4月7日 復活節第2主日礼拝
「顔から涙をぬぐってくださる神」隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 25:1~9
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先週はイースター礼拝を幸いのうちに守ることが出来まして、大変感謝いたします。
イエス・キリストの復活を覚える「イースター礼拝」において、一人の姉妹が「キリストの復活の命」にあずかる「洗礼」を受けられたことも、本当に感謝でした。
イースター礼拝を通して、多くの方が「素直に自分の心を見つめ、罪深い自分をも救うために神の御子が命をささげて下さり、その後復活の命を与えて下さっていること。それほどまでに自分が愛されているのだ」ということを思い出す機会になったことを信じます。とくに洗礼式を通して、受けられた姉妹だけでなく、見守られたお一人お一人が、「ただの死で終わらない。罪の力、死の力を打ち破った神の御子の復活と、自分の命が繋がっているのだ」ということが迫ってきたなら、感謝です。
その後、バザーやミニコンサートを行い、道行く人々に「教会と触れていただくべく」多くの方がご奉仕くださいましたが、心なしか「いつもよりも皆さんが喜びに満ちておられた」ように感じました。
このように濃密な、先週の日曜日のイースター礼拝でしたが、今週もまた「高田夫妻を招いてのチャペルコンサート」を行って、古(いにしえ)の信仰の先達に心はせる時間を持つほか、礼拝直後には「墓前で献花とお祈りの時間をもって」この山口信愛教会を支えてこられ、天に凱旋された信徒たちを覚える時間を持つ、など「特別な日曜日」を持てますことを主にあって感謝します。
そんな今朝の日曜礼拝の説教箇所ですが、旧約聖書イザヤ書25章が示されました。
イエス・キリストがこの世に人としてこられるはるか前に預言された言葉ですが、ここには7節、8節にあるように、「神が、罪深い私たちをお救いくださり、永遠の命をお与えくださる」希望が語られています。
罪深い私たちがそれでも神に愛され、大切にされる。そして特別な憐れみによって「永遠の命をいただける…」イザヤ書25書で預言された約束・希望は、古のキリシタンたちにとって、そして山口信愛教会の歴代の信徒たちにとって「生きた希望」であったことは間違いありません。
代々の信仰者たちに思いをはせながら、私たちも「復活の主イエス・キリストがもたらす永遠の命をいただく希望」を味わえたらと願います。
今日、皆さんに中心的な箇所としてお伝えしたいのは、7節から9節です。この中の8節は聖書の中でもっとも「天国がどんな場所か」が教えられる箇所だといわれるヨハネの黙示録の21章3節、4節の「基となっている旧約聖書の言葉だ」と理解されています。
「神は自ら人と共に住んでくださる。そして、民たちの目から神自ら涙をぬぐい去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも、嘆きも、労苦もない…」 1
天の国はそのような場所であるという「本当に慰めと希望に満ちた言葉」がヨハネの黙示録21章で葬儀のとき、必ず朗読される言葉です。
これと同じような教えが旧約聖書の時代に、預言者イザヤをとおして語られていたわけなのですが、イザヤはいったいどのような背景でこの言葉を預言したのでしょうか?
