山口が生んだ旧約聖書神学者、浅田栄次博士(1865-1914)を知る人は少ないのではないでしょうか。実は私も山口に赴任するまでは名前を聞いたこともありませんでした。
この度、徳山英学会の責任を担い浅田研究をなさっている河口昭先生(周南市/徳山在住)のご依頼により、徳山英学会発足10周年にあたり、徳山出身の浅田栄次博士について教会人の目で観察して講演(2013年9月16日/月・休)をするようにご依頼を頂戴しました。
専門外ではありますが、私の妻の曾祖父エドワード・ガントレットのつれあい・ガントレット恒子と、浅田教授の妻・浅田みか子とがキリスト教婦人矯風会での大の友人で、多磨墓地(東京)に隣同士でお墓を建てたという関係でもありましたし、河口昭先生の浅田研究の情熱にも敬服し、お引き受けすることに致しました。
文献を読み進めながら、浅田栄次という人物を知れば知るほど、その生涯の非連続(挫折)と連続(動揺なき信仰心、精神的静謐さ)、またその実直な人柄と愚直なまでの探究心に触れることができ、こんな方が明治期に金星の如く輝いていたことに、ただただ胸を熱くするばかりでした。
浅田栄次博士は、一般的には東京外国語大学の前身・高等商学校附属外国語学校教授として英語教育者(英語科教務主任)として、また学校の運営(事務方)の仕事にもその力を惜しみなく注ぎ学生の面倒も「慈母の如く」みていた方であったようです。
しかし、彼の専門は旧約聖書学でした。
しかも、シカゴ大学初の博士号取得者でした!!
博士号取得後は帰国し、本多庸一が学院長の時代、青山学院大学の神学教授として迎えられ、神学教育に専心し、講演も数多く行い当時のキリスト教界のオピニオンリーダーの一人でした。同時代には植村正久、内村鑑三、小崎弘道などがいます。
しかし、彼の研究と神学教育が一部の宣教師や教会から批判されるようになり、青学の専任教授を左近義弼に託し、青学には講師として関わりつつ、現在の東京外国語大学の創立から草創期に力を注いだのでした。神学教育者としての道は挫折したといってようでしょう。しかし、彼の類希な語学的センスと忠誠心は、草創期の大学でも遺憾なく発揮され英語という分野は変わりましたが、真の「教育者」としての道を生涯歩み、図書館で卒倒し、49年の生涯を終えました。
浅田栄次博士は留学前、神田美以教会(現・日本基督教団九段教会)で洗礼を受け、生涯教会生活を中心に据え、学究し、家庭人としても尊敬されて生きました。浅田は、妻・みか子に「パパ様」と呼ばれ、こどもたちからも尊敬され愛されました。
みか子夫人は、「パパ様」の足跡を伝えようと実に分厚い『浅田栄次追懐録』を編纂します。寄稿者には当時の名だたる人物がずらり。驚くばかりです。
このような明治期の信仰の先達の足跡に触れるとき、背筋がシャンと伸びます。今回の講演は私の浅田への関心を掻き立て、信仰者として、また牧師としての生き方に一つの方向性を示されたように思います。生涯学び続け、生涯教え続けた徳山が輩出した浅田栄次博士を、幅広く「地域教育」に携わる方々にも、もっともっと知ってもらえればと願ってやみません。