「渇いている人はだれでも」5/12 隅野徹牧師


  5月12日 復活節第7主日礼拝・母の日
「渇いている人はだれでも」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 7:32~39

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 今日の聖書箇所の中心は37節、38節のイエス・キリストの言葉です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。これを神の子であり救い主であるイエス・キリストは大声で「訴えるようにして!」語られるのです。

この言葉は、エルサレムの都が仮庵の祭で盛り上がっている時に、神殿で行われた「祭儀」に参加しようとしていた人に対して投げかけられたものです。この祭りに合わせてエルサレムの上ってこられたイエスは、10節で分かるように「人目を避けて、隠れるように」されていました。その理由は25節にあるように「殺そうと命を狙う者がいたから」だと考えられています。

仮庵の祭は過越祭、五旬祭と並ぶユダヤ三大祝祭の一つです。しかし、神を礼拝し、感謝をささげる場だったはずの「祭り」が形骸化していました。 盛り上がるイベントにただ参加しているような感じで「神に感謝をささげない、神に願い求めの祈りをしない」そういう人々に対して「どうか分かってほしい!」そのような切迫感をもって訴えられる、イエス・キリスト。命を狙われるなどしていたイエス・キリストが危険を顧みずに大声を出して訴えられているのです。

私は今回ここを黙想していて、主の言葉は「このわたしに」呼びかけられているものだ、と感じました。ただ漠然と神の前にでている。感謝や切なる願い求めがないのは、私も同じだ。自分の心の渇きに本気で向き合っていないからこそ、人の心の渇きも癒せない…そのように捉えた上で、この箇所「主の叫び声」を捉えるなら、本当に心に迫るものがあると感じます。

ぜひ、皆様も「ご自分にも主は大声で呼びかけられている」そのように捉えてくださり、御言葉の恵みを受け取っていただければ幸いです。

今日の箇所は32節からですが、ここの舞台の背景となっている「仮庵の祭」について簡単に説明させてください。これはイザヤ書12章3節の「あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む」という預言に基づく儀式でした。

かつてイスラエルの民は、エジプトを出た後「水などどこにもない荒野」で渇きを覚えました。しかしモーセが神に命じられた通りに岩を杖で打つと、そこから水が出て、民は十分飲むことが出来ました。それを記念して、仮庵祭には水注ぎの儀式が行われました。

そして仮庵祭において人々は、救いの水を与えてくれる救い主を待ち望んだのです。祭の最終日には37節にあるように、彼らの熱気はピークに達します。

このように、神の救いを待ち望むときであるはずの「祭」を、盛り上がるイベントにように捉える人がいる一方で、32節から36節では「祭の喧噪に紛れて、イエスを逮捕しよう。そして命さえも奪おう」と企んだ人たちがいたことも記されています。それが「当時の宗教的指導者たち」だった祭司長やファリサイ派なのです。

命を狙っている彼らに対しても、イエスは「愛をもって」真実をかたられ、悔い改めを促そうとされます。しかし指導者たちは「イエスが、天の父なる神のもとから遣わされた」ということを全く理解できていない様子が33節以下でわかります。

このイエスに対しての無理解ですが、これは「祭司長、ファリサイ派」だけでなくて、このときエルサレムの都にいたすべての人々の「無理解」も表していると言われます。そして、ここを読む一人ひとりもまた、「イエス・キリストがどこから遣わされて、どこへお帰りになるのか」が、心から受け止めているわけではない、ということが表されているといわれます。              

そのような「一人ひとり」に対して、イエス・キリストは大声で語られるのです。

イエスが大声で語られるというのは非常に珍しいことです。しかも、先ほどもお話ししたように「命を狙われているような状況にありながら、それでも大声で訴えられる」というのは、ここで語られたことが本当に重要なことであることの証しです。

その言葉を詳しく掘り下げてまいりましょう。

まず「渇いている人は…」と訴え始められますが、この「渇いている」とは、いわゆる「水分を摂取したい渇き」ではなく、心の渇きです。

私たちは渇きを覚えると、心の隙間を埋めるために様々な楽しみを求め、時間やお金を費やします。しかし…それは一時しのぎであって、醒めてしまえばいよいよ渇きを増すことにしかならないことがほとんどではないでしょうか? 

