「最も小さい者の一人にしたのは」11/27 隅野瞳牧師

  11月27日 降誕前第4主日礼拝・アドベント礼拝
「最も小さい者の一人にしたのは

隅野瞳牧師
聖書:マタイによる福音書 25:31~40

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 アドベントに入りました。アドベントは、神の御子キリストが私たちを救うために人となってくださった恵みを自分のものとして受け取り、再び来られる主をお迎えする信仰の備えの時です。本日の箇所では、キリストを待ち望んで生きるとはどういうことかが記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。 

1.神の国は天地創造の時から、私たちに用意されている。(34節)

2.救いにあずかった者は、知らずに愛に生きるようになる。(37~39節)

3.最も小さい者の一人にしたのは、主イエスにしたことである。(40節)

 この箇所は十字架を前にした主イエスの最後の教え、いわゆる「最後の審判」についての話ですが、やみくもに恐れるのではなく、神の救いの恵み、福音をしっかり受け取ることが大切です。神の目、最終的な神の判断という点から見て、何が決定的に大切なのか。主はこのメッセージを通して、わたしたちに今の生き方を問いかけておられます。

 

1.神の国は天地創造の時から、私たちに用意されている。(34節)

復活した主イエスは天におられますが、世の終わりにもう一度来るとお告げになりました。主イエスが再び来られる時には栄光の姿で、天使たちを皆従えて来られます。この箇所に出てくる「人の子」、「王」とはイエス・キリストのことです。王の王として栄光の位に就く時、主はすべての人を御前に集めます。羊飼いは羊と山羊を一緒に放牧していても、夜になると寒さに弱い山羊を洞穴や小屋に入れました。そのように、主に救われた者とこの世に属する者は表面上の区別はないように見えますが、終わりの時に、主を信じて救いに入れられる者とそうでない者に分けられます。分けられるまでの時は、神が忍耐して待っていてくださる時であり、私たちにとっては悔い改めの時なのです。

「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」(34節) 

主イエスは羊に譬えられた正しい人たちを祝福し、天地創造の時から用意された御国を受け継ぐよう告げられます。彼らは道に迷う羊でありました。ただ羊飼いなる主の憐みによって見出され、引き上げられたのであって、彼ら自身によきものがあったから救われたのではありません。天地創造の時からという言葉は(原語では「世の初めから」)、神がこれほど深く変わらぬ愛、確かなご計画をもって、救いを成し遂げてくださることを示しています。私たちは主によって、存在する前から愛されていたのです(エフェソ1:4)。

神の国は私たちの努力によって入るのではなく、神の子とされた私たちに、神が受け継がせてくださるものです。場所というよりも、神と、また主にあって結ばれた兄弟姉妹と共に生きる命のことです。神ご自身を受け継ぐと言ってもよいでしょう。それは終わりの日に完全に受け継ぐために準備され、天に蓄えられている救いです(Ⅰペトロ1:5)。父の財産を使い果たしてしまった放蕩息子は、自分は息子の資格はないと思って父のもとに帰りましたが、父は大変な喜びをもって、あるがままの彼を息子として迎えました。父の存在、父のもとに住むことこそが、息子にとって本当の財産だったのです。

キリストを信じる者はその瞬間から永遠の命に生き、神の愛を味わいますが、それは一部分でしかありません。しかしやがて時が来ると、顔と顔を合わせて私たちは神を仰ぎ見、何の妨げもなく、永遠に神と共に生きることになります(Ⅰコリント13:12)。

「『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」(35~36節)

信じる者とそうでない者を分けたのは、愛の業を行ったかどうかでした。ここで注意したいのは、愛の行いをしたからあなたは天国に入ることができる、と言われたのではないことです。主イエスは彼らの善い業を列挙してから、それを根拠に彼らを右に入れられたのではありません。人が救われるのは人間の業によってではなく、神の救いの御業を信仰によって受け入れることであると、聖書は一貫して語ります。しかし同時にその信仰には愛の業が伴い、それは切り離せないものだとも語られています。

「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:15~17)

