「掟と神の国」5/17 隅野徹牧師

  5月17説教 ・復活節第6主日礼拝
「掟と神の国」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書16:14~18

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 今週は先ほど朗読しました、ルカによる福音書16章14節~18節の御言葉を味わいます。この箇所を先ほど一読されたとき、どのような感想を持たれたでしょうか?

 「脈略のない話が並べられているな…」と感じられた方もあるでしょう。しかしこれは先週まで学んできたルカ16:1~13ともつながる、深い教えなのです。

 今日のメッセージのテーマをいくつかの言葉で表すなら「神の言葉を自分中心に解釈しないこと」「自分の信仰に満足しないこと」「がむしゃらに神の国を追い求めること」の大切さです。 直接はイエスがファリサイ派に語られた言葉ですが、私達に向けても語られています。

 今家にいる時間も長くなり、自分自身の信仰の歩みを顧みる機会も多いことでしょう。ぜひご自分を見つめる意味でも、この箇所からのメッセージを深く心に留めていただければと思います。

 まず14節から読んでまいります。

 ファリサイ派の人々は一部始終を聞いてイエスをあざ笑った…とあります。聞いた一部始終とは何かというと、先週まで詳しくみてきた1~13節です。新共同訳聖書では「不正な管理人のたとえ」とサブタイトルがついたこの場面ですが、イエスはこの譬えを通して大切な生き方を三つんの点から教えておられるとお話ししました。

 一つ目は「この先どうなるか分からない…という状況にあって、諦めず、がむしゃらに生きる」ことの大切さでした。 自分に与えられたものを何とか神のため、隣人のために用いようと懸命に生きる、その大切さです。

 二つ目は「本当に価値のあるものを天国で得させてもらうために、罪が横行し、不正のまみれたこの世にあって、本当の主人を見上げて生きていく」ことの大切さでした。具体的には、本当の主人である神の前に「失敗や過ちを隠そうとせず、また言い訳するのではなく、素直に認める」こと。そして「神の愛の深さ、大きさ、そして赦しを信じて、自由に大胆に生きること」でした。

 そして3つ目は、「自分の持ち物を、神から預かったものとして理解し、それを自分のために用いるのではなく、困っている隣人を助けるために用いる」という教えでした。 どれも深く、大切な教えです。しかし当時のファリサイ派の人々にとってはそのすべてが承服しかねる内容だったのです。

 彼らは「人々から尊敬されて生きたい、優雅に振舞いたい」と思っていたので、イエスが譬えられた管理人の「泥臭い生き方」は失笑の対象と見なしたのです。

 そしてファリサイ派の人々は、「自分はルールを完璧に守る善人だ」と自負していましたので、財産を無駄遣いしたとされる「イエスの譬えの中の管理人」は軽蔑、批難の対象でした。「自分も神からの賜物を無駄遣いしているかもしれない…」などと素直な心になるということはまずありませんでした。

 そして譬えを使ってイエスが教えられた「貧しい人など、今困っている人に対し、自分に預けられている賜物を使って助ける」ということもファリサイ派の人々にとっては受け入れられないことでした。そもそも彼らは「自分たちは神の前に善人だから、富が与えられているのだ」と解釈していました。逆に「生活困窮者は、神の掟を守れず、神の前に罪人だから、富が与えられないのだ」と解釈し、助ける必要のない者として差別してきました。愛など届ける必要はない…そのような考えだったようです。

 ファリサイ派の人々のそのような心の内を神の子であるイエス・キリストはすべてご存知でした。それが15節に示されています。

 ファリサイ派の人々は当時のイスラエルの民たちから尊敬されたかもしれません。立派で優雅な生き方に見えたかもしれません。人間的には「預言者を大切にし、神の掟である律法をしっかりと守っている、あの人たちは何と立派なんだろう…」と見えたかもしれない。でも神はすべてをお見通しであると言われます。そして「あなたたちの生き方は神の前には忌み嫌われるものだ」とはっきり示されるのです。

 つづく16節には、「時代はもう新しくなったのだ。預言者を形だけ敬ったり、律法の言葉をただ大切にしていればよいのではない、新しい時が洗礼者ヨハネ以降訪れたのだ」ということが教えられるのですが、ここは最後に詳しく見ます。