神殿での仮庵の祭りの祭儀を「ショー」や「イベント」のような感じでとっていた、道行く人々に対し、大声でイエスは「あなたたちは祭りを祝っている。しかし本当の平安、本当の救いがそこにあるのか。あなたたちの渇きはそんなことで解決するのか?」と訴えかけておられるのです。

神はわたしたちの造り主です。その神の独り子であるイエス・キリストは「わたしたち人間の中にある深い渇き」をよくご存じです。その渇きを癒す、生ける水を、わたしたちに与えるためにキリストは来られたのです。

イエスは旧約聖書で約束され、仮庵の祭りが願い求めているものを本当の意味で実現するのは私なのだ!と宣言しておられます。

そのイエスが与えることのできる水は「生きた水」だと語られていますが、それは「各々の内から、川のように流れ出る水だ」と38節の終わりにあります。

この言葉を聞いて、同じヨハネによる福音書4章の「サマリアの女」に対して、イエスが掛けられた言葉を思い出した…という方もおられるのではないでしょうか。

人目を避けて井戸の水を汲みにきたサマリアの女。彼女は「ただ水を汲みに来たのではなくて、心の中に渇きを覚えている」ことをイエスは見抜いておられました。それで彼女に向かって「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われたのです。

サマリアの女は、イエスとの対話の中で、自分の中にある「ドロドロとした思い、罪や汚れがあることを認めつつ」それが、目の前におられるイエス・キリストによってきよめられたい、赦されたいと願いました。そのことで「永遠の命に至る水」は彼女の中で湧き出しました。さらに「外に向かって流れ出た」のです。彼女は今まで、心を閉ざしていた町の人々に「本当の渇きをいやしてくださる、イエス・キリスト」を伝えて回ったのです。

このサマリアの女におこったのと同じことを「このとき祭りを楽しむためにエルサレムにきていた、心が渇いている大勢の人々も体験してほしい!」その思いでイエスは、お語りになったのです。

自分の罪を認め、そこから救いに導かれるイエス・キリストを信じて受け入れることで、心の中に「永遠の命に至る水」が湧き出し、それが「他の人に向かって流れ出す」という渇くことのない恵みを得るようにと、イエスは熱い思いですべての人に招かれているのです。

39節では、「人の心の中で起こる、その生きた水が湧き出る変化」は聖霊によっておこるのだ!と教えられています。イエスがまだ栄光を受けておられないので「霊」がまだ降っていない…など分かりにくい表現ですので、すこし説明させてください。

旧約時代、聖霊は「預言者」など特定の人に、しかも一時的にしか与えられませんでした。しかし、新しい時代がくると、つまり救い主が来られると「約束された聖霊は、豊かに注がれるのだ」と預言者たちは約束しました。

その言葉どおり、イエス・キリストの十字架と復活、昇天を通して、聖霊はイエスを救い主として信じるすべての人に注がれるようになったのです。つまり38節でイエスが大声で叫ばれた「人の渇きを根本から癒す変化」は、いま私たちは受けることができるようになっているのだ、ということが39節で教えられています。

自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れることで聖霊を受ける、そのことで私たちは「イエス・キリストを内に宿して生きる者」となります。そうすることで生ける水の源であるイエス・キリストからの水が湧きあがるようにして、私たちは、内側から新しく造りかえられるのです。

そればかりではありません。その私たちの中からも、生きた水が川となって流れ出るようになり、この世にあって「潤された園」、「水の涸れない泉」として用いられる。イザヤの預言をもとにして行われた「仮庵の祭りが」が目指していた「本当の潤い、魂の渇きの癒し」が、私たち一人ひとりを通しても「もたらされる」ということをイエスは命がけで教えようとされている…そのように私は受け取りました。

皆様はいかがでしょうか? このイエスの「命をかけての訴えかけ、本気の招き」を受け取られたでしょうか? もし受け取られたとして「そうまでして、ご自分に訴えかけられている理由は、何だ」と思われたでしょうか?

 本当に「心に潤いのない」今の世の中だと感じます。そして、それはここに集っている一人ひとりにも言えるのではないでしょうか。正直私もそうです。

心の中がカラカラな状態で、キリストを伝えられないのはもちろんですが、人を助けたり支えたりすることも「難しくなる」のではないでしょうか?

まずは、自分の心の中が「渇いている」ことを認めて、素直な心でイエス・キリストの前に出ましょう。キリストを救い主として信じ、「自分中心の思い」を捨てるなら、そこに聖霊が宿り、少しずつ「心が潤う」のです。そして、キリストによって心から湧き出る水は、自分を潤すだけでなく、周囲にいる「苦しみ、悩む人」の心をも潤すために神に用いられると私は信じます。

キリストが熱く「心の渇いている者よ!私のもとに来て飲みなさい!」と言われているのは、皆さん一人ひとりのためであるだけでなく、皆さんの周りの人々のためでもあるのです。教会の仲間、ご家族、職場の同僚、ご友人の心を潤すために、私たちは原点に立ち返り、素直な心でキリストの愛を受け取るために、一歩前へ出ましょう。

(祈り・沈黙)