1月28日 降誕節第5主日礼拝
「愛に歩む」 隅野瞳牧師
聖書:ヨハネの手紙Ⅱ 1~13
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本日は福音に留まり、真理と愛のうちに前進していく教会の姿について、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。
1.真理に歩む人を喜ぶ。(4節)
2.愛は御父の掟に従って歩むことである。(6節)
3.キリストが人となってくださったという福音に留まる。(7,9節)
本日与えられた聖書はヨハネの手紙二です。ヨハネの手紙はその文体から、使徒ヨハネによって記されたと考えられています。主イエスが昇天されて教会が誕生してから50年以上後のことです。「長老」とは当時その地方にあった複数の教会の指導者のことです。ヨハネは年齢的にも高齢でした。直接主イエスに従った弟子たちのほとんどはこの世の戦いを終えています。聖書に似て非なる異端の教えが広がりつつあった時代に、ヨハネは自分が受けた福音を次の世代に伝え、揺るぎない信仰のうちを歩んでほしいという切なる願いをもって、この手紙を書きました。
1.真理に歩む人を喜ぶ。(4節)
「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。」(1節)
この手紙の宛先は「選ばれた婦人とその子たち」です。これは迫害下で用いられた擬人法で、ある特定の教会と信徒たちを指していると考えられています。「教会」を表すギリシア語は女性名詞で、いくつもの箇所で教会はキリストの妻、花嫁として記されています(エフェソ5:21〜33、黙示録21:9)。ヨハネは教会を心から愛しているのです。彼の記す書には「愛」がほとばしり出ています。直接会うことがかなわない状況の中で、ヨハネはどれほど教会のために祈って手紙をしたためたことでしょう。またこれを受け取った教会はヨハネの無事を知り、変わらない愛をもって祈ってくれていることを知って、どんなにうれしかったことでしょうか。
ヨハネはもともと愛にあふれる人ではありませんでした。ゼベダイの子ヨハネは兄弟ヤコブとともに「雷の子ら」(ボアネルゲス)と呼ばれました。気性が激しく、主イエスを歓迎しなかった人々に対して、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言っては、主イエスに戒められています。またヨハネとヤコブは主イエスが栄光を受けられる時に、その両隣に座らせてほしいと願っています。自分の味方や利益をもたらしてくれる人は愛する、私たちのもともとの性質によく似ています。
ヨハネはたびたび失敗しましたが主に愛され、いつも主のそばにいました。彼は自分が主に愛されていることを、特別に感じ取った人でした(ヨハネ13:23,19:26,20:2,21:7,20)。主の愛はすべての人に注がれていますが、それに気づくのは御言葉、主の十字架を通して自らの罪を知り、赦しを受ける時です。神の愛はそれを受ける者を、神と人を愛する者に変える力があります。
「それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐みと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」(2~3節)
真理とはどんな時にも変わることのない本当の、真実なものです。聖書において真理とは神の愛、そして神の愛を見える形でお示しになったイエス・キリストです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」(ヨハネ1:17)また「真理」とは聖霊のことでもあります。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:13)。今日の箇所の「真理」は「イエス・キリスト」と読み替えるとよく分かります。ヨハネがこの教会を愛する愛は、いつも彼の内に彼と共におられるイエス・キリストから出ていたのです。
ヨハネはここで祝福の言葉を記しますが、いつも礼拝の最後にある祝祷と少し違うのにお気づきでしょうか。「神の恵みがありますように」という願いではなく、「あります。」と言い切っているのです。原語では未来形です。その意味は「~でしょう」ではなく、「必ずそうなります」。神の確実な約束を意味します。私たちに今神の恵みが見えなくても、神の祝福は必ず成ると断言されているのです。
「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。」(4節)
