の愛のしるしです。

私たちが孤独や耐え難い苦しみの中にあった時、助けてくださった方を思い返します。金銭的に、また仕事の面で助けていただいた。それもとても感謝なことです。けれども本当の意味で私たちを支えたのは、時をささげ心を用いて私たちのもとに来てくださり、一緒にいてくださった方ではないでしょうか。それは、あなたが大切です、どんなあなたであっても愛しますという心の現れだからです。神は私たちを愛するゆえに、私たちが生きるこの世界のただ中に来て私たちと出会ってくださいました。

また贖いの御業の面でも、神が人となられる必要がありました。キリストは完全に神であり、同時に完全な人間であられました。キリストが人間であるだけならば、死に勝利し神にとりなしを続け復活の命を与えることはできません(ヘブライ7:23~25、10:1~18)。また一方で神であるだけならば、罪人の身代わりとは成りえません。人間であり、神であるからこそ、キリストは私たちを救うことがおできになったのです。

 聖書は、生まれつきの人間は神に背き、自己中心に歩む罪人であると示します。罪人であるということには2つのことが伴います。一つは、いつも自分の欲望、自己中心の考えに支配されて生きなければならないことです。もう一つは、神の裁きを受けなければならないことです。しかしそのような私たちを罪の束縛と罪の裁きから解放するために、主イエスは人となってくださいました。罪がまったくないという点を除いて、すべての点で私たちとまったく同じ人間になられました。私たちを罪の裁きと力から救い出して自由にするために、私たちが受けるべき神の裁きを、私たちの身代わりとなって引き受けてくださったことによって私たちは無罪とされました。これが救いです。神の愛は、独り子を世に与える愛です。罪の中に歩み自分に敵対する世を救うために、たった独りの子を十字架につける。父なる神の御苦しみを、はかり知ることはできません。私たちはこの愛で愛されているのです。 

出エジプトの後荒れ野の生活において、神の幕屋に栄光が満ちていました(出40:35~36)。人となられたイエス・キリストに、教会は神の栄光を見てきました。栄光といっても、聖画にあるように後光がさしているわけではなかったでしょう。普段の生活では、弟子たちにも本来の栄光は隠されていました。もちろんこの世の富や権力と神の栄光はまったく違います。

17節には律法がモーセを通して与えられたとありますが、まさに神が十戒を授与される場面にこのようにあります(出エジプト33:21~23,34:29~30)。神の人モーセでさえも罪ある人間であり、神の御顔を見るならば死んでしまいます。そこで神は、ご自身の栄光が通り過ぎるまで彼を岩の裂け目に隠してその手で覆い、モーセは神の栄光が通り過ぎた後姿を見るのです。それでも神と語り合ったモーセの顔は神の栄光を反映して光を放ち、イスラエルの民が恐れて近づくこともできないほどでした。

今神の栄光は、御子が罪人の救いのために十字架にかかって死ぬ、私たちを生かす愛として現れました。罪人が神にまみえ、再び神と共に喜びのうちに生きられるために。そして神はご自身を受け入れる者を光(神の光を反映させる者)としてくださるのです。

 私たちは今この地上で、キリストの体なる教会を通して、恵みと真理に満ちている主イエスの栄光を見ます。この地上に教会が存在していることにはそのような意味があるのです。御言葉と聖餐により、私たちは生ける主にまみえ、共にその命にあずかります。私たちは今、在宅にて共に礼拝をささげておられる兄弟姉妹と、目には見えなくても確実に主の命につながり、そのご栄光を拝しています。感謝です。

 

2.神の恵みと真理=福音はイエス・キリストにおいて現れた。(14,17節)

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」ヨハネはここで、律法と福音を対比して語ります。「恵みの上に、更に恵みを」原語では「恵みの代わりに恵み」という意味です。二通りの解釈があります。

第一の解釈は、寄せる波のように神の恵みが絶えることなく次々と、満たし続けてくださるということです(詩編23:6)。第二には、律法と福音という恵みという解釈です。旧約時代、神と人間の間の契約の土台は、モーセを通して神から与えられた律法でした。自分が正しい、自分さえよければよいと皆が考えて勝手に生きるなら、世界は混沌になります。律法は私たちを縛るものではなく、私たちが本当の意味で幸いに愛し合って生きられるように与えられた神の御心、途方もない神の恵みなのです。受難節にお配りした黙想文(4/8分)にはこのようにあります。「「立ち入り禁止」と警告の看板があったら、そこに入ってはいけないと気づきます。でも看板がなかったら、違反の意識もなく入り込んでしまいます。もしかしたら、その看板の先には危険な崖があるのかもしれません。ならば、その看板を無視すれば、その先にあるのは死です。律法はいわば、看板・警告だったのです。神がつくられた「救命の警告」。…神は、わざわざそんな警告の看板を作ってまで人間の命を救おうとされたのです。」律法は聖にして善なるものですが、律法によってはだれ一人として神の前に義しい人として立ちえません。人はどんなに努力しても、この律法を完全に守ることはできないからです(ローマ3:20)。律法はキリストに導くために与えられたものなのです(ガラテヤ3:21~25)。神の時が満ち、主イエス・キリストによって救いが完成される恵みが現れました。

