3月24日 受難節第6主日礼拝・棕櫚の主日礼拝
「だから私も神のもとに行ける」 隅野瞳牧師
聖書:マタイによる福音書 27:45~56
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本日は、主イエスの十字架が父なる神への道を開いたことについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。
1.主は私たちの代わりに見捨てられてくださった。(46節)
2.すべての者に、神のもとに行く道が開かれた。(51~53節)
3.十字架のイエスが神の子であるとの信仰は、主から来る。(54節)
教会の屋根、礼拝堂の正面、二階の窓にも十字架が掲げられています。なぜ十字架が救いのシンボルとされ、私たちは主の十字架を慕わしく思い、力を受けるのでしょうか。主イエスの十字架を特に心に刻む受難週、マタイ27章を通して御言葉にあずかりましょう。
イエス・キリストが最後にエルサレムに入城した日から復活の前日までの一週間を、教会暦では受難週と呼びます。主イエスはユダヤ人を解放してくれる救い主として群衆に歓迎され、日曜日にエルサレムに入ります。しかし主は木曜日の夜に捕らえられ、救い主と自称した冒涜罪で、ユダヤ人の最高法院で死刑宣告を受けます。翌朝主イエスはローマの総督ピラトに引き渡されます。ピラトはローマ法に照らして罪を見いだせない主イエスを釈放しようとしますが、宗教指導者たちに扇動された群衆は「十字架につけろ」と迫ります。その声に押されてピラトは主イエスを、十字架刑にするために引き渡します。十字架刑は、ローマに反逆した者に課せられる見せしめの刑です。主イエスは鞭打たれ侮辱されて、二人の強盗と一緒に金曜日の朝9時に十字架につけられました。
1.主は私たちの代わりに見捨てられてくださった。(46節)
「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(45~46節)」
聖書において闇は神の裁きを象徴します。罪なき神の子が、全ての人の罪を負って死なれる時が来たのです。主イエスは苦しみの中で絶叫されました。この祈りは主イエスの十字架が預言されている詩編22編からのものです。神に救ってもらえとの人々の嘲りや、さらしものとなり着物がくじ引きされる苦しみの中で、神の助けを願う詩人の祈りが記されています。22編の後半はこの祈りを主が聞き届けてくださり、詩人は力を与えられて、恵みの御業を子孫に語り伝えていくと宣言しています。
しかし主イエスの祈りは「わが神、わが神…」で終わっています。神の独り子が御父に「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことに、つまずきを覚えるかもしれません。しかしそのままのお言葉を私たちは受け取りたい。このお言葉にこそ、主の十字架とは一体何であるかということが示されているのだと思います。
主イエスは人々を罪から救い出すために、十字架で御自分の命を献げると予告しておられました(マタイ16:21,20:28)。ですから「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、別人の祈りのように感じられます。その通りです。十字架上の主イエスは罪人の身代わりの役ではなく罪人そのものとして、叫んでおられるのです。主イエスが十字架において、私たちと一つになられました。本来神に見捨てられるべき私たち罪人への裁きを、罪なき神の御子が引き受け、神に見捨てられてくださいました。だから私たちは無罪とされたのです。主イエスの叫びを聞いて、預言者エリヤを呼んでいるのだと考えた人もいました。エリヤは生きたまま天に移され、地上の信仰者に艱難が臨むと救ってくれると信じられていましたが、エリヤは来ませんでした。再び主イエスは大声で叫び、その霊を御父にゆだねて息を引き取られました。
全地を覆ったその闇の深さ、完全に神に捨てられるということを、簡単に通り過ぎることは許されないでしょう。神と共に生き、その愛を受けて隣人を愛し、本当の幸いに生きるようにと私たちは造られました。しかし私たちは神から離れ、神なしで生きようと手を振り払いました。罪とは自分中心に生きるために、神を見捨てることです。しかしそれは、私たちのほうが神に捨てられることを自ら選び取っていることなのです。生まれながらの私たちは自分中心であり、そのままでは神のみもとに行くことはできません。神は人間の罪を見過ごされる方ではなく、罪に対して怒り裁かれます。しかし神は私たちを愛し、救うために御子を送ってくださいました。御子は私たちの罪の裁きを引き受けて十字架で死なれ、三日後によみがえられました。この主イエスを救い主と信じる者は、罪に支配された体が御子と共に死に、新しい命に復活します(ローマ6:4~8)。私たちは神に対してこの世を、喜びもって生きる者とされます。
