4月28日 復活節第5主日礼拝
「聖霊の実を結ぶ」 隅野瞳牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 5:13~26
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本日は、主イエスを信じ救われるとどのように変えられるのかについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。
1.愛によって互いに仕えるために自由を用いる。(13節)
2.聖霊の導きに従って生き、前進する。(16,25節)
3.聖霊は、キリストに似た者となる実を結ばせてくださる。(22~23節)
1.愛によって互いに仕えるために自由を用いる。(13節)
本日の箇所は、パウロがガラテヤ地方(今日のトルコ)の諸教会に宛てて記した手紙です。ガラテヤの人々は主イエスを救い主と信じたのですが、ユダヤ人が守っている神の戒めである律法については知りませんでした。ユダヤ人にとって律法は自分や民族そのもの、神に愛されているという誇りでした。ですからパウロも熱心に律法を守っていましたが、復活のキリストに出会い、御子こそが律法を完成してくださる方であると知りました。律法を人間の力で完全に守って救われることはできない、ただ十字架と復活の救いの恵みを受けるようにと、パウロはガラテヤの信徒たちに伝えたのです。
しかしガラテヤにパウロと違った教えを説く者たちが訪れました。彼らは神の祝福、救いを受けるためには、神の民のしるしである割礼を受けてアブラハムの子孫になり、律法を守らねばならないと教えたのです。律法には食物規定(食べてよいものといけないもの)、清浄規定(清いものとそうでないもの)、祭儀規定(神を礼拝する日時やささげもの)などがあり、その解釈まで含めると膨大なものであってした。普通の人がそれを守ることは困難でした。さらにキリストによるならば、律法は心においても守るべきものですから、完全に行うことは人間には不可能なのです。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(13~14節)
ガラテヤの信徒たちは惑わされて、神の一方的な恵みによって救いに入れられたことを見失っていました。またキリストによって与えられた自由を、「主イエスによってどんな罪でも赦されるのだから、何をしてもいい」と考え、勝手気ままにふるまう者も出ました。彼らは福音を見失い、共食いをする動物のように傷つけ合っていたのです。そこでパウロはキリストが招き入れてくださった自由についてあらためて語ります。それは律法からの自由です。
律法自体は神の御心を示すよいものですが、これを自分の力で完全に守ることはできません。律法は自分や他人が神の基準に達したかどうかをはかるものではありませんが、いつしか自分は守れていると考える者が誇るようになり、できない人は裁かれて重荷を負っていました。律法は私たちに、自分の力では神の御心にかなうことができないことを示し、主イエスによる救いにより頼むよう導くためのものです。御子が十字架によって御父に従いぬいてくださったので、私たちは義とされ救いを受けました。
「肉」とは自分中心に神なしに生きていた「古い自分」です。その古い自分に罪を犯す機会を与えるために、キリストによる自由を用いてはならないのです。ではどのように自由を用いればよいのでしょうか。それはキリストが愛されたように、互いに愛し合うことです。愛によって互いに僕(しもべ)として仕えるのです。神の御心は常に、神を愛し隣人を自分のように愛するということです。愛は律法全体を完成するものです。
主イエスは「仕える自由」に生きておられました。主イエスは御父と常に祈りによって一つ心であり、御父の命じられることだけを行なわれました。その従順は愛に基づくものでありました。主は罪深い弱い私たちに十字架によって徹底的に仕え、御父を主とし従う喜びと自由を私たちにお与えくださいました。
誰ともかかわらずに生活を完結したい。他の人と一緒に生きるかどうかは個人の自由という風潮があります。しかし自分がどう思おうと、私たちは誰かと生きているのです。御子と聖霊と愛し合う父なる神によって造られたので、私たちは互いに愛し合って初めて生きる存在となりました。愛し合う時に私たちは最も幸いな者となるのです。聖書が命じる愛は「互いに」愛する愛です。