「恵みと真理」は「福音」に置き換えることができます。恵みは神の愛、真理は神の義と深く関係し、二つが一つとなって救いが実現しています。恵みは全く受けるに値しない者に与えられる、神からの一方的な愛と憐みであり、神ご自身です。罪人への神の恵みは、罪の赦しとなって示されます。旧約においては、この罪の赦しが、神の民としてイスラエルをお選びになった契約の中に現わされます。新約において神の恵みは、イエス・キリストという人格において、神がこの世に来られたという出来事にあります。神はまず、主イエスの名を信じる者に罪からの救いの恵みをお与えになりました。そして神は、罪赦された者をキリストにある新しい契約の民(教会)に導き入れる恵みを加えてくださいました。

真理もまた神のご性質です。神の言葉また裁きに偽りがなく、真実で信頼できることです。真理は神から出る変わることのない霊的な原理、神の恵みとその意志の現れであり、旧約においては神の律法を、新約ではキリストとその福音を示します。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」(Ⅱコリ1:20)神はキリストによって、救いの約束をことごとく実現し、神を愛し人を愛することを、十字架をもってお示しくださいました。真理なるキリストは、恐れや弱さ、罪と死の奴隷状態から私たちを自由にし、命である神に導いてくださいます(ヨハネ8:32)。

恵みと真理は旧約的な表現で、神の契約に現れた慈しみと、契約への忠実な態度を意味します。出エジプト34:6~9で、神はモーセに対し、ご自身を「慈しみとまことに満ち」と表しておられます。これは「恵みと真理」と同じ意味です。栄光の神、慈しみとまことに満ちた神とは「罪と背きと過ちを赦す」神であり、同時に「罰すべき者を罰せずにはおかない」神です。その神に対してモーセは、罪と過ちを赦して下さいと懇願するのです。赦すことと罰すること、その権威は、ただ一人神だけがお持ちなのです。

 

3.神はその栄光を、私たちを通して世に示してくださる。(14,15,18節)

ヨハネは主イエスにお会いした時に、この方はわたしよりも先におられた方だと悟りました。彼が言う「先におられた」とは、この世界が造られる永遠の昔から、神と共におられたということです。キリストの栄光に触れた彼は、私は造られた人間、僕として光の到来を告げるだけだが、この方は神、光そのものであるお方だ。この方こそ私たちが待ち望んでいた救い主であると、声を張り上げて証言しました。

御子は父なる神のふところに永遠から永遠までおられるお方です。これは母と子、夫と妻のように最も深い親密さを表し、御父の心に最も近いということでもあります。私たちはキリストにあって神の子どもたちですが、養子です。しかしキリストは永遠からおられた方、神の御子であって、礼拝を受けるべきお方です。主イエスと共に生きることは特別な恵みであることをいっそう覚えて、感謝をもってヨハネのごとく証する者でありたいと願います。

誰も神を見た人はいません。天地創造の神は霊なる神であって目に見える形を持っておられません。そしてまったく聖なる、栄光に輝いておられる方だからです。しかし、目で見ることのできない神がどういう方であるかを、御子は私たちに示されました。主イエスは私たちに、言葉と業、特に十字架と復活の御業を通して、神が恵みと真理である方だと説き明かしてくださいます。

そして私たちは、さらに豊かな神の恵みに招かれています。それは、神の栄光を私たちも輝かすことができるということです。主イエスは御自分を信じた神の子たち、教会を、神に似た者として回復してくださいます。神は私たちを、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長させてくださいます(エフェソ4:13)。その豊かさとは主イエスがもたらされた新しい掟、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。(ヨハネ13:34~35)主イエスは互いに愛し合う「わたしたちの間に」宿られます。主が愛してくださったように、互いに愛し合う弟子たちの姿を人々が見る時、それが主イエスの弟子たちであることが分かる。主イエスの姿がそこに見えるのです。私たちもまた、恵みと真理なる主イエスに満たされる時に、主を指し示す者とされます。

 主イエスを信じる者は、終わりの日に主イエスが栄光のうちに再びおいでになり、朽ちて死ぬ罪の体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださることを待ち望みます(フィリピ3:21)。復活のキリストと同じ霊の体、初めに神がお造りになった神の似姿としての命が回復されるのです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3章18節)キリストの栄光が十字架であるように、私たちもまた、なお主に従い愛に歩む者へと変えられていきます。

「16.どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17.信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18.また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19.人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3:16~19)

最後に、ヨハネ福音書において、栄光という言葉が最後に出てくる箇所をご紹介します。ヨハネによる福音書21章17~19節です。三度主イエスを知らないと言ってしまったペトロに対して、主は再び召命をお与えくださいました。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」人となられた神の独り子主イエスによって神の救いが実現した、その福音を伝えていくペトロは、やがて迫害を受けて殉教します。けれども彼の説教、行い、死の姿を通しても、多くの人が神の栄光、生きておられる主イエス・キリストを見たのです。

 主よ、弱く罪深い私たちですが、私たちの間に宿り、私たちのすべてを用いてご栄光を現してください。祈りましょう。

 

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