「神がいるなら、なぜこんなことが起こるのか」今、多くの人がこう問いかけます。神の答えがないと感じる時、私たちは自分で何か答えを出さなければならないのでしょうか。人間に過ぎないものが納得できる答えを出すことはできないと、私は思います。もし答えが与えられるとすれば、それは人から来るのではなく、その方ご自身が神に問い続けて与えられるものではないでしょうか。ですから牧師に尋ねていただいても、わかりませんと申し上げるしかないことをおゆるしください。ただ、ご一緒にその問いを神に祈り続けることはできます。御子の知り得ぬ悲しみも叫びも、痛みもありません(ヘブライ2:17~18,4:15~16)。なお主に近く内なる思いを注ぎ出しましょう。私たちが経験することは不可能な絶望を、主は最後まで苦しみ抜いてくださいました。ですから私たちはもう、神に見捨てられることはありません。「なぜ」と問い続ける祈りの苦しさをご存じの主が、最後までともにうめき、復活を見させてくださるでしょう。
2.すべての者に、神のもとに行く道が開かれた。(51~53節)
「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについいた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(51~53節)
主が息を引き取られた時に、イスラエルの人々が礼拝をささげる神殿の垂れ幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。これは「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という御子の叫びに対する神の答えです。それは「御子を信じるすべての者が、神のみもとに行けるため」です。この垂れ幕は神殿の一番奥にある神の臨在の場「至聖所」の前にかかっている垂れ幕です。一世紀の歴史学者ヨセフスによれば、この幕は18メートル(6階建てビル程度)×9メートル、手のひらほどの厚みがあったと言われます。聖所に入り垂れ幕のことを知り得たのは祭司だけですから、後に主の救いに入れられた祭司を通して、この出来事が証されたのでしょう(使6:7)。
至聖所には年に一度、大祭司だけが入ることが許されました。それは「民の罪のとりなし」のためです。大祭司は優れているからではなく、弱さと罪があるゆえに、神と人との間に立つ執り成し手として選ばれました。ですから自分の罪の贖いのためにも供え物を献げなければなりません(レビ記16章)。罪の贖いの動物の血を携えなければ通ることができない垂れ幕は、聖なる神と人間との隔てを象徴しています。
しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けました。もともとの言葉では「裂かれた」と書かれています。「神が」裂かれたということです。上から下まで、神の側から救いの道が開かれました。世の罪を贖う完全な供え物として、御子が十字架に命をささげてくださり、神に近づくための供え物も隔ての垂れ幕も、もはや必要なくなったからです(ヘブライ10:11~18)。主イエスを信じるすべての者は神の子とされ、御父との愛の交わりのうちに生きることができるようになったのです。
また、地が揺れ動き墓が開いて、聖なる者たちの体が生き返ったとあります。死は誰にも確実に起こる、動かせないものです。しかし御子によって死の支配が打ち砕かれました。信仰者たちの復活、それは主を信じる私たちが身をもって体験することを預言しています。キリストの贖いを信じる者にとって、死はもはや恐怖ではなく、永遠の命に至る通路となります。そして新しい意味をもって、与えられたこの世の日々を生きるようになります。終わりの時に私たちの救いは完成し、初穂として復活された御子のごとく復活の体を与えられ、神と共にいつまでも住むのです。
神殿の幕が裂けたことは、祭司制の終わりをも意味しました。しかし神は救い主を信じる者を、自らを神にささげ、神と人に奉仕する祭司とされました(ローマ12:1、Ⅰペトロ2:9)。私たちが祭司とされたのはとりなしのためです。とりなしは神と人との間に立つことです。隣人の課題をその人に代わって神に祈り、神の赦しの福音を人に伝えるという務めに、感謝をもって与らせていただきたいと願います。
さてここに不思議な表現があります。これは主イエスの十字架の死の場面で、主はまだ復活なさっていないのに、「イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」とあるのです。
信じる者が永遠の命によみがえることは、主イエスの復活において起こるのですから、記す順番が違うと思われますよね。けれどもマタイは十字架の主のお姿を記す中で、主の復活が心に迫りました。復活あっての十字架、救いについて両者は決して切り離せない一つのことなのだと、語らずにはいられなかったのです。今は見えなくても、十字架には必ず復活があります。主がマタイと同じ復活の希望を私たちに見させ、その信仰にしっかりと立つ者とならせてくださいますように。十字架の現実に打ちひしがれている方のもとに、その光を運ばせてくださいますように。
