1月17日説教 ・降誕節第5主日礼拝
「イエスは私達にとって何者か」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書20:41~21:4
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今日の聖書箇所は先週の続きの箇所です。新共同訳聖書では、小見出しで「ダビデの子についての問答」、「律法学者を批難する」そして「やもめの献金」というそれぞれの題がついていて、別々の話のように思えてしまいます。しかしながらこの3つは繋がっていて、説教題につけたように「イエスが私たちにとってどんなお方なのか」を教えている箇所なのです。
そしてこの箇所で見て取れる社会の状況と、今の社会情勢がすごく重なると感じるのです。ご自分は関係ないではなく、ご自身に対して語られている教えとして受け取っていただいたら幸いです。
まず41~44節です。読んでみます
イエスは、この前の場面でイエスに論戦を挑んで来たサドカイ派の人々、その論戦の様子を聞いていた律法学者たちにある問いをされるのです。それが41節の「どうしてイスラエルの民たちは、メシアはダビデの子だというのか」ということでした。
ダビデは、イスラエルの王国支配の礎を築いた、イスラエル人の英雄です。ダビデの少し後、イスラエルは混乱と苦難の時代を迎えますが、神は預言者を通して「ダビデのすえが国を立て直す」と預言されたのです。
これはダビデの家系の人間として誕生された「救い主イエス・キリスト」のことを指しています。国を立て直すとは、目に見える国の繁栄が取り戻されるということではなく、天国への希望がもたらされるということが預言されたのです。しかし!多くのイスラエル人は、「ダビデの子孫によって、目に見える現実の理想王国が建設される」と期待したのです。そしてこの当時「ローマ帝国の支配から解放し、我々に繁栄をもたらしてくれる指導者が誕生するのだ」と間違った期待が異常に高まっていたのであります。
今の世も、「自分たちに利益をもたらしてくれる強いリーダー」を求める人が世界中にいます。しかし、そのようなリーダーは結局、分断と対立を激化させるだけだ、ということが明らかになりつつあるのではないでしょうか。
イエスは、旧約聖書のダビデの言葉を引用し、「ダビデ自身が、自分の子孫として生まれてくる救い主を、私の主だと告白している」ことを紹介されます。そのことで「ご自分だけが、神が送られた救い主であること」をはっきりと示され、イスラエルの人々が待望した「救い主像」の誤りを教えられているのです。
では正しい救い主像とは、つまり「イエスご自身が示される救い主像とは」一体何か…その一つの答えが45節~2章4節に示されているのです。 一言でいうならば「弱さや苦しみを心から理解してくださるお方」そして「弱さや苦しみから本当の意味で救ってくださる方」なのです。
世の多くの人が期待した「目に見える繁栄をもたらす救い主」ではなく、全く違う救い主の姿が示されているのです。
まず45節~47節を読んでみます。
ここでイエスが名指しされているのが「律法学者」です。彼らは本来、旧約聖書に書かれている「神からの掟」を人々に分かりやすく説いて、人々が神の御心を行い、神と共に歩めるように手助けする人々です。しかし実際は違いました。46節と47節のイエスの言葉に表れています。
「長い衣をまとって歩きたがり、挨拶されること、上座に招待されることを好む」とあります。要するに威張りたかった、カッコつけたかったということです。
世の人々が待望することが多い「強いリーダー」もこのようなカッコつけで、謙ることを知らない人が多いです。ダビデは神を畏れる人でしたので律法学者たちとは違いますが、しかし往々にして「人々が見た目と現実を重視して待望する強いリーダー」は律法学者のような態度をとってしまうということが警告されているように思います。
私達も、この世の為政者たちが謙遜と謙りをもって働くことができるように祈りましょう。
さて、律法学者が「ただ威張っているだけ」ではなく、大きな問題・罪をイエスは指摘されます。それは一番の問題は「やもめの家を食い物にし、みせかけの長い祈りをしていること」です。
やもめが一家の主を失った悲しみにあるとき、助けなければならないはずの律法学者は近づいていき「見せかけの長い祈り」をしていたそうです。そして法外な「相談料、祈り料」を苦しい立場のやもめから取るということは実際にあったそうです。
これは今の世でも起こっていることです。助けを求めている人が逆に搾取される、さらに厳しい立場に追い込まれる現状に心を痛めます。牧師としてやるせない思いになる時があります。
しかしながら、まずは自分がこの律法学者のようになっていないか、傷ついている人、弱い立場にある人に対し「さらに苦しめるようなことをしてはいないか?」そのことを顧みながら歩みたいと願います。
さて食い物にされたやもめの一人が取ったある行動が21章1~4節です。残りの時間ここの箇所を味わいましょう。
ここにでる「やもめ」がどんな思いで献金をささげたのか…それは聖書には書いていないので、理解の仕方が分かれます。私は、この箇所を重ねて読むうちに、やもめが喜びの気持から献金をささげてはいない、そのように理解するようになりました。
日本語の聖書では「入れる」と訳されている言葉の元の言葉は「投げ入れる、投げつける」という意味合いの言葉なのです。
神殿の献金箱は、大きなラッパのような形状をしていたそうです。お金をいれると大きな音が鳴り響く仕組みで、周りの人、とくに見はっている祭司たちに「いくらいれたのかがはっきりと分かる仕組み」になっていたそうです。
1節に金持ちたちが賽銭箱に入れている様子が描かれていますが、周りの人に見せびらかすように「お金を投げ入れた」のです。
一方ひとりのやもめも献金をします。レプトン銅貨は、現在の日本の生活感覚からすれば百円玉ぐらいです。レプトン二枚は僅かな金額です。普通なら音がしないようにそっと入れるのではないでしょうか?ところがやもめは「投げ入れている」のです。
私は、その日の食べ物を買うための最後のお金二枚を神に「敢えてささげる」ことで、神に何かを訴えようとしていると理解します。 とくに前の47節との繋がりで理解するなら、こころが穏やかなはずはないです。
律法学者など、社会の指導的階級に搾取されていて、なお喜びをもって「生活費の残金を神にささげる」など罪深い人間にははっきりいって「無理」だと思うのです。「貧しいけれど、なんとか食べていけている」というのと「ほぼ無一文でどう食つないでいってよいか分からない状態」とは全く違うと感じますが…みなさんはどう思われるでしょうか?