ここで主が言われたのは、愛の業を行っていたということは、その人々が主への生きた信仰を持っていた証拠だということです(ヨハネ13:34-35)。彼らの愛の業は、主から受けた愛、命、感謝があふれたものだったのです。

 

2.救いにあずかった者は、知らずに愛に生きるようになる。(37~39節)

「すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」(37~39節)

最も小さい者に愛を注いだ人たちは、それが主イエスにしたことだと言われて驚きました。意識に上らないくらいに、彼らは主イエスに似た者になっていたのです。ただそこに苦しんでいる人がいるから、神に押し出されるままに出てくるわざ。そこには認められたい、喜ばれたいという自分の思いは消えています。私たちが生まれながらの人間であるなら、このように愛することはできません。知らず知らずのうちに自己中心的な考え方、生き方をしてしまうからです。私たちはまず主イエスによって、自分の罪から救い出されなければなりません。罪赦された者は、必ず主と隣人を愛する者となります(ルカ7:47)。主から来る愛は相手を選びません。相手が自分の愛の業に応えてくれるかどうかを問わないのです。

誰かが苦しんでいる時、力になれない自分であることをふがいなく思い、落ち込んでしまいます。けれども急いで「何事か」をなそうとする自分をそこにおき、まずその方のために祈りましょう。そして主の御声に耳を傾けるのです。

愛の行いに大きなことは挙げられていません。自分では気づかなくても、主は私たちの小さな愛を大きなものとして、喜んで受けてくださいます。徒労に感じられる時は多く、関わりたくないと思ってしまう自分の愛のなさに、嫌気がさすこともあります。しかしだからこそ私たちは、主の愛を求めます。あなたがこんな私をも見捨てないで愛してくださったように、愛する者にならせてくださいと。主にあって注いだ愛が無駄になることは決してありません。

隣人に愛を注ぐだけでなく、私たちが助けていただくこともあるでしょう。弱さや失敗を見せたり、助けていただくことは、恥ずかしいことではありません。支え、支えられて生きていくのが、人の本来の姿です。小さい者の立場になって初めて、小さい者に気づくことができるのです。本日の招きの御言葉、レビ記19:8で主なる神はイスラエルの民に、御自身のごとく聖なる者となりなさいと命じておられます。しかしその後を読むと、それは他者と縁を切って聖なる生活をするのではなく、自分自身を愛するように隣人を愛することだとわかります。貧しい方や障がいをもつ方と共に生きるという、具体的な勧めがなされています。「あなたに迷惑をかけないから、私にも迷惑をかけないでほしい」という消極的な道徳ではなく、「あなたと一緒にいさせてください」という方へ進んでいきたいと思います。

 

3.最も小さい者の一人にしたのは、主イエスにしたことである。(40節)

「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(40節) 

王なる主イエスは、「兄弟たち」しかも「最も小さい者たちのひとり」にした愛の行いは、わたしにしたものであると言われました。「わたしの兄弟」とは第一に、主を信じ従う弟子たち、教会を表しています (マタイ12:50)。主イエスに従う者は苦しみを通りますが、それを主はご自身の苦しみとしてくださいます(使徒9:4)。

そしてもちろん、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。小さい者とは、助けがなければ生きていけない者。こちらが愛を注いで助けても見返りが期待できない人です。自分で自分の罪をどうすることもできない私たちもまた、神の目に小さな者です。しかしそのような私たちのために主は十字架で死なれ、復活され、私たちは愛を知りました。

主を信じる者として生きるとは、日曜日に教会で礼拝し、自宅で聖書を読み祈ることだけに終わるものではありません。見過ごしにしてしまいがちな、すぐそばにいる人との関係を大切にしていくことこそが、主の再臨に備える信仰者の歩みです。

本日はお読みしませんでしたが、41節以降は王の左側に分けられた人々の審判が記されます。主のお言葉に、私は悲しみを見ます。呪いに分けられることは神の意図の中に初めからあるものではありません。「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る」ために、神はこの世を愛してくださったのですから(ヨハネ3:16)。主は彼らを愛し、立ち帰るよう繰り返し呼びかけられましたが、彼らは救いを拒み、自らこちらを選び取ったのです。それは王にとって、身を裂かれる苦しみであったはずです。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ。」すると、彼らも答える。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」(42~44節)

