9月10日 聖霊降臨節第16主日礼拝
「苦しみを訴えよう」隅野徹牧師
聖書:詩編 142:1~8
今日は、示された「聖書日課」のうち詩編142編を選びメッセージを語ることにしました。
今日は、詩編を説教箇所として選んだので、マタイを選びましたが、通常は、礼拝の中で皆さんとともに読む「交読文」は、詩編から選ぶことが多いです。
よく言われますが、司式者と会衆が「詩編を交読する」ことによって、朗読とは違う「言葉の迫り」があったりするのですが、皆さんはどのようにお感じでしょうか。
わたしは前任の教会で、洗礼を受けたばかりの方から「礼拝の中の詩編交読って必要なんですか? これは無い方がよいのにと思うこともあります…」と実に素直な意見を聞かせていただいたことがあります。その理由は「詩編には、神様への不満だけでなく呪いや報復の言葉まで出る。これが聖書の中の言葉か?と思えるから」ということでしたが、皆さんはいかがでしょう? 同じようなことを感じられたことはあるのではないでしょうか?
確かに、礼拝の場で「神への不満、敵への呪い、報復」の言葉が出ることは違和感や抵抗感があるでしょう。しかし、ある先生は「これらの詩編の言葉を読まないで済ましてしまうことには大きな問題がある」と指摘されています。それは「人が魂の奥底において体験する、最も深い苦悩、嘆き、怒り、そして呪いと報復の願いを削除するなら、人が最も神を必要とする場面をそぎ落とすことにつながるから」という理由からなのですが、皆さんはどうお感じでしょうか?
私達山口信愛教会も、いま順風満帆の歩みかというと全くその逆だと感じます。多くの方が病や心の痛みを抱え、教会もこの先の歩みに沢山の困難を抱えています。 叫ぶような祈りが積まれていなければ「ウソ」だといえるような状況です。
そんな今こそ「最も、神が必要な場面」なのかもしれません。 正直な「こころからの叫び」を神に対して沢山するために、今日の箇所は大きな助けになると信じています。 ともに読み進めてまいりましょう。
まず1節です。ダビデの詩とあります。この詩編142編はサムエル記上22章、24章あたりに記されている「ダビデの経験した重大な危機」と関連付けられてこういう表題がつけられていますが、実際にはバビロン捕囚のころに詠われたものではないかと言われています。
外国に攻められ、多くの人が捕虜として連れていかれる…その先の見えなかった状況を「洞穴中で身を潜め、神に祈っていたパウロ」に重ねるようにして、この142編は詠われているのです。
次に2~5節を読みます。
ここでは、この詩をうたった「詩人」の苦しみが極限であったことが読み取れます。
ただ神に祈っているのではなく「声を上げて」「叫んで」神に訴えているのです。
そして5節には、これまで近くにいてくれた「友」が離れ去っていったような錯覚に陥り「命を助けてくれる人もない」と訴えています。実に正直な告白です。
メッセージの最後にお話ししますが、神の前での「こうした感情を露わにした祈り」は実は大切なのです。
このように「感情をストレートにぶつけている」わけですが、私たち人間が、こうした「正直に思いをぶつける場面」は、多くの場合、相手が「受け止めてくれる」という信頼があってこそ、できることだと思います。受け止めてくれない相手、例えば「ことばを遮って、自分の意見を返してくる相手」だったり「逆に説教をしてきそうな人」には、大抵、正直な思いをぶつけられないのではないでしょうか?