大切なのは、このやもめに対し、神の子イエス・キリストがどのように関わられるかです。
聖書の言葉を見る限り、このやもめにイエスが言葉をかけられた様子は見て取れません。では何のためにそこにおられたのでしょうか? 人々がささげるその心をチェックする「チェッカー」としてそこにおられたのではありません。そうではなく、搾取され、これからどう生きて行ってよいのか分からない、そういう絶望の中で、神の前に出ようとする人と共にいるためなのです。
イエスはやもめが、生きていくための残金を投げ入れたことをご存知です。その上で「あなたの思いは私に届きましたよ…」とやもめの心にささやかれた…そのように感じます。
さらに「終わりの時、あなたは神に顧みられる。目の前の現実を超えた、目には見えない希望があるのだよ」とも語っておいでだと私は理解します。
今、水曜日の祈祷会で続けて学んでいるヨハネの黙示録のテーマと同じです。黙示録で繰り返し語られるのは、迫害で苦しむクリスチャンたちに対して「あなたの苦しみを私は知っている。あなたを苦しみから救い出す。私はすべてを知っている審判主である。あなたの苦しみは私にあって報いられる。」という神からのメッセージです。
このような神からの慰め・励ましのメッセージはヨハネの黙示録を直接読んだ「迫害下のクリスチャンたち」だけでなく、このやもめにも、そして今を生きる私たちにも強く語られています。
神でありながら人間を救うためにこの世に来てくださったイエス・キリスト。このお方はただ献金の良しあしをジャッジメントする方ではないのです。
そうではなく!このお方は私達の命を与えたもう創造主にして、私達のすべてをご存知の審判主です。47節の最後にあるように、私達人間の悪を見逃されないお方です。たとえ人間の目には「立派に生きているようにごまかせても」神の前ではすべてが明らかになるのです。
この悪を見逃されない、義なるお方であるキリストは、ご自分が十字架で死なれることによって人間に救いをお与えになる方でもあるのです。現実社会にはほとんど希望が見いだされなかったであろうこのやもめに対して目を注がれるお方。そして、やがて救いに導きたもうお方であることを心に刻みましょう。
最後に一つのお話しをしてメッセージを閉じます。
実は今回のメッセージの最後に読んだルカ21:1~4は、私が献身を示された聖書箇所なのです。会社人として過労気味でメンタルを病んだ当時の私は、自分は2レプトンの価値しかない、弱く力なき人間だということを思わされた上で、「それでも人間的には無価値に見えるかもしれない私の体を、神のご用のためにおささげしよう」と示されたのでした。
あれから19年が経ちました。人からどう思われようかは関係なく、自分をおささげしたいという思いに変わりはありません。私にとってこの箇所の教えは「原点」です。
しかし!この箇所の理解とともに「私の献身者としての在り方の理解」も、少しずつアップデートされている、別の言い方で「更新されてきている」と感じます。
私は、この場面のイエス・キリストのように、苦しみの中にある人に対し「あなたの現実は確かに暗いかもしれない。だけれれどもあなたの苦しみを神はご存知ですよ。目には見えなくとも確かに希望が与えられますよ」ということをシンプルに伝える働き人になりたいと望んでいます。
とくに今のこの時、多くの方が、苦しんでいらっしゃることを思います。礼拝に出るにしても、献金をおささげするにしても、「心の中は喜びしかない」という状態ではなく、「苦しい思いを何か神に訴えるようにして」ささげている、礼拝に出席されている状態だという方も多いことでしょう。そんな皆さんに私は寄り添わせていただきたいと切に願います。
喜びに満ち溢れているとはとても言えない状態。だけれども神の前に進み出て、ともに「現実を超えた、イエス・キリストにある希望」を仰ぎ見てまいりましょう。 (祈り・沈黙)
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