10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝・神学校日礼拝
「イエスのための盛大な宴会」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 5:27~32
今朝は、今日は神学校日、という「牧師を育てる学校」の働きや、そこで学んでいる人のことを覚えて礼拝を持つ日です。それなのに、どうして説教題が「イエスのための盛大な宴会」というふざけたようなものが付けられているのだろうか…と思われた方もあると思います。
先に言ってしまいますが、「神の子であり、私たちを罪から救い出してくださる、イエス・キリストに出会い、従う決心をした人がどう変わったのか」ということをお話しします。 いま伝道者の道を志す方が、今日の箇所に登場する「レビ」のように、イエスによって「全く変えられ、歩み始める」ことができるように、そのことを心から願い、支えられる私たちでありたいと願います。
今、神学校とも、献身者の減少で、苦しい状況にあります。しかしながら、私たち夫婦の母校である「東京聖書学校」には今年、山口出身の「来島恵美子神学生」が入学し、以前にもまして「神学校のため、神学生のために祈る」ことを大切にしようとしています。みなさんも今日の礼拝を通して、「神学生のために祈り、支えたい」という思いになっていただいたら幸いです。
そして皆様なりに「神・イエスに従う」というチャレンジを与えられたなら幸いです。主には27~29節からお語りします。 ともに御言葉を味わってまいりましょう。
はじめに今回の箇所を読むに当たって、頭に入れて置いたらよいことをお話しします。
今回の箇所、ルカによる福音書第5章27節以下は、「レビという名前の徴税人が主イエスの弟子となったこと」が語られています。徴税人がイエスの弟子になるというのは本当に!驚くべきことでした。
なぜなら当時徴税人は、30節のファリサイ派の人々の言葉に「徴税人や罪人」とあるように、罪人の代表とされていたからです。彼らは文字通り税金を徴収する人でしたが、その税金は自分たちユダヤ人のために使われるのではなく、彼らを支配しているローマ帝国、つまり敵である外国のためのものでした。
敵に支払う税金を同胞であるユダヤ人が取り立てるのですから、彼らはユダヤ人たちの中で、裏切り者の売国奴として憎まれ、神様に背く罪人として蔑まれていたのです。
それでも!嫌われる仕事を敢えてするのは、役得があったからです。
それは…決められた一定の額さえローマに納めれば、残りは自分の懐に入れることができる仕組みになっていたからです。ですから人々から多めに徴収することによって私腹を肥やすことができます。背後にはローマの軍隊が控えていますから、誰も逆らうことができません。このようなわけで、徴税人は皆金持ちでした。その背景を頭にいれつつ御言葉を味わっていただければと思います。
まず27、28節から読みます。
さきほど収税人は「罪人の代表として憎まれ、軽蔑されていた」とお話ししましたが、この節に登場する「レビ」も同じだったことでしょう。しかし!イエスはそういうレビを見て、「わたしに従いなさい」とお招きになりました。
32節でイエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるためである」の言葉どおりの「罪人を見捨てず、むしろ招かれるキリストの愛」が見て取れます。
それに対して「レビ」は「何もかも捨てて立ち上がり」、イエスに従った、とあります。
徴税人として収税所に座っていたレビが、徴税人としての生活を捨てて主イエスに従う弟子、信仰者となったということです。
彼をここまで変えたのは、間違いなく、「キリストの愛」なのです。
さて!ここでは「何もかも捨ててイエスに従った」という言葉が使われていますが、この言葉が大変誤解を生みやすいものであります。
昨年、旧統一協会の高額献金が明るみに出て、「全財産を放棄して無一文にならなければ信仰者にはなること求めるなんて!だから宗教は怖いのだ」という率直な意見を私も多数いただきました。
しかし!「無一文になることが求められているのではない」ということが、この聖書箇所からはっきりとわかります。
29節をご覧ください。
ここには、「何もかも捨ててイエスに従ったはずのレビ」が、「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」と語られています。
つまり!!レビには、なお家があり、盛大な宴会を催す財産があるのです。「何もかも捨てて」というのは、財産を全て放棄しなければならない、ということではないことがここからも分かるのではないでしょうか。
むしろ!大切なのは、レビが主イエスのために盛大な宴会を開いたということです。これを語ることによって聖書は、「何もかも捨てて主イエスに従ったレビ」が「どのように変わったのか」を印象的に描いています。彼は、主イエスを家に招いて「宴を開く者となった」のです。それは、お金の使い方が変わったということです。
彼は金持ちなのですから、それまでにも宴会を開くことはあったでしょう。そこに集まっていたのは徴税人仲間だけだったと予想できます。人々に嫌われ、軽蔑されている徴税人の仲間どうしで、脛に傷を持つ者が互いに慰め合い、酒の力で憂さ晴らしをするような宴会を彼は催していたのではないでしょうか?