この手紙の宛先である教会の信徒たちが、ヨハネのもとを訪れたようです。御父から受けた掟どおりに真理に歩んでいる信徒たちがいるのです。主イエスの言葉を正しく後の人々に伝えること、それが主イエスの直接の弟子であったヨハネの使命でした。私たちもまたその使命が与えられています(マタイ28:19~20)。ヨハネは自分が直接教えることができなくても、新しい世代のクリスチャンたちが主の救いの恵みと愛のうちに歩んでいることを知らされて、大きな喜びにあふれました。誰かが御言葉によって主イエスという真理に出会い、その愛の内に前進していくことは、教会の大きな喜びです。そのような方が与えられることをなお祈り、福音を伝えてまいりたいと思います。
「歩んでいる」というのはそこに生きているということです。真理であるキリストのうちに、神の国という目的地に向かって歩みを続け前進する、信仰はそのような生きたものです。御言葉を学ぶだけではなく、御言葉に生きるのです。ただこの書き方からすると、そのように歩んでいない者たちもいたようです。そこでヨハネは教会に対してさらに記します。
2.愛は御父の掟に従って歩むことである。(6節)
「わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」(5~6節)
神の掟とは、主イエスが教会に初めからお示しくださっているものです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)これが真理に歩むことでもあります。
「互いに愛し合いなさい」との御言葉は、初代教会の中ではよく知られていました。私たちもこれまで何度もいただいてきた御言葉ですから、わかったつもりになっているかもしれません。しかし「わたしがあなたがたを愛したように」という原点を見失う時、外側を整えて人の力により頼もうとし、教会は命を失います。まず自分の思いを置いて御言葉に聞きましょう。そして御言葉を聞くだけでなく、主の助けによって行う力が与えられるよう求めましょう(ヤコブ1:22~25)。「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(Ⅰヨハネ2:5~6)
ヨハネは愛を感情としてではなく、神の掟に従うことであると語ります。主イエスは神の掟である律法の本質、最も大切な戒めとして、神を愛し、隣人を自分のように愛することであると教えられました(マタイ22:37~40)。キリストが人となり十字架にかかられたのは、まさに父なる神の御心に従うことでした。好きだとか自分に利益をもたらしてくれるから愛するのではなく、相手のために御心に従うことが愛です。主イエスは十字架にかかる前、血の滴るような汗を流しながら、「御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と三度も神に祈られます。すべての人の罪の裁きを負い御父と断絶される十字架の死は、御子にとって耐えがたい苦しみでした。けれども主イエスは苦しみの果てに祈られました。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」主は私たちの救いのために父なる神の御心に従うことを選び、十字架に向かって行かれました。
主イエスによって表された愛は、生まれながらの私たちが持つ愛とは違います。相手がどうであれ先に、無条件で受け入れ、与える愛。価値を見出す愛です。ヨハネは十字架の下でこの愛を知りました。罪人であったのに私たちは愛されました。その愛を受けて私たちは、御子をお与えになるほどに世を愛され、一人も滅びることを望まれない神の御旨を心に刻んで歩むのです。
見える形で愛を示しましょう。主は私たちに誰をお示しになっていますか。その方にできることは何でしょうか。愛に生きるためには、私のうちには愛がないことを認め、主に求めることが必要です。自己満足の愛ではなく相手を思いながら、知恵と継続する力が与えられるように祈りましょう。
3.キリストが人となってくださったという福音に留まる。(7,9節)
「彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。」(7~8節)
ヨハネは異端の教えに注意するようにと警告を発しています。当時の教会を脅かしていた異端はグノーシス主義と呼ばれるものです。彼らは見えない霊的なものを善とし、肉体や物質を悪とみなしました。ですから神の子が人間として生まれるはずがないということになります。彼らは人となられた主イエスについて、現象としてそう見えたに過ぎず、死の苦しみを味わってもいないとしました。主イエスが病む人に御手を触れてくださったことも、子供たちを抱き上げて祝福されたことも、鞭打たれ十字架で死なれたことも「そのように見えただけ」。しかしそうであるならば、それは愛ではないのです。
