「弾圧を覚える礼拝」6/28 隅野徹牧師

  6月28説教 ・聖霊降臨節第5主日礼拝
「弾圧を覚える礼拝」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:テモテへの手紙Ⅱ4:1~8

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 私や瞳牧師が所属している「日本基督教団ホーリネスの群」では、毎年6月第四週の主日に「あることを覚える」礼拝を守っています。それは1942年(昭和17年)6月26日に起きた「特高警察によるホーリネス教会の弾圧」を覚える礼拝です。山口信愛教会に着任してから「弾圧を覚える礼拝」を持ってはいませんでしたが、今年は世の情勢も大きく変わる中、示されましたので語らせていただくことにします。戦時中、この日本で教会が弾圧されたことをご存知ない方も多いと思いますので、まず「どんな弾圧だったのか」をお話しさせてください。

 日本が戦争に突き進んでいた昭和17年6月26日の早朝、「治安維持法違反容疑」で多くのホーリネス系教師が逮捕、投獄されました。ホーリネス系の教会、牧師だけが狙い撃ちにされたのですが、なぜかというと、ホーリネス系教会が大切にしている「再臨」の教理が「天皇による国体を否定すべき内容の危険な思想である」と捉えられたからです。 逮捕された牧師たちは特高警察から「天皇とキリストとどちらがえらいか?天皇には罪があるのか、キリストの再臨の時には天皇もキリストによって裁かれるのか?」等の尋問を受けたといわれます。不当な取調べや拷問もあったといわれます。獄中で亡くなった方は4名おられます。

 翌昭和18年の4月、文部省と内務省に呼び出された日本基督教団の幹部は、「ホーリネス系の教会解散処分、教師職の剥奪処分」を伝えます。この時、教団の富田統理は「ホーリネスは学的程度が低いから、このような問題が起きたのであって、他の会派には何の問題もない」と弁明したのだそうです。

 その後教団執行部は、検挙されなかった教師も含め全員に「教師辞任願」を出すように強要し、従わない場合は教師籍を剥奪すると通告しました。結果、ホーリネス系の教師は184名が辞任願を提出しました。その影響で、多くの教会が解散に追い込まれました。

 敗戦後、まもなくGHQは「宗教団体法」を廃止させ、服役中だったり、有罪で執行猶予付きの判決を言い渡されていたホーリネス系教師はみな、「無罪」とされました。また日本基督教団でも、一度辞任した教師達全員を復職させる決議がなされましたが、そのまま無くなってしまった教会も多くあったのです。悲しい出来事ですが、これを風化させないで語り継いでいく役目は私もあると感じています。

 国家からの弾圧は強い痛みを伴いました。しかしそれ以上に、同じ仲間から強い誹謗を受け、見捨てられるというのは本当に辛い経験であったと思います。

 それでも主と共にあって試練を耐えた…その姿が今回の聖書箇所のパウロと重ります。今日は、パウロ自身殉教を悟った上で最後に記したというわれるⅡテモテの最後の4章から御言葉を味わいたいと願います。

 今日の箇所のうち大切な教えが詰まっているのが1節、2節と5節です。この大切な言葉は後程詳しく掘り下げます。これ以外の箇所から、パウロの切迫した苦しい状況が理解できるのです。

 6節をご覧ください。この言葉からは、パウロ自身、自分の死期が近づいていることを悟っているのです。7節、8節から、パウロはこの世で死を全くおそれておらず、まもなく天において「義の栄冠を受けられる」ことに希望を置いていることが分かります。しかし、多くの聖書注解者が6~8節のこのパウロの言葉の背景に、「皇帝ネロの大迫害によって投獄され、裁判にかけられている」ことを読み取っています。これまで何度も投獄されたり、軟禁されてきたパウロですが、「今度ばかりは処刑を間逃れないだろう…」そんなパウロの心情がにじみ出ている」と言っていますが、私も同感です。

 そのような獄中の厳しい環境にあるパウロでしたが、10節を見ると、今まで助けてくれていた同労者が、パウロを見捨てて逃げてしまったことが分かります。多分、迫害を恐れて「パウロを見捨てて逃げたのだろう」と理解されています。それで9節にあるように、遠くにいたテモテに「すぐに来てほしい」と助けを求めているのです。

 これは先ほどお話した戦前のホーリネス教会の状況と一緒です。主の福音のために投獄され弾圧されている人がいる一方で、自分の保身からか仲間を見捨てて逃げてしまう人がどの時代でもいるのです。

 苦しみはこれだけでは終わりません。迫害や苦難のときに起きることが3,4節に表されています。この状況はどんなに時代が変わっても必ず起きるものなのです。(3,4節読んでみます)

 迫害が起こる時には、必ず悪魔的な力が働くものですが、人々が真理から背を向け、健全な教えを聞かないようにするために、為政者の都合の良いように「教師を動かし」そして、世は作り話に流されていくのです。

