「あなたがたに平和があるように」4/17隅野徹牧師

  月17日 復活節第1主日礼拝・イースター礼拝・転入会式
「あなたがたに平和があるように」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書20:19~29


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 本日のイースター礼拝の説教箇所は、ずっと読んでいます「ヨハネによる福音書」か語らせていただきます。聖書箇所は「復活後、ユダヤ人たちを恐れて部屋にこもっていた弟子たちのところに復活のキリストが表れる」場面を選ばせていただきました。

この部分には、説教題につけた「あなたがたに平和があるように」という言葉が3回も出ます。この言葉は、今世界の一人ひとりにとって「関心の高い言葉」なのではないでしょうか。イエス・キリストの復活と「平和」がどう関係あるのか、どうつながってくるのか…み言葉からイエス・キリストの復活と「本当の平和」について考えてまいりましょう。

 まず19節一つ目の文から見てまいりましょう。ここから、イエスが復活されて、墓が空になっていた「あの日曜日」弟子たちが一つの部屋に集まった、しかし彼らは集まっていた家の戸に鍵をかけていたことが分かります。

ある牧師は、この「弟子たち同士で集まり、鍵をかけて閉じこもっていた姿」と「私たち、今日の日本人クリスチャン」を重ねて見ています。それは「この世の様々な葛藤や敵意から逃れて、脅かされることのない人間関係を求めて教会に集う」という面が大きいからだ、という理由からのようです。

私は「確かに!」と思いました。「弱さを分かち合い、弱さを認め合っている交わり」は安心できます。でも!そのような「互いに安全な交わりが外からの敵意から守られ、気心の知れた人々の交わりが安全に保たれるために」戸を閉じて鍵をかけたくなるところに問題はあるのだと思います。

安心していられる場所であることを保つことは大切です。しかし一方で戸を閉じて鍵をかけたくなる…つまり教会に様々な人がやたらに入ってくることを望まなくなる。あくまでも互いに安全である人だけの集まりにしたい、そのような思いはないか? 今回私にはそのことが強烈に示されました。

 しかし!ここで大事なことは、19節が前半だけで終わっていないということです。後半、つまり二つ目の文には次のように記されています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」

 鍵をかけて閉じこもっていた「その場所に!」イエス・キリストが来てくださいました。そして「あなたがたに平和があるように」と語ってくださったのです。さらに、イエスはこの言葉と共に、「3つのこと」をなさったのです。

 ただ挨拶のように「平和があるようにね!」と軽く声をかけられたのではありません。言葉とともに、言葉と併せてなさったイエス・キリストの行為が、「あなたがたに平和があるように」という言葉の意味をはっきり示していると、私は今回、強く思わされました。 

今日のイースター礼拝は、言葉に合わせて、弟子たちになさった「3つのこと」に注目して、そしてここにポイントを絞ってお話しをさせていただきます。

 一つ目は「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹とをお見せになった、その行為です。

なぜ手とわき腹をお見せになったのでしょうか?それはそこ「大きな傷跡があるから」です。

 その大きな傷跡は弟子たちに彼らの罪を改めて思い起こさせるに十分であったに違いありません。彼らは逃げ、愛する主を見捨てたのです。その行為は結果としてイエスを十字架上の死に追いやったのです。

 彼らの「裏切り」という過ちの事実をまさに突きつけるものが「手の釘跡、わき腹の傷跡」でしたが、イエスはその「傷を隠されず、敢えて見せられた」のです。

本当は責められて当然なのにイエスはそうなさらなかった。そして言われたのが「あなたがたに平和があるように」という言葉だったのです。     

その言葉と共に彼らが受け取ったのは罪の赦しに他なりませんでした。だから「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれているのではないでしょうか?

皆さん想像してみてください。自分が裏切ったの結果、ある人が傷を負うはめになったとします。その相手から「傷口を見せられたら…」どんな気持ちになるでしょうか?

私は以前、この20節、21節に記された弟子たちの反応を「変だな」と思っていました。手の釘跡とわき腹の傷跡を見せられたら普通は喜べないはずないだろう!でも弟子たちは喜んだとある。復活の主に会えた嬉しさは分かるとしても、傷を見せられて喜べるか?と…。

しかし今回、説教を準備する過程で迫ってきたことがありました。それはイエスが「御傷を示された上で」併せて「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったからこそ、弟子たちは「赦された喜び」そして「赦された者として、再び主イエス・キリストと共に生きることができるという喜び」を感じたのだと。 この「赦された喜び」こそ、真の平和につながっていくものであることは強く信じます。

24節から29節では復活の主とトマスとの再会の物語が出てきます。(先ほどの子ども礼拝で、詳しく語ったので、あまり深堀しませんが…) 1週間前の日曜日にいなかったトマスに対して、イエスは他の弟子になさったのと同じようなことをされます。

26節後半をご覧ください。イエスは「あなたがたに平和があるように」という言葉を言われるとともに27節、御傷を見せられたのです。ここではただ見せられるだけでなく、疑うトマスに対して「傷を触ってみなさい」とまで仰るのです。

数日前に「裏切り」の過ちを犯しただけでなく「復活したなんて意地でも信じるか!」と、イエスに反抗する過ちも犯したトマス。しかし、そのトマスも「あなたに平和があるように」との言葉とともに、主から御傷を見せられた時、「赦された喜び、平安、平和」というものを心から感じたのではないでしょうか?