まずはそのことから見てまいりましょう。
1節から5節をご覧ください。
ここでなされている預言は「神が高ぶる者を懲らしめ、いま苦しんでいる者たちを引き上げて下さる」という約束です。
イザヤが生きていた紀元前8世紀ごろ、中東ではアッシリア帝国が圧倒的な支配をしていた、ユダヤもその脅威にさらされていたのです。しかし神は、イザヤを通して「そのような圧倒的軍事力をもった大帝国も、いつか滅び去る。そして神のご支配がなるのだ」ということを語っているのです。
いつまで続くのかもわからない苦しみを味わう民たちに対して、神はイザヤに言葉を語らせ、希望を届けたのでした。
イザヤ書では、その他の多くの箇所でも「この世で顧みられることなく、貧しく苦しい思いをしている者が慰められる」ことが預言されていますが、今回の箇所はさらに一歩踏み込んで語られます。
とくに4節の「まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦」という言葉。私たちは「弱さと貧しさ」を感じることが多くあるとおもいますが、そんな私たちに対して大きな慰めを感じられる聖書箇所です。
それでは今回の中心の7節から9節を味わいましょう。ここでは神は死を永久に滅ぼしてくださるという約束が預言されているのです。
7節は、「民の顔を包んでいた布と、覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる」というような希望が語られます。これはイエス・キリストが十字架にかかって死なれたあと、お墓に葬られたとき「そのお体をおおっていた布」や、それを前もって表した「ラザロが復活する場面」を連想させる言葉です。
アッシリア帝国が脅威をもたらすような暗黒に時代にあって、「後に来られる救い主イエス・キリストによって、死が滅ぼされる」という希望がすでに約束されているのです。
8節には、ヨハネの黙示録にも引き継がれる「大きな慰め」が約束されます。
私たちの目の涙が拭い去られるとあります。 死がもたらす悲しみを神が取り去ってくださるからです。
神は私達の一人ひとりの悲しみを良くご存知です。それらを「個別に!」「優しく取り去ってくださる」のだと約束されます。
私たち一人ひとりが今「どんな苦しみを経験していたとしても」、神はその一つ一つを覚えてくださいます。そして神の御前にいくそのとき、「あの時は大変だったね、ご苦労だったね!」と声をかけてくださいます。
だからこそ、私たちはこの地上の歩みで直面する「患難、労苦」を耐えることが出来るのではないでしょうか。
やがて天において「キリストを通して天に召された者同士が、互いに手を取り合って再会を喜び、そしてイエス・キリストに「顔と顔を合わせるようにして相見える時がある」それが古の昔から、信仰者たちが待ち望んだ「生きた希望」なのです。
クライマックスともいえる9節には「死に対する勝利をもたらす神がわたしたちの神だ」という「熱い信仰告白」がなされます。その「神」を待ち望むところに救いがあることが告白されているのです。
これこそが「聖書の証しする神」であり「神にあって持つことのできる希望」であります。人間が簡単に「神」としてもてはやされる日本に生きる私たちですが、「聖書の証しする神は、世の中一般で理解されている神々と何が違うのか…」その一つの答えがこの9節にあるように思います。
このあと午後から、高田ご夫妻が「日本でキリスト教が禁教になっていたころのキリシタンの、信仰告白としての歌」を教えていただきますが、 当時日本で漠然と信じられていた神々と「聖書が証しする神」の違いとして、彼らが」大切に語り継いだのが「目に見えるものを超えて、信じる一人ひとりに永遠の命をお与えくださる神である」ということだった、そこにこそ希望があるのではないでしょうか?
私たちも「死を打ち破られる神」を信じているという「信仰告白」を生き生きとしてまいりましょう。どのようなお方であるのか、この箇所は教えているのではないでしょうか。」
最後に6節を読んでメッセージを閉じます。
ここには全民族の救いを象徴する神の国の宴の描写がなされています。
6節から「終末の神の国の祝宴では、イスラエルのみならず、全ての民が祝宴に預かるように招かれる」ことが書かれています。これは、イエスが福音書の中で語られている「神の国の祝宴」にそのまま受け継がれ、それを「私たちが、地上にいながらにして、体感できるようにと」キリストは聖餐式を制定されました。
このあと聖餐式を行います。今日は、先週洗礼を受けられた杉山姉妹とご一緒にはじめて持たせていただく他、宮崎から来ていただいた高田ご夫妻など「新しいつながりが与えられた、天の宴」を感じながら聖餐式を持てることを感謝します。さらには、既に天に召された「キリストにある兄弟・姉妹」を感じながら、聖餐を受けられたら素敵だと思います。 古のむかしから、信仰者たちの希望であった「永遠の命の希望」が、今日皆様の心にも迫ってくることを願い、お祈りいたします。 (祈り・沈黙)