この詩人も「神がどんな方か分かっているからこそ」、思いをぶつけられているのです。
4節には、このままの状況が続けば、自分がどんな道を行って、どういう結果が待っているのか、あなたはわかるはずだ!と訴えているのです。
不満を言っているのと同時に、「神がどんな方であるのか、自分はどんな風に捉えているか」その信仰告白もしているのです。
目に見える状況を超えて、「神がいまの自分についてすべてご存じである」ことを知っていることが、神との生きた交わりにつながっていきます。
続いて6節です。
極限の苦難のなかにあって詩人は、6節にあるように「神が唯一の避けどころであること」を告白しているのです。
そして6節の括弧の後半には「命あるものの地で、わたしの分となってくださる方」と告白しています。人間から見捨てられ、洞穴の中にいるような錯覚を覚える彼にとっては、「神の約束だけが、彼に割り当てられる唯一のもの」と告白していますが、この希望によって詩人は前を向いているのです。
その後7節からのところで、いよいよ「自身の神に対する具体的なお願い」が始まります。 7節と8節を読んでみます。
ここでは「自分の無力を示す」ことをしつつ、神の憐れみを得ようとしてお願いしているのです。
自分の力では、自分が苦しんでいる相手に立ち向かうことはできない…そのことを覚えることが、神に助けを求めるために大切だということが、この箇所から改めて教えられます。
そして8節では「わたしの魂を枷(かせ)から引き出してください」と、その願いを心から神に向かって叫び求めています。
しかし!彼の願いは単に「命の危険から守られるように」ということではありません。その次に出る「あなたの御名に感謝することができますように」ということこそが彼の一番の願いでありました。
今のような状況ではなく、落ち着いて神を礼拝し、御名に向かって感謝を表したい…これが彼の究極の願いでありました。そして、神が自分に表してくださる恵みを見て、仲間が取り囲んで彼と共に神をほめたたえることを祈り願ったのであります。8節後半の「主に従う人々がわたしを冠としますように」という言葉は分かりにくい訳し方ですが元の意味は「私の周りに人が集まるように」という意味の言葉です。
究極の苦難の中で、彼は「このこと」を神に願い求めているのです。
詩人は、神への信頼を固持するとともに、「自分のもとを離れてしまった友や仲間が、自分を通して、神のもとに立ち帰れるように」と祈っています。
皆さんには「耳にタコができるぐらい」お話ししていることですが、聖書が教える信仰は「神への愛」と「隣人への愛」が二つでセットであり、決して切り離すことのできないものですが、今回の詩編142編の「究極の苦難の中での祈り」からも教えられることです。
そしてこの祈りは十字架という究極の苦しみのとき「ご自分のこととともに、民たちが赦され、神のもとに立ち帰ることができるように」と祈られた、イエス・キリストの祈りを指し示すものでもあるのです。
以上、今日の聖書箇所である詩編142編を、順に見てまいりました。
私たちが、苦難の中で「どう祈っていけばよいか」その大切なことが沢山教えられる詩編だと私は感じます。
「神がどんな方であるのか、自分はどんな風に捉えているか」そのことを祈りの中で、神に対して表すこと そして 「目に見える状況を超えて、神がいまの自分についてすべてご存じであることを確認すること。
さらに「神の約束だけが、自分に割り当てられる唯一のものである、という希望を確認すること」 そして「自分が無力であるから、神に委ねるのだ」という思いを表すことの大切さも教えられました。
そして最後の8節では「苦難の中でも、自分のことだけでなく、隣人のために祈る」こと「たとえ自分を裏切った人であっても、その人が神に立ち帰って、共に礼拝がもてることを望み、祈ること」が教えられました。
このように、たくさんの教えがつまった箇所なのですが、全体的にいうなら、やはり「神の前に、素直に、自分の思いを隠さずに祈る」そのことの大切さが、最も教えられる箇所ではないでしょうか。 最後にそのことに触れてメッセージを閉じます。
ある本に書いてあるのですが「神は、人間を誰かと関係をもつ存在として創造された」のです。他の人に「ことばで感情を告白すること」で、癒されるというのは科学的にも証明されていることなのですが、それを「創造主であり、絶対的な存在である、神に対して行うことの幸い」を聖書全体は奨励しているのです。
先日、聖研祈祷会で読んだ箇所の「イザヤ書1章」でも、18節に「論じ合おうではないか、と主はいわれる」という言葉で出てきて、参加された皆様と、この言葉の意味を深めました。
イエス・キリストの父なる神は、私達に対し「一緒にきて、私と論じ合おう」と招いてくださるお方なのです。
「わたしは神だから、お前たちに一切口出しさせない」ではなく、「あなたの思いを私に聞かせてほしい」と言って下さるお方なのです。
私たちは「自分の思い」を祈りの中で、神にお伝えしているでしょうか?
私は、予想もしない嫌なことが起こった…と自分が感じたようなときには「祈ること」をやめてしまったことがありました。
しかし、そんな時こそ「不満の祈りでもよいので」神に祈りでお伝えしましょう。そのことによって、神との関係、また隣人との関係は深くなっていくと信じています。
(祈り・沈黙)