「神の人よ、追い求めなさい」9/24 隅野瞳牧師

  9月24日 聖霊降臨節第18主日礼拝
「神の人よ、追い求めなさい」 隅野瞳牧師
聖書:テモテへの手紙Ⅰ6:2c~12

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 本日は、神の人の求むべきものについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.神を畏れる者は満ち足りる(6節)

2.私の受けた福音をゆだねる神の人を育てる(11節)

3.主のみ跡を追い求め、信仰の戦いを戦い抜く (12節)

テモテは祖母と母から信仰を受け継ぎ、パウロの第2次伝道旅行において同労者に選ばれて以来(使徒16:1~)、忠実にその任にあたった協力者です。やがてテモテはエフェソの教会を牧会しながらパウロに代わって小アジアの諸教会の指導に当たるようになりました。エフェソの町は女神アルテミスの信仰が盛んであり、間違った教えを説く者たちによって教会が荒らされていました(使徒20:29~31)。この手紙は教会に残った者を強め、テモテが教会でどのように行動すべきかを教えるために書かれたのです。

 

1.神を畏れる者は満ち足りる(6節)

「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこからねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。」(3~5節)

 エフェソの教会に「異なる教え」を説く教師たちが入ってきていました。主イエスの語られた御言葉や、使徒たちが証し、教会を建て上げてきた福音とは違う教えを語って、教会を自分たちの方へ引き込もうとする者たちが現れたのです。作り話や系図に心奪われ、聖書にない偽りを教え、5節で言われているように信心を利得の道と考えていた者たちでした。テモテは彼らから兄弟姉妹を守り、正しい教えによってキリストの教会を建て上げる務めを負っていました。

信心をこの世での利得の道とする教えに流されると、皆が自分の利得にしか関心がなくなるのですから、ねたみや争いが起きます。根拠のないことを言って人の名誉を傷つけたり、自分に悪意をもっていると疑ってかかり、絶え間ない言い争いが生じるのです。互いに愛し合い、人々の救いのために一つとなって労すべき神の家族の中にも、このようなことが起こります。私たちは御言葉に普段から養われることを通して、何が本当のものかを知り、神から引き離そうとする働きを察知する感覚が研ぎ澄まされます。

パウロは、神を敬うことを通してお金儲けをしようとする者たちに憤ります。異端と言われる宗教団体は、一般に金銭に対して貪欲です。教えが健全かどうかを見分けるしるしは、教える人が利得、つまり自分の利益を求めているかどうかです。しかしパウロはそれを認めたうえでなお、神を畏れ敬って生きる人の生涯にはまったく質の違う大きな利得がもたらされると語ります。

「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」(6節)

「信心」は「敬虔」と訳されることもあります。信心は神に対して人間が本来取るべき態度や姿勢、神への畏敬の表れです。信心・敬虔は御子が示された、父なる神に対する信頼と献身の生き方を指します(ヘブライ5:7)。神の子とされた私たちも、御父に対して御子のごとく生きるよう勧められています。信心は聖なる神の御前にあるという意識、悔い改めと憐みを求める心が伴うものです(参照;イザヤ6章、ルカ23:40~42)。

ここで言われている「利得」は、神を信じるなら何不自由ない生活が保証されるということではありません。神がすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じ、神が与えてくださるものを感謝して受けることができるということです。信仰生活とは「さらに得る」ことではなく、「満ち足りることを知る」ことです。御子は十字架の死に至るまで貧しくなられ、私たちをまことに満たす永遠の命を与えてくださいました。それはわたしたちが主イエスご自身を持っている、主が私たちのうちに、私たちが主のうちに生かされているということです。その恵みを知る時に、これまで価値を置いていたものがなんと貧しく、過ぎ去ってしまうものであったかに気づきます(フィリピ3:5~8)。

「御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか(ローマ8:32)」。もし与えられないのであれば、本当に必要なものではない、またはもう少し時が必要なのかもしれません。そして自分の思っていた与えられ方とは違うこともあります。願いがかなうように祈っていた自分のほうが、変えられてしまった。そういうことはたくさんあります。

「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」(7~8節)

