「清いもの、清くないもの」1/22 隅野徹牧師

  月22日 降誕節第5主日礼拝
「清いもの、清くないもの」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書13:1~20

 今朝も、ここのところ続けて読んでいます「ヨハネによる福音書」の「十字架につながる場所から」語ることにします。今回の箇所は、イエスが弟子たちの足を洗われる有名な箇所です。約1年前にも一度お語りした箇所ですが、今回は「イエス・キリストによる罪のきよめ」ということに主眼を置いて語らせていただきます。

 山口信愛教会は「メソジスト教会」としての流れを持った教会ですが、メソジストの源流にはイギリスのジョン・ウエスレーという人がおり、その人が強調した教えが「キリストによるきよめ」です。

 伝統的に大切に守ってきた、この「きよめの教え」を思い浮かべながら、今日の箇所を味わっていただいたらと願います。

 まず簡単にこの箇所のあらすじをお話しします。

過越の祭りの前日、つまり十字架に掛かられる前日の夕方、イエスと弟子たちはエルサレムの二階座敷で「過越の食事」に着きました。ヨハネによる福音書には食事の様子、とくに他の福音書が記している「聖餐の制定」の様子が出てきていませんが、実際はそのやり取りがあったと思われます。

4節にあるのですが、食事が終わったあと、イエスは席から立ち上がり、5節、弟子たちの足を洗い始めたと記されています。

当時、人々は素足にサンダルを履いて外出していましたから、足はいつもほこりで汚れていました。そうして汚れた人の足を洗うのは、奴隷の仕事でした。

それなのに!イエス・キリストは、弟子たちの足を洗い始めたのです。

8節でシモン・ペトロは「わたしの足を決して洗わないで下さい」と願いましたが、イエスは12人全員の足を洗われたのです。その中には、この後でイエスを裏切るイスカリオテのユダも含まれていました。

この後、再び席につかれたイエスは弟子たちに14節と15節で語られるのです。「主であり、教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだ、あなたがたも、互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、模範を示したのである」

このようにイエス・キリストは、身をもって弟子たちに、「互いに足を洗い合う」よう、手本を示されたことが分かります。

ここでイエスが教えられる「足を洗い合うこと」とは「悪いところを指摘し注意し合って、欠点が直されていくこと」ではありません。その真反対で、イエス・キリストがなさったように、「相手の一番汚い、心の罪を受け入れ合い、愛し合うこと」なのです。「犠牲をともなう愛」です。

イエスは「弟子たちの足を洗われ」そして「十字架にかかって死なれること」によって「低い者となって徹底的に愛する、そのことによって、人々の罪を取り除く」ことを表されました。

イエスによって神の愛を知ったものは、その恵みを受けるだけで終えるのではなく、今度は自分も「相手に対して低い者となり、相手を愛する者になるように」教えられ17節で「そのことを実行することの幸い」が語られます。その後ユダの裏切りに関して予告がなされます。

以上が今日の箇所の流れでした。

お伝えしているように、今日はこの箇所を「イエス・キリストによるきよめ」という主眼で、詳しく見たいと願います。

ポイントとなる聖書箇所は2か所あると思います。

8節後半の「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」というイエスの言葉と

10節後ろ「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」というイエスの言葉、この二つを中心に深めてまいりたいと願います。

まず8節からです。ペトロは、師であるイエスが足を洗われようとしたとき、「わたしの足など、決して洗わないでください」と答えます。当時の人は、体の一番汚いところとして「足」を捉えていたことが分かります。これに対して、イエスは「洗わなければ、何のかかわりもないことになる」と答えられます。

これは「足を洗うことなしに、イエスとの関係はつくられない」と言われているのではなく、「一番汚いところをイエスに洗ってもらう、ということがなくしては、イエスとの本当の関係を作ることはできない」ということが言われているのです。

つまり、ここでは「神の子イエス・キリストによって足が洗われる」ことが、

「体の中で最も汚い心を、イエス・キリストが十字架の贖いの死によって洗い清める」ことが象徴的に教えられているのです。そして「すべての人はイエス・キリストの十字架の贖いを受けなければ、神と関係なくなってしまう」つまり「神が住まわれる天の国にはいくことができない」というようなことが示されているのです。

人間の心の汚れは、自分の努力によってきよめられるのではありません。「イエス・キリストによってのみ」取り除くことができるのです。

これは聖書全体が証ししていることです。神のイエス・キリスト以外に人の罪はきよめられません。ですので、大切なのはその「イエス・キリストに、自分の中の汚い部分を差し出す」つまり「きよめていただきたい!」と願って、キリストの御前に出ることです。

このことを頭に入れて10節を読んでみましょう。

一つ目の文に出て来る「足だけ洗えばよい」とは、イエス・キリストにきよめてもらわなければならないのは「ピンポイントで、最も汚いところである」つまり「どの部分よりも、心が!」きよめられる必要があることが教えられているのです。

そして二つ目の文にある「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」とは、次の11節にあるように「イスカリオテのユダ」を通して教えられている言葉なのです。

ユダも他の弟子と同じように、イエスに足を洗ってもらいました。しかし、肝心の心は「閉ざしたまま。偽ったまま」だったことがここで表されているのです。

これと同じように、イエス・キリストが十字架に掛かり、罪を贖ってくださったことで「すべての人が清くなる道は開かれている」のです。しかし「神がお遣わし下さった救い主イエス・キリストによってきよめられたい」という、その心を差し出すことがなければ、きよめられることはできないのです。

大切なのは「きよめられたい」と願うその心です。きよめられるのに、他の人間の側の行いは関係ありません。きよめられるのに必要なことはすべて「イエス・キリスト」が備えてくださっているのです。私達はただ幼子のような心でキリストの前に進み出ましょう。

「きよめていただいた」という喜びを心に抱いた者が、「相手の一番汚い、心の罪を受け入れ」そして「低い者となって徹底的に愛する…」そうなれば、この世は神の御心に近づき、「平和」な方向に向くと私は信じます。

素直な心で「イエス・キリストの前に出て、きよめられる」その恵みを、ここにおられるお一人お一人が知っていただくことを願います。

(沈黙・黙祷)