2月14日説教 ・降誕節第9主日礼拝
「新しい契約」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書22:7~20
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続けて読んでいますルカによる福音書ですが、22章まできました。イエス・キリストの十字架での「お苦しみ」がいよいよ間近になっています。今日は、絵画で描かれて大変有名な「最後の晩餐」の場面です。
毎月一回、この山口信愛教会の礼拝の中で執り行っている「聖餐式」。今月は先週執り行いましたが、これは世界中のキリスト教会が大切に守り抜いてきた儀式ですが、その由来も今日の箇所で出てきます。
十字架で死なれる直前、過ぎ越しの食事をされることを通して、「聖餐式」を守ることを教えられるイエス・キリスト。どうしても!必ず!伝えようとされた大切なことが今日の箇所の秘められているのです。味わってまいりましょう。
まずは7節から12節です。(ゆっくりと読んでみますので、皆さんも目で追って見て下さい)
ここで「過ぎ越しの食事」という言葉が何回もでますので、イスラエルが伝統的に守っていた「過ぎ越しの祭り」について少しお話しします。
過ぎ越しの祭りは、「イスラエルがエジプトでの奴隷状態から神によって救われたことを記念して行われる祭り」です。
旧約聖書によると、イスラエルを去らせようとしなかったエジプト人に神の裁きがあり、すべての家の長子が死んだのです。しかし、神の言葉に従って「家の戸口に小羊の血を塗った」イスラエルの家は「死が過ぎ越していった」、そのように記されています。
この「小羊の血によって、神の裁きが特別に過ぎ越された」ことは、やがて行われる「イエス・キリストが十字架で流された血によって、すべての人が罪の裁きから救われる」という「十字架の贖い」を予見するものであったのです。
さてイスラエルの人々は「この神による特別な救いを忘れず、代々語り継いでいくために」過ぎ越しの祭りを大切に守ってきたのです。とくに大切にしたのが「過ぎ越しの食事」だったのです。
イスラエルの人々は家の中で「小羊・苦菜・種なしパン」を食べ、ぶどう酒を飲んで、過ぎ越しの食事を守ることになっていました。
当時、壮年の男性を中心に、過ぎ越しの祝いはエルサレムの都で守ることが奨励されていました。それでエルサレムは人でごった返していたのです。しかし、食事は「家の中でしなければならない」ので多くの人が「過ぎ越しの食事をするための部屋探し」に苦労していたのです。
9節をご覧ください。弟子の二人の「どこに用意しましょうか」という言葉には、簡単なことを任されたのではなく、実に難題を任された…という思いがこもっているのです。
これに対するイエスのお答えが10節と11節です。
当時、男性は皮袋で水を運ぶことが多かったので、水がめを持った男性は弟子たちにとって「見つけやすい」ことでした。そしてこの「水がめをもった、家の主人」に対し「先生がこう仰っている」と言いなさいとイエス自ら仰っていることから推測するに、この家の主人もイエスの理解者であることと、そして「イエスご自身が予め、部屋の確保をお願いされていた」ことが理解できます。
とても回りくどい伝え方に思えてしまいます。どうして直接「あの家が確保されているから、あそこへ行こう」と仰らなかったのでしょうか?それはユダの裏切りを警戒してのことだと考えられています。
先週の聖書箇所の6節から分かるのですが、「ユダは、群衆のいないときに宗教指導者たちにイエスを引き渡す」ということを相談していました。宗教指導者たちはイエスの側近であるユダの手引きがあれば、民衆の見ていない所でイエスを捕えることができる、そしてでっち上げの裁判をして、イエスを十字架で処刑することができると考え、喜んだのでした。
結果的にはこのとおりになります。しかし、すべてをご存知のイエスは、「ご自分の逮捕より前に、必ずあることをなさりたい」と考えられたのです。それが「過ぎ越しの食事」でした。
つまり、食事の前や途中に「ユダに手引きされた者たちが押しかけてきて、邪魔することのないように」配慮なさったのです。
それほど、イエスが「過ぎ越しの食事」を大切に思われたのはなぜなのか…それをこの後深めてまいりましょう。
