「神の栄光のため」9/4隅野徹牧師

  月4日 聖霊降臨節第14主日礼拝・聖餐式
「神の栄光のため」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 11:1~10

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説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 現在山口信愛教会の主日礼拝では、ヨハネによる福音書から続けて御言葉を味わわせていただいていますが、今回から11章に入ります。11章は「有名なラザロをイエスが生き返らせる」箇所です。 ただ生き返らせたことが書かれているのではなく、「その業が為される前に」大切なことがイエスからたくさん教えられます。その上での「ラザロの生き返り」なのです。

 今回はその冒頭の箇所です。早速味わってまいりましょう。

まず、今回の箇所の地理的な背景から話の流れを理解したいと願います。

聖書の後ろの地図6をお開けください。

下の方に死海があり、その少し左に「エルサレム」があるのを見つけていただけるでしょうか?

そのエルサレムの少し右に「ベタニア」という町があります。ここにラザロ、そしてマルタ、マリアの家がありました。イエスは、エルサレムに滞在される際、この兄弟たちが住む家に何度も滞在されたと言われています。

さて、イエスは「ラザロが命にかかわるような重篤な状態である」という知らせをどこで聞かれたかというと、それはヨルダン川の向こう岸の「ベレア地方であった」ことが、直前のヨハネ10章40節以下で分かります。

ちょうど同じ名前の「ベタニア」という町がヨルダン川右岸のベレア地方にもありますが、ここからエルサレム近郊の「ベタニア」でもだいたい40KMぐらいの距離があったことが分かります。山口からですと、小野田か徳山ぐらい離れています。電車や自動車が無い時代、歩いての移動で半日はかかるであろう「離れた場所」で話が展開します。

今朝は1~10節までの箇所ですが、これを3つに区切り見てまいります。

まず1~3節です。(※よんでみます)

ここではラザロのことについて詳しく記述がなされます。エルサレムの近くにある「ベタニア」に住んでいたこと、そして家族は「姉妹がいた」ということが教えられます。この「マルタとマリアの姉妹」は、ルカ10章に出て来る、姉妹でまるで違う賜物をもった「あの姉妹」なのです。

 この姉妹の二人が、40KMも先に滞在しておられるイエス・キリストに「使いを送って」ラザロが重篤な状態であることを知らせようとしたのです。

 3節の言葉に注目しましょう。

マルタとマリアは「今すぐ来てください」とは伝えていません。ただ一言「あなたの愛しておられる者」つまり「ラザロが大変です」としか伝えていません。

 これは「それだけ伝えれば十分だ」という、イエスへの確かな信頼を表すものです。もちろん「すぐに来てほしい」という願いはあったでしょう。しかし、自分の願いを越えて、神の子イエス・キリストは「一番善い業をなしてくださるのだ」という確信があったのではないでしょうか。

 私たちもこの姿勢を見習いましょう。距離がある、症状がひどいなど「人間的な視点で、困難を感じたとしても」あきらめずに、主のもとに祈りを届けましょうその一方で、私たちの思うやり方を越えて、主の最善がなることを信じてひたすら祈る者でありたいと願います。

 続く4節5節は最後に詳しく見ます。先に6節から10節を先に読みます。

まず6節ですが、イエスは「愛するラザロが重篤な状態である」ことを聞かれたはずなのに、なお二日、ヨルダン川の右岸にあるベレア地方に留まられたのです。

この「2日間の滞在延長」ですが、私は「イエスが、わざとラザロのもとに行くのを遅らせた」とは捉えない方がよいと考えます。10章の40~42節に記されていますが、ベレア地方においてイエスを信じる人が多く起こされていました。きっとイエスは「ご自身が、ベレアの地で為すべき務めがある」とお考えになって、なお2日間滞在されたことでしょう。

もともと洗礼者ヨハネが「人々に悔い改めのバプテスマを授けていた」この場所には、「ヨハネが指し示していた真の救い主であるイエスに直接会いたい!」そんな人が多くいたのでしょう。 きっと時間はいくらあっても足りない、そんな状態だったと思うのです。

弟子たちにしてみれば「先生はしばらくここにいて、人々を導くのが一番良い」と思っていたことでしょう。しかし、弟子たちの思いとは明らかに違うことをイエスはおっしゃるのです。それが7節の「もう一度ユダヤに行こう」でした。