 先に17節と18節をみます。 ここではファリサイ派の人々が「律法を大切にしている」と自負しながら、実はどれだけ大きな「律法違反の罪を犯しているのか」イエスが鋭く指摘されています。

 例として挙げられているのが、「婚姻関係に関する律法、掟」です。イエスは「婚姻についての教え」何度もなさったことが福音書に記されています。それだけ神の律法が都合よく解釈され、律法を与えられた神の意図が踏みにじられることが多かったからです。

 とくに申命記24:1の言葉の意味が、律法学者、ファリサイ派の人々によってねじ曲げられました。それはこんな掟です。

 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」

 これの本来の意味は「妻の何等かの理由で夫婦関係が立ち行かなくなったときは、そのままにせず離縁しなければならない」というものでした。結婚相手を「神が与えて下さったパートナー」として大切にしなければならない。だから、恥ずべきことが無いように、気に入られなくなることがないように、ある程度の緊張関係をもって結婚生活を維持するように…神がこの掟を与えられたのはあくまで「夫婦と家庭を守りたい」というご配慮からだったと考えます。

 しかし、律法学者やファリサイ派の人々はあきらかに行き過ぎた解釈をしていました。申命記24:1の「何か恥ずべき事」が漠然としているのを利用し、「料理が上手くない」とか「家の大切なものを壊した」とか、そんな理由だけで妻と離縁できると教えたのです。

 これは神が教えた「結婚・家族の関係」を崩壊させる状態でした。健全な結婚、家庭環境を維持するために神が与えられた「律法の本来の精神」が忘れ去られて、「律法の言葉の範囲ならば何をしてもよい」と考えられるようになってしまっていました。でも17節でイエスが仰る通り「夫婦関係や家族関係を神にあって大切にしなければならない」という律法の精神は、天地が消え失せても決して無くなりはしないのです。

 このように「律法、掟」には限界があることをイエスは示されているのです。律法は自分流に解釈できてしまい、自分を正当化する道具となり得るのです。与えて下さった神の御心から外れるリスクはあるのです。

 律法・掟を守ることよりも大切なことがあります。それは掟を与えられただけでなく「私達のすべてのものを与えて下さった神の前に謙ること」です。掟や律法など「神の教えを私は破っていない」と思っても、それでも謙虚にいることが大切です。そして間違いに気づかされたら、神の前に悔い改めることが大切なのです。

 そのことが最後に回した16節に出てきます。ここを深く味わってメッセージを閉じます。16節をご覧ください。

 最初に「律法と預言者はヨハネ、つまり洗礼者ヨハネのときまでである」とイエスは語られます。もちろん預言者が語ったこと、そして律法の内容が消えるわけではありません。しかし!救い主イエス・キリストが福音を宣べ伝えるために、先に来て道備えをした洗礼者のヨハネの登場によって、古い時代が終わり、新しい時代が始まったのです。

 「それ以来、神の国の福音が告げ知らされた」とイエスははっきり仰います。ルカによる福音書では3章の初めに出てくる「洗礼者ヨハネの宣教」。それまでは直接的に神の国の福音を伝えられたのはイスラエルの預言者、指導者など、一部の限られた人だけでした。

 しかし!今や!すべての人に「神の国の福音」は伝えられるようになったのです。

 掟や律法など「神の教えを字面で追う時代」は終わり、だれもが心で神の福音を受け入れられる時代が訪れたのです。 

 そして私が最も大切だと個人的に感じる言葉が出ます。それは16節の最後の言葉「だれもが力ずくで!神の国に入ろうとしている」という言葉です。この「力ずく」という言葉、別の訳し方では「無理にでも」となっています。要するに「がむしゃらに、なんとかして神の国に入ろう」とする熱心さが大切だということです。

 自分の信仰に満足しないで、神の前に謙虚に罪や弱さを告白し、救いを求める多くの者が、熱心に「神の国に入ろうとしている」とイエスは仰るのです。

 私達は、熱心に「神の国に入る求め」をしているでしょうか?それともファリサイ派の人々のように「自分流に神の教えを解釈し」「現状の自分に満足」しているでしょうか?

 最近、この世では「今まで隠されていたこと、見えなかったこと」が露わになることが多いと感じます。この機会に私達の心の内をもう一度見つめなおしましょう。(祈り・沈黙)

 

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