私たちも同じです。キリストの御前において罪を示され、そして、そのキリストから「あなたがたに平和があるように」と御声をかけていただき、赦しを受け取るのです。

 続いて「あなたがたに平和があるように」という言葉とともに、イエスがなさった2番目のことについて注目しましょう。それは弟子たちに息を吹きかけて聖霊を受けるようにいわれたことです。

これは21~22節に出てきますので、この2節をご覧ください。

 平和があるように、命があるようにと息を吹きかけられる。イエス・キリストご自身の霊をお与えになるのです。「聖霊を受けなさい」と。

聖霊を受けることによって、受けたその人の心の中にキリストは宿る。そしてキリストとともにあたらしく生きていくことができる、神との間に「平和な関係を保って生きることができる」ということは聖書全体が教える真理です。  

いま祈祷会で学んでいるローマ書8章などでは、とくにそのことが語られますので、よかったらお家でお読みください。

弟子たちの内側にキリストが入ってきました。それはただ「鍵をかけていた部屋の中に入ってこられた」という現象を超えて、心の中に入って、宿ってくださる、崩れていた神との平和を回復させてくださるのだ、ということを確かに示すのです。

このように「復活の主の聖霊」は弟子たちの内面の惨めさや、神に背く罪から開放して「神との平和」をもたらして下さったのです。それでも26節、弟子たちは一週間ずっと鍵をかけて閉じこもっていたとあるように、聖霊を受けたからといって、いきなり「完璧な誤りのない生き方を急にできるようになったか」というと、そうではありません。

しかし!復活のキリストの霊が内に住んで下さることで弟子たちは確かに変わりました。

罪深い私だけれども、キリストが内にいて、ともに歩んでくださる。その感謝な思いは、目に見える状況をこえて「神との間に平和が回復するのだ」というメッセージを受け取ったと確信します。

最後に「あなたがたに平和があるように」という言葉とともに、イエスがなさった3番目のことについて注目しましょう。それはこの世に出て行って「罪の赦し」を証ししなさいと言われたことです。

これは23節で見て取れます。(※よむ)

最初にお話ししましたが、教会は「単に安心して身を置くことのできる逃げ場」ではありません。」ここまでお話ししたように復活の主は「あなたがたに平和があるように」という言葉とともに「罪の赦し」を与え、聖霊に満たされ「神との平和」を実感させてくださるのですが、それで終わらず「この恵みを自分のものだけにするのではなく、世界に遣わされる」ことが弟子たち、そして教会につながる私たちに求められているのです。

23節の大切な内容をもう少し深めましょう。 天の父なる神が御子キリストをこの世に遣わしてくださいました。十字架で罪を贖ってくださったあと、死に打ち勝って復活され、弟子たちをはじめとする、すべての人間に「あなたがたに平和があるように」と言ってくださり、罪の赦しを与えてくださいました。

そのキリストが弟子たちをはじめとする私たちを遣わしてくださるのです。私たちが受けた神の恵みと赦しを「周りの人に、そして世の人々に」伝えるに遣わされるのです。

「あなたがたに平和があるように」と口先だけで語るのではない。赦された恵みを知るものは心から世の人々に対して「あなたがたに平和があるように」と告げることができるのです。

23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉。これは少し分かりにくい言葉です。罪を最終的に赦すことができるのは、神であって、弟子たちではありません。

しかし!弟子たちが赦すならば、神が赦してくださると主は言われたのです。いわば「罪の赦しの言葉」が弟子たちに託されたのです。そしてまた私たちにも託されているのです。

罪人であるけれども「罪赦された恵みを知った弟子や私たち一人ひとりが」、愛をこめて、また主の御心を思いつつ「あなたがたに平和があるように」と伝えることで、神の使者としての役目をはたすことになるのです。

いま、世界は罪がうごめき、神との平和が崩れ、もちろん人と人との平和が「大きく崩れている」そんな状態です。

だからこそ、まず私たちが「復活の主を心に迎え入れ、聖霊に満たされて」赦される喜びから来る真の平和を実感しましょう。それは世の中がどんなに戦いで満ちていても、動かされることのない「平和」です。そのことを今日の聖書箇所は何より証ししています。

この赦しの喜びを、弟子たちは世に出て行って証ししました。そのことで世界の歴史は大きく変わったのです。私たちも今こそ、復活の主に赦される恵みを、この世界で証してまいりましょう。

(祈り・沈黙)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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