 戦前戦中の日本は戦争に突き進む中、まさにこのような過ちを犯していきましたが、きちんと福音に立とうという教会、教師がどんなに抗っても止められない…そんな状況になっていたのです。

 このような状況が私たちを襲ってくる可能性はないとはいえません。実際に今現在迫害と戦っている私たちの仲間もいます。真理に立とうとしても、世の悪魔的な流れに飲み込まれそうになる、そんなときに大切となる教えをパウロはここで残してくれているのです。 それが最初に言った1節、2節、5節です。

 まず5節からみます。ここには「揺れ動く世にあって、キリスト者としてどう生き抜くのか」その大切な教えがいくつか記されています。

 最初に「身を慎む」という言葉が出ますが、元の言葉では「酒に酔わないで、しらふでいる」という意味のようです。逆にいえば「聖霊に酔う状態」「聖霊に満たされている状態でいなさい」ということです。

 私は何度もお話ししていますが、私たちが、そして教会全体が神の霊である聖霊に満たされるためには、自我や人間の思いを捨てて神の御前にでる思いが必要です。たとえ教会が迫害されるようなことがあっても「御子イエス・キリストの尊い犠牲のうちに罪赦され、やがて神の御許に行くことができる」その希望で満たされることが大切だ!そのように聖書は教えるのです。

 さらにこの5節では「ただ苦しみを耐え忍びなさい」と教えられているのではなく、「自分の務めを果たすように」教えられています。これはテモテに宛てられた手紙ですが、ここにいる私たち一人ひとりにも語られています。

 この務めとは何かというと…3節の「健全な教え」4節の「真理」を伝える務めです。健全な教え、真理に基づいて、人々を永遠の命へ導く務めは、牧師だけでなく教会につながるすべての人に託された務めなのです。

 今、世の中の多くの人が、「目には見えない恐怖」に怯えています。また死後のことを恐れています。死んでもそれで終わらない、キリストにある永遠の命を伝える務めが私たちにはあります。それはキリスト者のエゴではありません。聖霊に満たされて、苦しみの中でも希望を抱いていられる人しか伝えられないのです。先に救っていただいた者の責任として自分らしく「永遠の命に導く務め」を果たしてまいりましょう。

 最後に今と同じことが深く語られている1、2節を読んで説教を閉じます。

 この部分では有名な聖句が含まれています。それが2節の最初です。

 前の訳の言葉では、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても…」というものですが、知っているという方も多いと思います。

 この「時が良くても悪くても」は、「雨の日も、晴れの日も」とか「気分が乗る時も乗らないときも」などという軽いものではありません。迫害の最中、多くの仲間が「キリストを証しすることを捨て去る」ような状況にあって、なお!御言葉を宣べ伝えよとパウロはテモテに伝えるのです。

 さらに「御言葉を宣べ伝えることとは一体何なのか」がこの箇所から学べます。

 それは1節にある通りです。神の独り子、イエス・キリスト以外に救い主はいないこと、自分の中にある罪を認め、イエス・キリストを救い主として認める以外に、神の裁きから救われることはないのです。

 もしもこれと違う教えが伝わっていたなら、2節の後半にあるように「愛と寛容さをもって」戒めなければならないのです。人間崇拝を強要されても、その間違いを間違いだと表す。それは本気で神にお従い出来ているか試されることでもありますが、ある国のキリスト者たちはこのことで真剣に戦っているのです。そして戦中のホーリネス教会や教師たちは命を懸けてこれを守ろうとしたのです。

 「天皇とキリストとどちらがえらいか?天皇には罪があるのか」とか「キリストの再臨の時には天皇もキリストによって裁かれるのか?」このような質問は、少し聖書を読めば正しく答えられるはずです。

 ところが、多くのキリスト教会は、天皇陛下を神として信じる人の信仰を容認したばかりか、日本基督教団の幹部は天皇が神であると認めたかのような答えをしてしまったのです。もちろん保身に走らざるを得なかった心情を理解せねばなりませんが、しかしそれでよいのでしょうか? その姿勢がどんな結果を齎したか…そのことを私たちは忘れてはいけないと考えます。

 キリスト信仰を無理に押し付けない…それは確かに大切かもしれません。しかし、私たちは知っています。他の宗教は明確には言いませんが「すべての人間には罪がある」ことを。その犯した罪に応じて造り主である神の前で審判を受けなければならないことを。救われるためには、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、その後復活して「天国への道を開いてくださった」神の独り子イエス・キリストを救い主として受け入れるしかないということを。

 そのことを伝えないままだということは「相手を大切にしていない、愛していない」ということです。どうか!時が悪くても「自分に与えられた務めとして」「愛をもって」主の福音を証してまいりましょう。(祈り・沈黙)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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