 右側の人は愛の業をしたという自覚がありませんでしたが、逆に左側の人は王に対して、「いつわたしたちは…お世話をしなかったでしょうか。」私たちは主に従ってきたではないですか、という言い方をしています。罪の中にいる時、私たちは自分が何をしているかがわからず、よい人間だとさえ思っています。彼らは主に仕えてきたという自負を持っているのですが、その言葉には小さい者が現実として出て来ることはありません。彼らを通して主は、自分の業により頼むのではなく、私が成し遂げた救いを受け取るように、私たちを招いておられます。

二千年前救い主イエス・キリストが来られた時、それはこの世の人々の目にはわからないようなありさまでした。もしベツレヘムで救い主がお生まれになるとわかっていたら、人々は競って自分の宿をヨセフとマリアに提供したに違いありません。しかしこの世の目には隠されていたからこそ、主は飼い葉桶にお生まれになり、どんな人であっても礼拝することができたのです。

主イエスは貧しい中に生き、数に入れられなかった者や、苦しみ悲しむ者といつも共におられました。枕する所もなく御言葉を宣べ伝え、癒し、食事を与えられました。弟子たちが逃げ去る中、主は十字架への道をまっすぐに進み、罪人として父なる神の怒りと呪いを受けられました。まさにこの私の罪の身代わりに、神の子が十字架にかかって死なれたと、誰が知っていたでしょうか(イザヤ53:3~5)。罪と弱さのうちに霊的に死んでいた者、飢え渇き、みじめで孤独な私たちの隣人となって主は私たちに仕え、十字架ですべてを与え尽くして、私たちの罪を洗ってくださったのです。

本日の御言葉は、トルストイの「靴屋のマルチン」という物語のもとになっています。マルチンは妻と息子に先立たれ、生きることに望みを見いだせない老人でしたが、ある人から勧められた聖書を、仕事が終わると読むようになりました。ある日マルチンは「明日、あなたのところに行きます」という主イエスの声を聞きました。次の日彼は部屋を掃除してお茶を沸かし、料理を作って主イエスを待ちます。「イエス様はいつ来られるのだろう」と言う思いが、彼の関心を小さな窓の外へと向けさせます。すると寒さの中で道路を掃除する男や、空腹で乳飲み子を抱える母親、リンゴ売りのおばあさんとリンゴを盗む少年を目にします。マルチンは彼らを家に招き入れ、お茶をいれ、食事をあげ、少年が盗んだリンゴのお金を払ってあげました。主イエスらしき方はおいでにならず夕暮れになり、マルチンは聖書を開きました。すると「これらの最も小さな者にしたことはわたしにしたことです」との御言葉があり、彼は今日主が私のところに来てくださったという喜びに満たされます。

明日、あなたのところに行きますと言われた主イエスの言葉が、これまで見ようともしていなかった窓の外の人々との出会いを生みました。終わりの日は私達を恐怖に陥れるものではありません。「イエス・キリストが私のところに来てくださる」のです。主の救いにあずかる私達にとって、その日は期待に胸ふくらませる時です。そしてその期待が、いままで自分の内側にしか向けられていなかった私達の心の目を「最も小さな者」に向けさせるのです。

最も小さい者として、主イエスはすでに私たちのそばにおられます。神の国はいつ来るのかと尋ねたファリサイ派の人に、主は言われました。「神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と(ルカ17:20~21)。愛しあう私たちの間に、主のご支配があります。

「主を信じてこの世の命を終えたら天国に行ける」という信仰で終わってはいけないのです。主は私たちを新しい人として造り変える救いをお与えになりました。私たち自身が変えられることこそ救いであり、真のクリスマスプレゼントです。互いに愛し仕え合うことを通して、私たちは地上で主に仕え、喜びにあふれた主の羊として再臨の主にお会いしましょう。