「朝に夕に、主の救いをかみしめる」4/30 隅野瞳牧師

  4月30日 復活節第5主日礼拝
「朝に夕に、主の救いをかみしめる

隅野瞳牧師
聖書:出エジプト記16:4~16

 本日は、神が私たちの必要を満たし、御子の命によって生かしてくださる方であることについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.救いの恵みをすぐに忘れてしまう私たちであっても、主は養い続けてくださる。(3,35節)

2.夕に朝に私たちの神、主を知り、その栄光を見る。(6~7,12節)

3.恵みは日ごとに必要なだけ与えられる。(18節)安息日のために主の備えがあることを信頼する。(22節)

 

聖書は私たちの地上の歩みを、信仰の仲間、主にある家族と共に、神の国というゴールに向かう旅として描いています。今から3300年ほど前、エジプトで奴隷であったところから神によって救い出され、約束の地カナンを目指して荒れ野の旅を続けるイスラエルの民の姿に、私たちが映し出されています。イスラエルの民は約400年もの間強制労働を強いられ、苦難にあえいでいました。彼らの叫びに応えて、神はモーセを立てて彼らをエジプトから脱出させ、葦の海を分けてエジプト軍から救い出してくださいました。彼らはエジプトからは解放されましたが、約束の地がどこにあるのかを知らず、神が示される道を一歩ずつ歩んでいきます。荒野を三日間進んでも、苦くて飲めない水しか見つからずに彼らは不平を言いましたが、モーセが主に示された木を水の中に投げ入れると水は甘くなり、その後彼らはオアシスのような場所に行くことができました。 

1.救いの恵みをすぐに忘れてしまう私たちであっても、主は養い続けてくださる。(3,35節)

旅を続けて一か月が過ぎ、持って来たパンや家畜も尽きてきました。イスラエルの人々は再び、モーセとアロンに向かって不平を言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(3節)

「不平を言う」という言葉が16章1-12節の短い文章の中に7回出ていることから、彼らの不平がいかに激しかったかを知ることができます。これを浴びせ続けられたモーセたちは、どんなに苦しかったことでしょう。何と身勝手で、神の恵みを忘れ、感謝を知らない民なのかと感じます。奇跡そのものは覚えていても、その時の喜び、感謝、主への信頼を彼らは忘れてしまったのです。そして私たちは彼らの姿に自分の姿を見ます。罪から救われ神の子とされた喜び。この主に従い、生涯共に歩ませてくださいと燃やされていた心が、思い通りにいかないことや苦しい出来事にあうと、あっという間に不平に変わってしまうのです。

イスラエルの人々の言葉は事実ではありません。彼らのエジプトの生活があまりにも耐えがたかったので、その叫びを主が聞いて救い出して下さったのです。しかし自由には責任とリスクが伴うことを知ると、彼らは奴隷状態を懐かしんだのです。神によって罪から救い出された私たちも、しばしば罪に留まり、戻ろうとします。そのような時には御前に静まり、どのようなところから主が救い出してくださったか、その恵みに目を留めて感謝をささげましょう。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩編103:2、新改訳2017)神は私たちが忘れやすい者であることをご存じで、その恵みを思い起こすために多くの機会を定めてくださっています。私たちはクリスマス、イースター、ペンテコステを年ごとに祝い、主のご復活の日に礼拝をささげ、聖餐にあずかります。共に救いを受けた兄弟姉妹を通しても私たちは救いの恵みを新たにされ、主に立ち帰って新しく遣わされるのです。

不平は私たちが神を忘れ、この世の祝福が願い通りに得られない時に出ます。祈りは、神に祝福を求める者が、不足や人生の解決を御前に持ち出すことです。並行箇所の民数記11:10~15をみると、モーセは民の不平、彼らを負う重荷に耐えきれず、苦しみを神に注ぎ出して祈っています。モーセの祈りに応えて神は長老たちを立て、民をカナンの地に導く使命を果たさせてくださいます。主のご用のために立てられた方を尊び、必要は主に祈ってまいりましょう。

「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降(ふ)らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。』」(4~5節)

