1月26日説教
「父なる神に帰るまで」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書 ルカによる福音書15:11~20
本日は、主イエスが語られた放蕩息子のたとえの初めの部分、弟息子の個所です。ここには、神から離れた私たちが神のもとに帰るまでの道のりが記されています。3つの点に目を留めて御言葉にあずかりましょう。
1.御父から離れ、賜物を浪費することで満たされると思っていた自分。(12~13節)
2.限界の中で我に返り、御父のもとこそ帰るべき場所であることを知る。(17節)
3.父なる神のほうから私を見つけ、憐み、走り寄ってくださる。(20節)
このたとえ話には父と二人の息子が登場しますが、これは父なる神と私たち人間を例えています。このたとえは15章の最初に出てくる「徴税人や罪人」、そして「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に向けて語られた、一連のメッセージの3つ目です。主イエスは、話を聞こうとして近寄って来た徴税人や罪人を放蕩した弟息子に、罪人たちと一緒に主イエスが食事をしていると不平を言ったファリサイ派や律法学者たちを兄息子に重ね合わせておられます。そして主のメッセージは私たちにも語られています。私たちは二人の息子のどちらの性質も持ち合わせています。そして二人の息子たちがともに父に帰る必要があることを、主は語っておられるのです。
1.御父から離れ、賜物を浪費することで満たされると思っていた自分。(12~13節)
ある人に息子が二人いました。ある時弟が父に言いました。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」。財産分与の方法は、旧約の律法に定められていました。長男は二倍のものを受け継ぐとされており、この場合兄と弟は父の財産の三分の二と三分の一を受け取ることになります。しかしユダヤ人の世界においては、生前に父が子に財産を分与することは通常なかったようです。
息子が父にかけた言葉は、彼がすでに父親を死んだものと見なしたということを意味します。息子は生きるために必要な一切のものを父から与えられ、何不自由なく今まで過ごしてきました。しかしそのことは彼の意識に上ることはありませんでした。弟は父のすぐ側、父の家にいましたが、実はその心は旅立つ前からすでに遠くにいたのです。主イエスは神と罪ある人間とが、このような関係であると示されます。神が近くにおられるにもかかわらず神は死んだ存在、あるいは死んでいてほしいのです。
さて当時の財産は不動産と家畜でしたが、父が健在なうちは子どもは所有権を得るだけで、財産を自分の自由にする権利は持ちません。ところがこの息子は「全部を金に換えて」遠い国に旅立ちました。つまり換金することを父が容認したということです。(参考:ローマ1:20~32)父は力ずくで弟を家に留め置くこともできましたが、そうしませんでした。強制力によって心は変わらないからです。好き勝手にすることによって、息子も父も苦痛にさらされるとわかっていたとしても。そして父にとって兄弟はどちらも大切ですから、父は兄にも財産を分けてやりましたが、兄は父のもとに残りました。
神を侮り、死んだ存在と見なしていても、求めるものを手に入れることはできるかもしれません。しかしこのたとえを続けて読むと、自分の願いどおりになることが幸せとは限らないと示されてくるのです。今日の箇所の後には家に帰った息子が父に歓迎される様子が出ていますが、その歓迎の仕方や雇い人たちが大勢いてパンに満ち足りていたことなどから、この父は広大な土地を持つ富豪であったようです。息子が受け継いだ財産も相当なもので、父から自由になって遠い国で悠々自適に暮らすことができたことでしょう。しかし自分で労して得たのではないお金は、あっという間になくなるものです。遠い国での自由気ままな生活は長く続かず、いつしか彼は一文無しになりました。そして悪いことに、その地方にひどい飢饉が起こりました。
すべてを使い果たし飢えに苦しむようになった時、彼はその地で身を寄せることができる人のもとに行きました。その人は彼を畑にやって豚の世話をさせましたが、食べ物はくれませんでした。豚はユダヤ人にとって汚れたものとして食べることを禁じられていた動物です。豚を飼っているこの地方は、神を知らない世界を表しています。息子が豚を飼う者になったというのは、彼が堕落してひどく落ちぶれたことを示します。弟は豚が食べているいなご豆…乾燥した地でも育つ植物で、チョコレートのような風味があるそうですが…その豚のエサで腹を満たしたいと思うほどでした。