ユダヤとは、エルサレムを中心にした地域のことです。ラザロとマルタ・マリアが暮らす「ベタニア」も含まれます。そこには「イエスを目の敵にし、命を狙おうとする者たち」が沢山います。8節の弟子たちの答えはもっともだと言えます。

命を狙うものが大勢いる危険な場所よりも、安全で、信じてくれる人が沢山いる場所にいる方がいいに決まっている!私たち人間はそう思います。しかし、神の子イエス・キリストはそうはお考えになりませんでした。

ラザロに神の業を行うため、マルタ・マリアに愛を示すため、そしてもちろん「ご自身を憎むものの手によって、逮捕され、不当な裁判にかけられ、その結果十字架で死なれる」そのために、ユダヤに出発されるのです。

私たち人間には「はかり知ることのできない、神の時」があるのです。その「神の時」にイエスは、ラザロに会いに行かれたのです。

私たちは「神の時」をどのように捉えればよいのか、そのことが9節10節にあります。(※この2節を読んでみます)

この2節でイエスが教えられていることは分かりづらいですが、私は「自分にとって良いと思いえる時も」反対に「辛く苦しい時も」そこに「世の光である救い主イエス・キリスト」の同行を信じて「光の中を歩む」ことの大切さが語られていると理解します。

私たちの人生の中には「神はなぜ、すぐに助けてくださらないのか。これ以上は耐えられない」と思うような時があることでしょう。しかし、そんな「暗闇」とも感じるような時でも、人知を超えた神の導きは確かにあるのです。

そのことを信じて歩むなら「昼間の歩み、光の中の歩み」になることを信じていただけたなら幸いです。

最後に残った、4節と5節を深く味わいます。

まず先に5節です。ここは「ラザロやマルタ・マリア」をえこひいきするように寵愛しておられたということではありません。

ここにでる「愛しておられた」はギリシャ語の「アガぺー」という言葉です。これはただ「好き」とか「好意を持つ」という意味ではなく、「無条件の愛」「価値なき者も愛する愛」です。

もちろんマルタ・マリアの信仰の姿勢はすばらしく、見習う点が沢山あります。しかしイエスは「その信仰のゆえに特別な業をなさった」のではなく、無条件に一方的に愛の業を行われたということを覚えていましょう。その愛の業は「今日礼拝に集っている、私たちにも起こるのだ」ということを覚えた上で、今日の最も大切なみ言葉である4節を味わいましょう。

改めて4節をゆっくり読んでみます。

死は死で終わらない…大変に慰めを与えてくれる言葉です。もう少し具体的に見ましょう。

 私たちはこの地上において「必ず死ぬ」わけですが、それが「死んで無意味に終わるのではなくて」何につながるかというと、4節では「神の栄光」「神の子の栄光」につながるのだと示しています。

 これはただ「ラザロを癒すことによって、イエスが栄光の神の子であることが証明される」ということではありません。イエスご自身、「栄光を受ける時が来た」などと話をなさっていますが、それは「十字架にかかられる時」を指して言われています。

 すべての人間を愛するゆえに、また救い出したいゆえにかかられた「イエスの十字架」、そしてこれに続く「復活」が、最も神と神の子の栄光を表すものであることは間違いありません。 病気を癒すなど「人間にはできない奇跡をおこされた時」神の栄光が表されるというよりも、「病気を通して、イエスが十字架と復活の道を与えて下さることが証されて」そのことで、神の栄光は表れるのです。

ラザロに限らず、すべての人の死、私たちに身近なそれぞれの人の死を「イエスの十字架・復活」を通して理解する時、そこに「イエスがもたらして下さった永遠の命」の希望が与えられるのです。

 来週以降の箇所に出ますが、ラザロは「特別な神の子の業」によって「生き返り」ます。しかし、聖書には出ませんが、そのラザロもやがてこの地上での死を迎えたはずです。

私たちもいつか必ずこの地上の命を終える日が来ます。それは悲しいですし、つらいです。  しかしながら!「死に至る病を通して、イエスが十字架と復活の道を与えて下さる」ことが証されます。ただの無意味な死ではなくて、そのことを通して神の栄光は表れるのです。

 今日はこの後、ぶどうの会が持たれます。従来の「お祝いの会」ではなく「それぞれにとって死への備え」また「死に至るかもしれない病や老いに関する備え」を考えるときにします。ぜひ死や病を後ろ向きに捉えず「主の栄光が現れるとき」「永遠の命が証しされる時」として、希望をもちつつ備えてまいりましょう。(沈黙・黙祷)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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