主により頼むことを知らないイスラエルの民のために、主は天からパンを降らせて、それを民が毎日必要な分だけ集めると告げられました。主がこの御業を行われるのは、「彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」ためでした。空腹を満たすと共に、彼らが主とその御言葉に信頼し、神と共に祝福のうちに生きる者となることが、この奇跡の第一の目的でした。主の祝福は積極的に主のみことばに従う中で与えられるものです。  

2.夕に朝に私たちの神、主を知り、その栄光を見る。(6~7,12節)

「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。…あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」(6~8節)

本日の箇所で心に残ったのが「夕と朝」という言葉です。「朝夕」の方が私たちにはしっくりきますのでそちらで題をつけましたが、イスラエルの一日は夕から始まります。「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記1:5)闇や夜は忌み嫌ったり逃れるべきものではなく、夜もまた神の置かれた時です。私たちは夕となりまた朝となるという時間の流れとともに生きるのです。出エジプトは真夜中に行われ、主は寝ずの番をして彼らを救い出し(出12:42)、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれました(出13:21~22)。私たちの救いについても、朝に象徴される主の復活の前には、十字架と死を通る最も深い夜が必要でした。夕方に肉、朝にパンが与えられることによって、イスラエルの民は主の愛、救い、真実を知りました。

私たちはしばしば人に向かって不平を言いますが、それは神に対してのものです。イスラエルの民をエジプトから導き出されたのは主ご自身でした。そのことを証明するために、主は夕方には彼らに肉を与え、朝には天からのパンを与えると約束されたのです。

「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。」(12節)

神はすべてのものに命を与え、御手の内に治めておられます。御自身に従う者を守り、必要を満たしてくださいます。この方に私は救いを受け礼拝し仕える。それが、神を私の主として知るということです。人の力の尽きる時は、主というお方を知らされる時です。主はご自身を信じる者に栄光を仰がせてくださいます。

夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。(14~15節)

その日の夕方に、うずらが飛んで来て宿営をおおいました。朝になると宿営の周りを、薄くて壊れやすいものが覆っていました。これは神が備えられた天からのパンでした。民はこれを「マナ」と呼びました。うずらはアフリカからヨーロッパに渡る途中で体力を消耗し、シナイ半島で休むことがあり、マナはこの地域の樹木に寄生する虫の分泌物に似ているそうです。しかしここでは神の御心にそってうずらとマナが与えられています。大切なことは、神ご自身が彼らのために天からの糧を備えられたということです。

3.恵みは日ごとに必要なだけ与えられる。(18節)安息日のために主の備えがあることを信頼する。(22節)

「『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。」(16~18節)

たくさん集められる者もそうでない者もいたはずなのに、家族の人数に応じてそれぞれ1オメル(約2.3リットル)を集めて量ってみると、ちょうど家族全員が食べる分になっていました。それは人間が自分の力で集めたものによってではなく、神が恵みによって養って下さったからです。

マナは主イエスを象徴しています。全ての人に等しく与えられたマナ、これは神が御子を通して全ての人に、罪の赦しと永遠の命をお与えくださることを示します。私こそ天から降って来た命のパンであり、このパンを食べる者は永遠に生きると、主イエスは語られました(ヨハネ6:48~51)。この主の十字架が自分のためであったと信じて罪から救われた者は、主のご復活の命をいただきます。それは神の民としてのスタートであり、私たちは日ごとに主イエスと交わりをもち養われながら、神の国へとこの世の旅路を歩んでいきます。マナは神から無償で与えられました。もちろんそれを拾い上げることはしていますが、特に労働といえる程のものではありません。これが神の恵みです。

「モーセは彼らに、『だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない』と言ったが、彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。」(19~21節)

マナは、朝まで残しておいてはいけませんでした。ある者はモーセの言うことを聞かず、その一部を残しておきました。彼らは翌日もマナが与えられることを信じていなかったのです。残ったマナには虫がわき、臭くなりました。私たちは一度に多くのものを集めて、蓄えを増やしたいと考えます。生活の安定を保つことは大切ですが、そのことで主への信頼が失われないように注意したいものです。