3.十字架のイエスが神の子であるとの信仰は、主から来る。(54節)
「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(54節)
この告白に至ったのはローマの百人隊長たちでした。彼らは主イエスを実際に十字架につけ、主を鞭打ち、あざけり、はぎ取った服をくじ引きで分け合った者たちだったでしょう。彼らからこの告白が出たことは、死んだ者が生き返ったことに匹敵するような奇跡です。キリストを十字架につけたものが、キリストを崇め信仰を言い表すようになるのです。
彼らは職務上、多くの人が十字架に架けられて死んでいく様を見ていたはずです。しかし主イエスの十字架上での姿は、その誰とも違っていました。「いろいろの出来事を見て、非常に恐れ」とありますが、彼らの信仰告白は、英雄的な主の姿を見たり、暗闇や地震が起こったからわきあがったのではないでしょう。本日の箇所の並行記事には、十字架上で語られた主のお言葉がほかにも記されています。御自分を十字架につけた者のために赦しを願い、母マリアのこれからを配慮し、主に御自身の霊をゆだねるお姿。恥と弱さと孤独の中で死にゆく者としか見えないのに、彼らには信仰の目が開かれ、この十字架につけられた方こそ神の子、救い主とわかったのでした。
ここには復活の主の命に生きる教会、私たちの姿が描かれているといえます。こんな私の思いが変えられるということが、一番の奇跡です。百人隊長たちは、ユダヤ人から見れば救われないと考えられていた人です。しかし神は彼らに真理を示し、救いをお与えになりました。神は今私たちにその真理を、聖書を通してお示しくださいます。聖書を読む時に自らの心が照らされ、神の御前に、自分が主イエスを十字架にかけたと知らされます。その時私たちは「本当に、この人は神の子だった。」との告白に至ります。
十字架の下に立って「この人は神の子だ」と告白する者、主イエスを救い主と信じる者は、誰であっても救われます。そしてそこに、ただ信仰によって神の家族とされた新しい神の民、キリストの教会が誕生していくことが、ここに示されています。救いは学び理解して至るものではありません。私たちの側の条件…立場や人種や何ができるかなど一切を超えて、主がお与えになるものです。
御子を十字架につけるほどに敵対し、それなのに自分が何をしているのかわからない、むしろ正しいことをしていると思っていた人々。それは私たち一人ひとりです。この私のために十字架で叫びをあげて命をささげてくださった主。この主に応えずにいられましょうか。神は、あなたを待っておられます。
「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちはガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。」(55節)
十字架上のイエスを看取ったのは、ガリラヤから主に従い、具体的な生活を支えていた女性の弟子たちでした。恐れと苦しみの極みで、何もできなくて、それでもここに居続けると決めた人たち。ある時は目を背け、それでも最期の瞬間を見届けた人たちです。主と共にいることができなかった十二弟子たちを責めてはなりません。私たちも同じく弱いのです。彼女たちがここにいることができたのは、人の数に入らぬ無力な者と考えられていたからだと思います。彼女たちは、十字架と復活において人には何一つ力がなく、思いをはるかに超えていたこと。そして御子の死と復活が確かであると証するために、主によって立てられたのでした。彼女たちもまた無言で、「わが神、わが神、なぜ」と祈っていたのです。無力で、今はただ現実を見守ることしかできない。復活は見えない。けれどもそのままで、私たちもまた主のなさることを見て生きていくのです。同じ祈りをもつ友が、あなたと一緒にいます。やがて彼女たちは復活の主に最初にお会いし、弟子たちにその喜びを伝える人となりました。私たちもそのように用いられる時がきます。
希望の光が見えるまで、沈黙しか返ってこない「暗闇の3時間」を過ごさなければならないかもしれません。主のご復活が、希望の御言葉が心から「アーメン」と言えるようになるまでには、どうしても過ごさなければならない時間があるのだと思います。しかしその暗闇を抜けた時、私たちは神が沈黙されていたのではないことを、ずっと御子を通して慰め、支え、導いてくださっていたことを知るでしょう。その日を待ち望み祈りましょう。
天の父よ。私たちが人に語り得ないところまでも、私たちと共にいたいと願って、御子は神に見捨てられるまで私たちを愛し抜かれました。御子を見捨てなければならなかった主のお苦しみもまた、どれほどのものだったでしょうか。御子の叫びが、私たちの存在を揺さぶります。もうあなたの悲しまれることはしたくないのです。あなたが命がけで開いてくださった神のもとに行く道を、信頼し真心をもって進みゆかせてください。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。