しかし今、彼はそれまでとは全く違う宴を催す者となりました。イエス・キリストを食卓の主人とする宴です。
それまで自分が主人となり、自分の喜びや楽しみのために生きてきたレビ。その彼が人生の本当の主人と出会い、この方に従っていくことに人生の新しい意味と本当の喜びを見出したのです。
新しく見出したまことの主人であるイエス・キリストを中心とする宴会を彼は催したのです。
これは、それまでの、やけ酒によって憂さ晴らしをするような宴会とは全く違う、本当の喜びに満ちた宴です。レビは、何もかも捨てて主イエスに従ったことによって、×財産を捨てたのではなくて、〇 このようなまことの喜びのために財産を用いる者となったのです。
29節後半を見ると、その宴には、「徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」とあります。レビはこの宴に、これまでと同じように徴税人の仲間たちを招いたのです。
しかしその招待の意味はこれまでとは全く違ったものとなっています。この宴は今までのように「お互いに傷をなめ合い、愚痴をこぼし合い、酒によって憂さを晴らす会」ではありません。
そうではなく、彼は自分の仲間たちを、これまでの自分と同じように収税所に寂しく座っているだけの人々を招いて、イエス・キリストに紹介しようとしているのです。イエスとの出会いの場を作ろうとしているのです!
さて注目すべきことがあります。 レビが招いたのは徴税人だけではなかったということです。 これに気づいた人は相当するどい人です。
29節後半をご覧ください。 「ほかの人々も大勢いた」と書いてあります。
「ほかの人々」とは、徴税人と同じように、「あんな罪人の仲間にはなりたくない」と言われて、世の人々から「嫌われ、軽蔑されていた人々」だろうと言われています。レビは、それらの人々を大勢招いて、イエスと出会わせようとしているのです。
自分は「イエスとの出会いによって、それまでの罪と、そのもたらす孤独から抜け出して全く新しく歩み出すことができた、人生の意味を見出すことができた!」その喜びを彼らにも分け与えようとしているのです。
ここにはは今の日本で「キリスト教の伝道を志す者」もっといえば、今日の礼拝で覚えている「神学生や献身者」が大切にすべきことが教えられているのではないかと私は思います。
世の人々から、疎外されている人々、貧しさや罪の苦しみに喘いでいるような人々…そういう方々にこそ近づいて「イエス・キリストを中心とした食事を振る舞う」ように、「具体的に愛を示す」ことによってキリストを指し示し、その上で「自分自身」がキリストに出会い、生き方が全く変えられた」ことを証しすることは本当に大切だと思うのです。
いま子ども食堂だったり、地域の独居老人のために、食事の場を提供する教会が多くなってきましたが、そういった運営を学ぶことも、「聖書や神学を詳しく学ぶこと」と同様に大切なことではないかと私は考えます。 少し前と比べ神学校の学びの内容も変わってきましたが、こういう弱い立場の方々、罪の悩みに苦しむ方々に対して、寄り添いつつ、キリストを証しできるように、皆様、ぜひお祈りください。
そして、もう一つ大切なことが読み取れると思います。それは「自分らしい伝道」「それまでの関わりを生かした伝道」です。これは神学生に対してだけでなく、ここにおられるお一人お一人にあてはまります。
レビのしていることは、特別なトレーニングがなくてもできる「伝道」なのではないでしょうか?
一昔前の教会で求められていたのは「強い、リーダー的な牧師」だったと思います。
私の先輩の牧師の多くは「オールマイティーで、なんでもできる」方々です。「聖書を良く知り、分かりやすい説教を語りながら、路傍伝道をするなど伝道にも熱心で、なおかつ悩む人の相談にも乗れる…」そんな姿を見ながら、「私はあんな牧師にはなれない…」そう思うことも多かったです。 それこそ「すべてを捨てて、無一文になって、悟りを開いたらああなれるのか?」と誤解したこともあります。
しかし、今はそういう「なんでもできるスーパーマンのような牧師像」を求める時代ではなくなっていると感じます。 そうではなく「自分がこれまで与えられたものを神・キリストのために生かして」「自分に神・キリストがなさってくださった業を、自分らしく自分の言葉で証しする」それができる多くの人々によって、今の時代の伝道は担われていくと私は信じています。
牧師など「教職」と呼ばれる人々によってだけ伝道がなされるのではありません。信徒の方々によっても伝道はなされていく。信徒の中に「すべての時間はささげられないけれど、少しの時間神のお手伝いをしたい」という人を見つけ出し、そういう方を祈りつつ用いられる…そんな働きが神学校を中心になされていくと、素晴らしいと思います。
ぜひ皆様、ともに業を担ってまいりましょう。(祈り・沈黙)