マナは毎日、その日の分を集めます。神の恵みはその日ごとに、すべての人に必要なだけ与えられます。主の祈りの「我らの日用(にちよう)の糧を今日も与えたまえ」は、主により頼んで生きる信仰者のあり方を示しています。そしてそれは「我らの糧」ですから、すべての人が満たされることを祈るのです。今日の分を過剰に持ってひとりじめしようとするならば、神はそれを私たちから取り上げ、少ししか集めることができなかった人にお与えになるでしょう。

 体の命を養う「地上のパン」と共に、魂を養う「天からのパン」が私たちには必要です。命のパンなる主イエスは人となられた神の言です。礼拝において私たちは、神の国への一週間の旅路に必要な霊の糧、主イエスの命をいただきます。そしてイスラエルの民が朝ごとにマナを集めたように、礼拝の時だけでなくそれぞれの場で、少しずつでも御言葉をいただきましょう。一日の仕事が始まって雑事に覆われてしまう前に、神が備えた今日のマナを集め、神に知恵と力を求めるのです。

「六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。…『これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。…今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。』…七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。」(22~27節)

週の六日目には、マナが翌日の分まで与えられました。七日目は主が定められた安息日であり、人間の営みを休みます。それは単なる休日ではなくて、その一日を神にお献げするのです。七日目にはマナは降りません。その日にマナを集めたり料理をすることも置いて主に心を向けるために、主が備えてくださるからです。六日目に集めた分だけは、臭くならず虫も付かずに翌日まで取っておくことができました。しかし民の中のある者たちは七日目も集めに出て行き、何も見つけることができませんでした。

主は天地を創造されて七日目に安息されたゆえに、私たちはこの日を主のために取り分け、創造の御業を思い起こします。またこの日は神の救いの御業を思い起こす日でもあります。安息日にもマナを集める方が安心だと思ってしまう私たちですが、主は御自身を第一として生きる者の生活を、必ず守ってくださいます。安息日に心身を休め主を礼拝することも、神がお与えになった必要不可欠の恵みです。今は礼拝に集うことが難しい方も、日曜日には何かの形で主に心を向け、道が開かれることを信じて祈っていきましょう。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:32-33)

「イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。」(35節)

「マナ」という名は「これは何だろう」という意味の言葉から来ています。マナは一度や二度ではなく、四十年にわたる荒れ野の旅路において、イスラエルの民に毎日与えられ続けました。民は壮年男子だけで60万人とあります(12:37)。これに女性や子供などが加わった正確な数はわかりませんが、全員を人間の力で養うことは到底できないほど、大勢の民たちがいたことは確かでしょう。

なぜ神は、不信仰で不平ばかり言うイスラエルをゆるし、驚くべき奇跡をもって養い、カナンの地へ導き続けられたのでしょうか。それは、神がそのようなお方だからとしか言いようがありません。イスラエルの民の側に、愛される理由などないのです。ただ主の愛のゆえにです。私たちが神の子とされたのも、私たちの力や行いには一切よりません。神が主イエスの十字架のゆえに、私たちの罪を赦し神の子とするとお決めになったからです。イスラエルを最後まで守り導かれた主は、私をも見捨てられることはありません。神は私たちが神の民となっていくには時間がかかり、訓練が必要なことをご存じで、私たちを養い、導き続けてくださいます。

イスラエルの民は、今を我慢すれば乳と蜜の流れる地に暮らすことができると期待して、荒れ野を歩いたのかもしれません。しかし主が民を約束の地に導き入れたのは40年の後であり、実際に約束の地に入ることができたのは主に従った者、若い世代でありました。私たちでいえば、この体の命が終わった後に天国に行くことだけを救いと考えていないでしょうか。しかしそうではなく、今も現実のただ中で与えられ続けている主の恵みを味わっていただきたいのです。主と共に歩む今日という日は、すべてが恵みであり救いです。深い暗闇のような時も、希望の朝にも、主のお与えくださった永遠の命をかみしめましょう。御国に行く時まで、神は私たちに必要な肉の糧も霊の糧も与え続けてくださいます。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:32)主は真実な方です。祈りましょう。