愛は自分を差し出して誰かのそばに行くことですから、痛みや苦しみが伴います。Ⅰコリント13章を見ますと、真の愛は心地よいことを気が向いた時だけすればいいというものではなく、なんと深く静かで強いものかと知らされます。もし主イエスがこの世に、私たちの隣に生きてくださらなかったら、今の私はあったでしょうか。主が私たちと共に生き、私たちのために死んでよみがえってくださったから、私たちは愛を知り、愛したいと願うようになりました。愛することは簡単な道ではありません。相手に受け取っていただけないこともある、いやその方が多いかもしれません。けれども愛することによって実は、自分が一番主の愛を知るのです。
「神であるイエスが、私たちと同じ人として来てくださった」それは私たちの救いにとって絶対揺るがせてはならない福音の根幹です。神の子主イエスが人となり、私たちの罪を担って十字架に死なれ、私たちの罪が赦されました。そして主イエスの復活によって私たちに永遠の命が与えられ、神との関係が回復されて、神と共に生きることができるようになったのです。
私たちは主イエスの贖いの恵みによって永遠の命に生きるようにされました。神の恵み、そして福音を伝えてくださった方の涙や労苦を無駄にしないようにしたいと思います。神とともに歩む命の道は、御心を問いながら地上の生活を闘いつつ積み重ねていく歩みです。その過程においてこそ私たちは神の愛を知り、成長し、やがて全き永遠の命に入れられます。「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ10:35~36)
「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。」(9~10節)
この節は新改訳のほうが原文に近いのでお読みします。「だれでも『先を行って』キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。」「家」とは教会を指します。当時のローマ世界では巡回教師が各地を巡っており、その人を信徒の交わりに受け入れて御言葉を語ってもらっていました。しかしその巡回教師の中に、異端の教えを持ち込む者がいたのです。ヨハネは彼らを教会の交わりに迎え入れてはならないと命じます。
グノーシス主義者たちは、自分たちはキリストの教えを越えた知識を持っていると誇っていたようです。彼らは、特別な人しか持つことのできない隠された知識に到達すれば、霊が肉体から解放されると教えました。しかし聖書は、優れたある一部の人たちが特別な体験をするのではなく、救いはすべての人に与えられており、最初から最後まで神の恵みによると語ります。神とその愛、救いを知ることも、聖霊が私たちの心の目をひらいてくださる恵みによるのです。
神はこの世界と私たちを慈しんでお造りになりました。この世界、この体は神からのプレゼント、奇跡であって、あなたはすばらしい存在なのです。弱さや限界はありますが、見えるものそれ自体は悪ではありません。私たちの救いのために、神は御子を人としてお送りくださったのではありませんか。主は信じる私たちの内に聖霊として住まわれ、神と人のためにこの体を用いるように変えてくださいます(ローマ6:12~14,Ⅰコリント6:19~20,ガラテヤ6:16~23)。
私たちが留まるべきキリストの教えとは、主御自身です。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)聖書のある部分だけを取りあげて強調する流れはいつの時代にもあります。それを知ることで信仰の先端を行っているように感じてしまいがちですが、聖書全体から聞くことが大切です。神は私たちを愛し罪から救おうとされる、その一本の線が聖書を貫いています。自分で聖書を読み、聖書研究祈祷会などで疑問を出し合ったり、自分が受けたものとは違うメッセージを聞くことが大切です。何よりも知識の学びだけに留まらず、教会の交わりを通して御言葉が真実であることを体験しましょう。
「わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。」(12~13節)
ヨハネは、近いうちにこの教会を訪問することを願い、自分がいる教会からのあいさつを記します。この手紙は教会どうしで愛し励まし祈り合う交わりの内に記されているのです。直接会って話す時に、御父と御子が愛し合う交わりに入れられる喜びがあります(ヨハネ17:21,Ⅰヨハネ1:3)。同じキリストの愛に生かされているクリスチャンは主にある交わりをもち、祈り、心を分かち合います。私たちはいよいよこの交わりを大切にし、さらに多くの人をここにお招きしたいのです。主が私たちに御自身の愛を日ごとに深く刻み付けてくださり、愛に歩む教会として世に遣わしてくださいますように。