神を無視し、神に与えられた良きものを使い果たして壁にぶつかった時、私たちは自分の力で打開策を探し、満たしを求めます。最初はそれで道がひらかれたと思うかもしれません。しかし同じ地方で飢饉に苦しむ人に助ける力がないように、私たちと同じく罪と死に覆われたこの世に助けを求めても、一時的な満足しか与えることはできません。まもなく、自分は孤独であり、豚にも劣る価値のない人間だということを思い知らされるのです。
2.限界の中で我に返り、御父のもとこそ帰るべき場所であることを知る。(17節)
しかしこの喪失感こそが、彼を我に返らせました。痛い思いをし必要に迫られて初めて、私たちは大切なことに気がつき、生き方を変え、それが自らの力になっていくのではないでしょうか。17~19節をお読みします。「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
彼は自分がどんなに大変なことをしてしまったのか、そして今進んでいる方向にもう一歩踏み出せば、滅びしかないということを悟りました。彼の罪は父に対するものであると同時に、天(神)に対するものでもありました。私たちが隣人を傷つけ悲しませる時に、それは神に対して罪を犯していることなのです。
父から与えられたものが手元に満ちている時には、自分がどれほど父から遠く離れてしまっているかという現実、その不幸に気付きませんでした。彼がそれに気付いたのは、すべてが失われたときでした。飢饉が起こったから彼が不幸に「なった」のではなく、すでに不幸な状態にあったことが、飢饉によって明らかになったのです。何かを得ることが必ずしも幸福ではないように、何かを失うことも不幸とは限りません。失うことが「我に返る」機会となりうるからです。「そこで、彼は我に返って言った。」(17節)この言葉は非常に重要です。原文では「彼自身に帰ってきて」となっています。自分が本当は誰であるか気づいた時に、帰るべきところは父の家であると知るのです。
彼は決心した通りに方向を変え、家に帰る一歩を踏み出し、歩き始めました。聖書において罪とは、神から遠く離れていることです。そのような自分に気づき、父なる神のほうに向きなおって具体的に歩き始めることを「悔い改め」と言います。私たちは日々の生活の中で、「神に立ち返るべきか否か」という選択に迫られます。将来をよいものにしてくれるだろうと選んだ道、手に入れたものが、しだいに御父の家から遠くへと私たちを引き離すものとなり、ついにはすっかりその虜(とりこ)になってしまうことがあります。祈ることができない、神への奉仕や隣人に愛を注ぐことに困難を覚えているなら、私たちは御父の家から離れた遠い国にいるのです。
しかしそんな自分に気づいたなら、遅すぎることはありません。いつでも、家に帰ることができます。父の家とは私という存在の中心、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という神の語りかけを聞くことのできる場所です。この声がすべての神の子たちに語られており、闇の世界のただ中にあっても光の中に留まりつつ、自由に生きることを可能にしてくれます。愛されている者としてただで受けたように与えることができ、恐れを抱いたり報いを求めたりせずに相手と直面し、慰め、さとし、励ますことができます。
さて父を死んだものとみなし、分与された財産のすべてを使い果たし、飢饉になったからといって帰ってくる。さすがの弟息子もこれは虫が良すぎる、受け入れてもらえるはずはないと考えました。それでも生きていくために、彼は息子としてではなく、名もなき雇い人の一人としてもらえないだろうかと思ったのです。父は赦してくれないだろう、父と触れ合うあたたかい交わりが戻ることは二度とないだろう。それでも遠くからそっと父を見て、少しでもお役に立てれば。そう思ったのではないでしょうか。「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」このお詫びの言葉は筋が通っています。しかし、たとえ話は常識をはずれて進みます。21節以降を見ますと、父は「雇い人の一人にしてください」という言葉をさえぎり、息子として破格の待遇で迎えるのです。真の愛は時に非常識で、非効率的です。それでも振り返れば私たちが生かされた時、いつも神と周りの方々の、常識を超える愛が注がれていたのです。
財産を与えるだけなら、父でなくてもできます。しかし私たちはこの父の姿に、「お前は私の愛する子。どんな失敗を犯そうとも、誰が責め立てても、永遠にお前は私の子だ」という、絶対的な宣言を聞きます。これこそが父の本当の権威、子として愛し抜くとてつもない力です。罪人である私たちの側には確かに、神の子どもとして受けいれていただく資格はありません。けれども父なる神が、資格を与えるのです。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ福音書1:12)