何も持たずに生まれた私たちに、神はすべての必要を備え、私たちを愛し支えてくださる多くの方に出会わせてくださいました。どんなにこの地上に残しても、最後は何も持っていくことはできません。ですから自分自身については、生きるに必要な分のものがあればそれで満足すべきです。私たちはないものの方にどうしても目が向きがちですが、恵みを数えることを始めましょう。私たちが世を去っても残るのは人に与えたもの、愛と福音です。良い行いに富み、喜んで分け与えましょう。それが天に宝を積むということです。

「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(10節)

金銭欲こそが腐敗の要因であり、ねたみと争い、疑惑の源です。地上の富に信頼を置く者は天の神を求めません。金銭は人々と連帯するための道具となるよりも、むしろ利己的な論理で世界を服従させて平和を妨げます。富は追い求めるほどもっと多く求めるようになり、自分が豊かになるために他者が苦しんでもなんとも思わないようになるのです。当時の教会にも、金銭を追い求めて信仰から迷い出て、ひどい苦しみによって自分自身を突き刺すことになった人がいました。

多く与えられていること自体は、悪いことではありません。私たちは、自分に与えられている富や才能を正しく管理する使命が与えられています。しかし裕福になったり有名になったりすることは人生のゴールではありません。そして多くの誘惑があります。クリスチャンのゴールは御子に似た者とされること…神と人とを愛し、神の栄光を表わすことです。多く与えられているならば、それを御心に従って用いていきましょう。

 

2.私の受けた福音をゆだねる神の人を育てる(11節)

「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」(11節)

「神の人」というのは、特別な奉仕のために神から立てられた者という意味です。イスラエルの民をエジプトからカナンの地まで導き、律法を伝えたモーセは神の人と呼ばれました。預言者エリヤ、ダビデ王と云った、神に大きく用いられた器もそうです。ですからパウロが若い伝道者テモテに同じように呼びかけたことは驚きです。テモテは震えつつも、どんなに励まされたかと思います。テモテは精神的にも肉体的にも弱さを抱えており、臆病になることもありました。しかし特別な奉仕のため神ご自身から立てられた者という点においては、テモテはモーセやエリヤと同じです。パウロには主への畏れ、主がお立てになった器を尊ぶ信仰があったのです。

「聖書はすべて神の霊の導きのもとに書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人(=神の人)は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(Ⅱテモテ3:16~17)とあるように、すべてのクリスチャンもまた神の人であり、聖霊の導かれる御言葉に従うことによって訓練され、整えられます。

神の人はまず、異なる教えを説く者たち、すなわち御言葉に従わないで争いを起こし、金銭を追い求めるような生き方を避けなさいと命じられています。問題に直面すると、自分で解決しようとして深みにはまってしまうことがありますが、周りの人のためにも、不必要な戦いや傷を避けたほうがよい時もあるのです。そして正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めるよう語られます。私の信仰はすでに完成している、すべてを知っているから私が正しいことを教えてやるのだと思うならば、偽教師たちと同じ過ちに陥っているのです。

パウロは別の箇所で語っています。「わたしは、既にそれ(救い・キリストに似た者とされることの完成)を得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(フィリピ3:12)」。信仰の歩みを続けるほど、私たちは自らの罪深さ、弱さ、そして神の大きさ、深さを知らされていきます。自分が何も知らない、ということを知るのです。

神の人の追い求めるべきものを見ていきます。正義は神との関係において正しく生きることです。御子の贖いのゆえに義と認められた者は、神と人の前に正しく歩むことを願い、内なる罪と戦います。神の正義が地上にもたらされるように仕え、人々の救いを願って福音を宣べ伝えることになるでしょう。信心は、自分が神の前にあることをわきまえて生きることです。その結果、信仰、愛、忍耐、柔和といった神のご性質がもたらされます。これらのものは、聖霊の導きに従う時に与えられる実です。

信仰は神から差し出された手を受け取り、決断して神に従っていくことです。愛は神と隣人への愛です。まず罪赦されていることを知り、神の愛をいっぱいに受けることから始まります。忍耐は救いの約束の実現を待ち望んで生きることです。柔和は私たちが罪から救われ、神と共に生きるために、黙々と十字架の死に向かわれた主イエスのお姿です。ひたすら神に支えられているという確信があるので、人と言い争う必要がない、真の強さです (Ⅰペテロ2:23)。これらのどれをとっても私たちには、欠けていると思わざるを得ません。特に隣人をお助けする上で、伝道にも牧会や運営する愛や知恵においても絶対的に貧しい私たちです。しかし欠けているからこそ主に願い、追い求めるのです。