神は御自身に敵対する罪人をも愛されます。けれども神のまことの願いは、「あなたと愛し合いたい」なのです。なぜなら一方通行は、本来の愛ではないからです。神は私たちと愛し合うことができるようになること…永遠の命…そこに私たちが生きるようになることを心から望み、お喜びになります。「互いに愛し合いなさい。」この招きにしっかり向き合って愛せない自分の現実を知る。そこから、主の愛を受けて互いに仕える道がスタートしていくのです。
2.聖霊の導きに従って生き、前進する。(16,25節)
「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(16節)
私たちには食欲や性欲などの生理的な欲求があります。健康や経済的安定を求め、価値ある存在として認められたいという思いがあります。これらの欲求は私たちが人として生きるために、神がお与えくださったものです。しかしこれらを必要以上に、自分や人を傷つけてでも追い求めるなら罪になります。
「肉の欲望」とは自己中心的な生き方の追求であり、19節以下で語られている「肉の業」を生み出します。しかし神の霊である聖霊の導きに従って歩むなら、「肉の欲望」を追い求める生活から解放されます。「霊の導きに従って歩む」ことによって初めて愛によって互いに仕える生き方がもたらされるのです。
主イエスを信じる者の内側には、相対する2つの性質があります(参照:ローマ7:15~23)。「肉」は主イエスを信じる前の古い性質です。「霊」は主を信じて新しく生まれた時に受けた新しい、神の性質です。信じた後も肉の性質は内にありますが、もう私たちはそれに従う必要はありません。私たちは神に従うことを選べるようになったのです。ただそれができるようになるためには、聖霊により頼まなければなりません。
「歩む」とは一度きりでなく継続、習慣的な行動を示す言葉です。主イエスを信じる者の内には、神の霊である聖霊が住まわれます。しかし聖霊は自動的に働いて、実を結ぶクリスチャンにならせてくださるのではありません。聖霊は私たちを愛してくださる神であられますから、私たちがより頼む時にお働きくださいます。
野菜を育てようかと思った時に、どこかに畑を借りてプロの方に育てていただいたほうが、楽だしおいしい実がたくさんなるでしょう。でも虫がついて枯れたり曲がったりしても、自分で時間をかけて育てたものの収穫の喜びはひとしおです。聖霊の実もまた、主と隣人との交わりのうちに時間をかけて、涙を経て主が実らせてくださるものです。あなたと一緒に実らせたいと、主は願っておられるのです。
聖霊の導きを知るためには、礼拝だけでなくそれぞれの生活の場で、静まって祈りみことばに聴く時が必要です。主のために1分からでも、先に時間をとりわけることを始めましょう。また霊の導きは信仰の友によっても与えられます。ともに主に従い、道を踏み外しそうな時には留めてくれる友を大切にしましょう。
「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」(17節)
聖霊の御声を聞いたものの従うことができなかった経験を、皆さんお持ちだと思います。私たちが失敗するのは、対立するものを両立させようとするからです。肉の欲望と聖霊の願いの両方があるとき心の内に闘いが始まり、私たちは自分のしたいと思うことができなくなるのです。善をしたいのに悪に負けてしまいます。しかし逆に、自分の欲望に突き進もうとしたけれども聖霊が留めてくださって、誘惑に陥らずにすむということもあります。
パウロは聖霊と肉が共存できないことを、両者の働きを対比させて示します(19節以下)。「肉の業」は①性的な罪②真の神を信じない罪③隣人との関係を破壊する罪④自分自身を破壊する罪 に分けることができます。もしこのような自己中心的な生活を平気で続けているならば、キリストにあって新しく生まれ、聖霊を受けたクリスチャンとはいえません。
生まれながらの人間はみな罪の奴隷である、と聖書は語っています。奴隷は主人の命令に服従しなければなりません。健康を害する、人生を狂わせるとわかっていても悪習慣をやめられない。人を傷つけると知りながらも、つい愛のない言葉が出てしまうのです。罪にとらわれたままである時、人間の結末は霊的な死であると、聖書は語っています(ローマの信徒への手紙6章23節)。体は生きていても虚しく、自分に価値があると思えない。不安と恐れ、孤独、何をもってしても満たされないのです。
しかし主イエスの十字架と復活により私たちは罪から救われ、神とともに神のほうへ生きる命を与えられました。神は、私たちを変えることができます。信仰の葛藤、内なる闘いがあるのは、聖霊によって生き始め、正しい方向に歩んでいるしるしです。主に期待し祈り始めましょう。