14節から今日は20節まで読みます。(※よんでみます)
読んでお気づきになった方は多いと思います。これはまさに聖餐式の「式文」の中に出てくる言葉そのものなのです。
イエス・キリストは過ぎ越しの食事の意味を更新されたのです。エジプトからの救出という「イスラエルの救いの記念の食事」に代えて、ご自身の十字架の死による「罪と死からの救出」という、教会の記念の食事を制定されたのです。
つまり、イスラエルにとって大昔エジプトで救いの業に与った記念の食事であった「過ぎ越しの食事」それが行われる時、イエスは新しい救いである「十字架」を記念する食事を制定なさることを心から願われたのです。だから、ユダに裏切られ、逮捕されることが分かっておられながらも15節にあるように「過ぎ越しの食事を弟子たちと共にすることを切に願われた」のです。
聖餐式は人間が考え出したものではなく、イエス・キリストが心から願われて制定されたものなのです。私たちはそのことを忘れずに「聖餐の恵み」に与りたいものです。
17節以下をご覧ください。ここにイエスが聖餐をどのようなものとして新しく制定されたか、が見て取れます。
ただ血に見立てたぶどう酒を飲み、肉に見立てたパンを食べて思い出しなさい…ではないのです。大切になるのは2つの言葉です。19節の「記念」という言葉と、20節の「新しい契約」という言葉です。
最後にこの二つの言葉を掘り下げましょう。
まず「聖餐式によってあらわされた契約について」からお話しします。
聖書においては神と人々との関係は「契約」の関係ですが、それは人間どうしの間で結ぶ取り引きの契約とは違います。人間は神と対等の立場で取り引きできるような者ではないのです。
聖餐によって神・キリストが結んでくださる契約は「恵みによって一方的に与えて下さるもの」なのです。それでも神の子イエス・キリストが「契約」と呼んでくださるのは、人間と契約を結ぶことによって自ら「行う義務を負って下さった」ということです。
何の義務を負ってくださったかというと、「ご自分の血によって罪の裁きから過ぎ越す、つまり救い出す」ということを約束してくださったのです。
私達一人ひとりは罪をもっています。何かイライラする余裕がなくなると、誰かに当たろうとする…そんな罪深い私自身の姿をここ最近感じさせられます。皆さんはいかがでしょうか?ご自分の罪を強く感じたような出来事はないでしょうか。
その罪を私たちは自分で清算することができないのです。聖書には、罪が死をもたらすとはっきり示されています。
しかし、イエス・キリストを罪から救う「救い主だ」としてはっきりと受け入れ、告白するなら「罪の審判」から特別に過ぎ越されるのです。
それは、この地上での死で終わらない永遠の命に与るということです。その「特別な神からの契約を確認する」のが、イエス・キリストが「過ぎ越しの食事を更新され、新しく制定してくださった聖餐」なのです。
聖餐式でいただく「ぶどう液」、これに与る時私たちは、イエス・キリストが血を流し、命を注いで与えて下さる「契約」、つまりイエスが命がけで打ち立てて下さった「新しい関係」を思い出しましょう。
そしてもう一つ19節にある「記念としての聖餐」も心に留めましょう。
「記念する」とは、一言でいうなら「思い出すこと」になろうかと思います。このことをイエス自らが「聖餐の意味」として教えて下さっているのです。それだけ、私達人間が「忘れやすい生き物である」ということをご存知だからでしょう。
イエス・キリストを救い主として受け入れたときの決心や、洗礼を受けたときの喜びをずっともっていたいものですが、私たちはそれらを忘れてしまいがちです。
イエス・キリストは私の罪のために十字架にかかってくださった…その思いが薄れてしまうことも実際あるのではないでしょうか。
しかし、そんな私達をとことん愛してくださるのが主イエスなのです。
イエス・キリストは「十字架にかかり、罪を贖ってくださった」だけに留まらず、恵みを忘れないために、神の恵みに留まって歩み続けられるように、自ら「聖餐式」を制定してくださったのです。
この愛に留まり続け、今日も明日も歩んでまいりましょう。(祈り・黙想)
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