なぜ弟がこんな待遇で迎えられたのか。わが子だからです。愛するわが子が帰ってきてくれたことが、父の大きな喜びだったからです。それ以外の理由はありません。神を離れた私たちが御父の子として再び生きる道も、そのような愛によって受け入れられる以外にはありません。
3.父なる神のほうから私を見つけ、憐み、走り寄ってくださる。(20節)
弟が決心し家に向かって歩き出したこと、私たちでいえば悔い改め神に向きなおるのは、とても大きなことです。しかし悔い改めの行為によって全てが完結するのではありません。20節には、「まだ遠く離れていたのに」とあります。家の近くまで来ていながら、父と子との間には、まだ長い距離がありました。息子は、労働と賃金、命令と服従だけでつながっている、大勢の雇い人のうちの一人にでもなれたら、と思っていたのですから。ではその距離を埋めたのは誰だったでしょう。父親です。父親が息子を見つけました。そして父親はいてもたってもいられず、内臓がえぐられるほど憐れに思い、一分でも一秒でも早くと走りました。そして息子の首を抱き、接吻しました。ここで息子は本当の意味で息子となったのです。
神は子としての私たちの尊厳を完全に回復したいと願っているのに、私たちは自分を雇い人の立場に置きたがります。私たちは、まったく新しい生き方が可能になるほどの赦しを、本当に信じ願っているでしょうか。雇い人であれば深入りせずに安全な距離を保っていられますし、逃げ出したり報酬に難癖をつけることもできます。一方私たちが愛されている子にされるということは、尊厳と共に、私たち自身が将来父に似た者となるために、神と共に生きる責任が与えられるということです。しかし父なる神に従うことは不自由なことではありません。主イエス・キリストが教えてくださった神の子としての歩みはあたたかく、愛することにおいて真に自由でした。
神と人の距離を埋めてくださるのは、神御自身です。父なる神が独り子キリストを世に遣わし、私たちの罪を赦すために十字架にかけられました。それはまさに、人間に走り寄る父の姿を映し出しています。人間の力によってすべての罪の償いをして神のもとに帰ることはできません。しかし私たちが何かできたからではなく、神から与えられた救いの恵みのゆえに、その距離はゼロとなり、神の子として生きる道が拓かれるのです。原文では「彼の首の上に身を投げかけ」とあります。やせ細り、罪悪感と恐れの中でひれ伏していただろう息子の上から、父のあたたかい腕が降ろされて彼を抱きます。天から降られた神の御手、御子キリストだけが、私たちを抱きかかえ父のみもとに連れ帰ってくださいます。
なぜ罪人たちと食事をするのかと問われて主イエスが話された三つのたとえ話のどれも、神の自発性を強調しています。父は遠く離れていたのに、出て行った時とは変わり果てた姿の息子をすぐに見つけました。息子が出て行ってから、彼を案じて祈り胸を痛めない日はなかったのです。きっと戻ってくると信じて、日に何度も息子の姿を求めて外に出ていたのでしょう。私たちが神を見出したいと思う以上に、神は私たちを見出したいと切望しておられます。
この父に現わされている父なる神の愛を受けた私たちは、一人でも多くの方が神のもとに帰ることができるように祈り、伝えるようになります。「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。」(Ⅱコリント12:15)コリント教会にむけて記されたパウロの言葉は、放蕩で財産を使い果たしてしまった息子と同じ言葉が使われていますが、なんとその用いられ方が違うことでしょうか。神がお与えになった賜物、自分自身は、愛する魂の救いのために使い尽くすよう、ゆだねられたものです。キリストが私たちにすべてをお与えくださったことによって私たちは愛を知り、キリストの復活の命が与えられました。そのように、自分を喜ばせるために用いていた賜物を神と隣人のためにささげるならば、ささげた以上に豊かに与えられ、神の喜びに満たされるのです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)
弟は父から受け継いだ目に見える財産をすべて失ってしまいましたが、父の子であるという事実だけは残りました。実はそれこそが、彼の真の財産でした。私たちが神から受け継ぐ真の財産は、神の命そのものです。神の国、神のご支配のもとで永遠に生きる命です。その恵みに立つときに、必要なものは添えて与えられます。(マタイ6:33)
「愛する子よ」と呼びかける声に耳を傾け続ける限り、悪魔の執拗な攻撃は何の害も及ぼしません。今日も神は私たちを見つけ、憐れに思い、恵みを与えようと走り寄ってくださいます。息子と呼ばれる資格はありませんと拒むのではなく、こんな私であっても神の子として迎えてくださることにただ感謝し、御腕にすべてをゆだねましょう。