3.聖霊は、キリストに似た者となる実を結ばせてくださる。(22~23節)
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(22~23節)
ここでは聖霊が豊かな実を結ばせてくださると約束されています。肉の「業」と書かれているのに対して、聖霊は「実」を結ばせます。これは救いが人によらず、神によって始められ完成されること。この恵みを感謝して受け入れる時に、人格の面でも豊かに成長することを表しています。肉の業は「自分」がいつも中心で、変わろうとしません。相手を憎しみや無関心に基づいて、上から支配しようとします。それに対し霊の実は「聖霊」が中心におられ、御父からの愛に基づいて下から相手に仕えます。
聖霊の結ぶ実は「愛」で始まります。キリストにおいて現わされた、人間に対する神の愛です。たくさんの実があるようですが「実」は原文では単数であり、主の愛にすべてがつながっています。聖霊に満たされる時、状況にかかわらず主とともにある喜びがあります。神との平和によって人との平和が与えられ、内なる平安となります。また忍耐強く寛容であること。神が罪人に慈しみを示されるように親切であること。善意。人から信頼される誠実さ。神が知っていてくださるので、怒ったり弁明しない柔和さ。自分にブレーキをかけられる実が実ります。聖霊の導きのもとにある時、私たちは人の評価に関係なく良い行ないをしたいと願います。とってつけた行ないではなく、内なる私が新しくされて神に従うことができるようになります。聖霊を利用するのではなく、聖霊により頼み、主導権を明け渡すことが大切です。その時私たちは御心に従う道を選び、主の栄光が表われることを願うようになります。
聖霊は、信じる私たちのうちにキリストのすがたを形作られます。御霊の実とは、キリストのすがたのことです(Ⅱコリ3:18)。私たちがキリストに似た者として成長し造り変えられていくことを、聖書では「きよめ」といいます。神は聖なる御自身のように愛において成熟することを、私たちに求めておられ、またそのようにしてくださいます(Ⅰペトロ1:15~16、Ⅰテサロニケ5:23~24)。
最後に、聖霊の導きに従って歩むとは自分にとってどのようなことか、主の御言葉に聴きます。
「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(24節)
同じことをパウロは別の箇所で、洗礼によってわたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたと語っています(ローマ6:6~9)。洗礼は信仰に入る時の単なる儀式ではなく、罪に束縛されていた古い自分が死ぬことです。キリストを信じる時に、キリストの死は私たちの死となります。神は、私たちも十字架につけられて自らの罪が裁かれ、死んだものと見なしてくださるのです。主を信じその十字架の死と一体となった人は、罪の呼びかけに答えなくていい、翻弄されないようになるのです。終わりの時までは、罪との闘いは継続します。しかし自分が罪に対して死に、神に対して生きる者となったことを信じて聖霊により頼む時に、罪に対する勝利が与えられていきます。
主は十字架に死なれただけでなくよみがえられました。ですから私たちも古い自分が十字架につけられ、キリストとともに新しい人としてよみがえります。クリスチャンとなるということは、自分が握りしめていたものを手放して神の命によって歩きだすことです。神と共に生きる、隣人を愛して生きる新しい人のスタートです。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19~20キリストがわたしのうちに生きてくださる、何という恵みでしょう。
やがて私たちが神の国を受け継ぐ時、神は聖霊によって私たちをキリストに似た者へとまったく聖なる者としてくださいます。
主よ、あなたを畏れず従わなかった罪をお赦しください。私をあなたの喜ばれる者に、友をまた家族を愛せる者に造り変えてください。…主の助けによって日々古い自分に死ぬなら、私たちは日々新しくされていきます(Ⅱコリント4:16)。私たちはキリストのもの、キリストが私たちの主です。「私と一緒に、救いの業に加わってほしい」主はあなたを招いておられます。主の招きに自由にお応えして、豊かに愛する者となれますように。その恵みの中に生きる時、私たちは自分の願いが達成されるよりも大きな、この世にない喜びと平安を得ます。互いに傷つけ合うのではなく、私たちは聖霊によって愛し仕え合います。一つとされて、キリストのみ跡に従ってまいりましょう。