すべての人が、誰かではなく「あなた」が、神の人として召されています。与えられた福音を分かち合い、日々神がしてくださったことをお話ししてみましょう。言葉にすると「実はわかっていなかった」ということがわかって、とても勉強になります。テモテが困難にぶつかったのは失敗ではありません。とにかく主に従って「やってみた」からです。そこに成長があります。

そしてまっすぐに主の道を歩もうとするテモテを、パウロが全力で祈り励ましたように、福音を宣べ伝えるあなたの歩みを応援してくれる人が必ずいます。私自身も苦しい時や、どちらに行けばよいか分からなくなった時に、多くの牧師や先輩方が時間を割いて真剣に向きあってくださいました。ある時は厳しくアドバイスをくださり、主を畏れることや伝道の喜びを身をもって示し、祈って送り出してくださいました。私たち自身が主のみ跡を追い求めるとともに、次の神の人をあたたかく見守り、育てることも大切です(Ⅱテモテ2:2)。

 

3.主のみ跡を追い求め、信仰の戦いを戦い抜く (12節)

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(12節)

テモテは洗礼を受けた時、あるいは福音宣教者に任命され按手を受けた時に、神と会衆の前で信仰を言い表しました。私たちがクリスチャンになったということは、永遠の命の完成を目指して、信仰の良い戦いをしながら人生を歩んでいくと決意したことを意味します。

信仰はある意味では「戦い」です。しかしそれは誰かと戦うのではなく競技、最後まで走り抜くという戦いです(ヘブライ12:1~2)。自分で努力して永遠の命を手に入れよ、と言われているのではありません。永遠の命はただイエス・キリストの十字架に成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちに与えられる賜物です。しかし、恵みによって備えられている命を得るまでには、迫害や罪の誘惑、試練…それを妨げようとする力が働きます。ですから私たちは先に走り抜かれた、信仰の創始者また完成者である主イエスを見つめて走るのです。

「永遠の命を手に入れなさい」。

パウロの働きを引き継ぐ若き同労者、テモテの魂を深く配慮して語られる言葉が、心に響きます。先ほど、キリスト・イエスに捕えられているから自分でも捕えようとしている、というパウロの言葉をお伝えしました。キリストに捕えられているとは、永遠の命に入れられているということです。神はパウロ、そして私たちを救いのうちに捕えて、絶対にその手を離すことはなさいません。その恵みと愛を知るならば、私たちはパウロとともに全身全霊で神のもとに走っていく、神に喜ばれる者に造り変えられたいと願わずにはいられません。それが神と共に生きるということです。

主イエスを信じた時に、私たちは永遠の命を与えられます。それは神と共に生きる日の始まりです。神と共に生き、きよめられていくことについて、ホーリネスの群の聖会で夫婦の例をあげて、講師が語っておられました。プロポーズを受けて結婚式を挙げた時が喜びの頂点で、その後は「あの時は良かった…」と思い返すだけが結婚生活ではありません。むしろ夫婦としての新しい関係の中で、苦しい時であっても共に乗り越えていくからこそ、本当の意味で愛し合う喜びを知り、夫婦となっていくのではないでしょうかと。

永遠の命は「物」や「資格」ではありません。神と愛し合って生きる命です。主イエスを信じて洗礼を受けた時が信仰者のゴールで、天国行きの切符をもらったのだからもう何もしなくてもよいのだとすれば、そこに生きた信仰があるでしょうか。教会にずっと来ていても救いの喜びを失い、あるいは教会から離れて世の中と何ら違いがない生き方を送ることになるのです。主との生き生きとした関係を保つこと、イエスは私の主であると身をもって告白し続けることは、厳しい戦いです。私たちの力ではできません。しかし私たちを主イエスの愛の内に捕えてくださった御父が、最後まで御自身と共に信仰の道を歩ませてくださいます。からし種一粒の小さな信仰をもって、この父の真実と約束により頼みましょう。そして私たちに委ねられた方々が、一人ももれることなく信仰の道を走り抜くことができるように祈り、仕えてまいりましょう。(祈り)